「みんなちがってみんないい」のか?

哲学×ビジネス

今回は「みんなちがってみんないいのか?」について考えていきましょう。参考文献は『「みんなちがってみんないい」のか?』(著者:山口裕之さん)です。

【みんなちがってみんないいのか?】相対主義がいいのか?普遍主義がいいのか?

「みんなちがってみんないい」とか「正しさは人それぞれ」という言葉をよく聞きます。このような「それぞれの価値観には優劣をつけることができない」という考え方を「相対主義」といいます。はたして正しさは人それぞれという主張は本当に多様性を尊重しているのでしょうか?

たしかに日常の些細な好みなら「みんなちがってみんないい」でも問題ない場合はあります。しかし現実には両立できない意見のどちらか1つを選ばないといけない場合もあります。このような場合はどうにかして妥協点や合意点を見つける努力が必要です。しかし日本では時の権力者が数の暴力で自分の意見を強行採決しているのが現状です。批判に対してきちんと対応しないではぐらかし論点をずらしてごまかすのが当たり前、そんな状況で「正しさは人それぞれ」などと言っていたら権力者は大喜びです。だって正しさは人それぞれなのであれば誰にも正しいことは決められないのでどんなに話し合っても無駄だからさいごは権力者が決めることになってしまうのです。つまり「正しさは人それぞれ」というのは多様性を尊重するどころか、時の権力者が主観によって正しさを強引に決めることを正当化してしまうのです。

そこでよくある答えとしては「科学的に正しさを判断するべきである」というものです。「客観的に正しい答えがある」という考え方を「普遍主義」といいます。あの名探偵がよく「真実はいつも1つ」と言っていますよね。しかし「地球温暖化は進んでいる」派と「地球温暖化はうそだ」派があるように、科学もまた必ずしも正しい答えを出してくれるわけでもありません。そのため時の権力者は自分にとって都合のいい科学の意見を用意するようになります。東日本大震災が起こる前は「原子力推進派」の学者の意見ばかりを聞いていましたよね?このように考えると「客観的な正しさ」を科学に頼ることも問題がありそうです。

今回の動画では「人それぞれは正しいのか?」「そもそも正しさとは何か?」「正しさはどのように作ることが望ましいのか?」について考察していきます。「正しさは人それぞれ」の相対主義も「真実はいつも1つ」の普遍主義も、どちらも相手のことをよく理解しようとしないという点では似たようなものなのです。二者択一の罠に陥って他者との関係を切り捨てたり拒否したりするのではない、新しい知的態度をどのように獲得するのかぜひ一緒に考えていきましょう。

1 「人それぞれ」論はどこからきたのか?

そもそも西洋文明とは「普遍性」を偏重する文明でした。古代ギリシアのプラトンやアリストテレスも諸現象に共通して当てはまる、「普遍的なもの」を探究することが学問であると考えていたのです。プラトンの「イデア論」やアリストテレスの「四原因説」などがまさにそうです。

また西洋文明では宗教や国家についても「普遍性」を強調するのが特徴です。西洋の宗教とはキリスト教でありその最大派閥といえばカトリックです。「カトリック」の語源は古代ギリシア語の「カトリコス(普遍)」なのです。キリスト教の母胎であるユダヤ教はユダヤ人という特定の民族だけの宗教ですが、カトリックは特定の民族ではなく誰しもが信仰するものという意味があるのです。

そして産業革命後の近代化した西洋国家は自分たちの文明こそが「普遍性」をもつとしてアフリカやアジアをおくれた文明であると位置づけ侵略して植民地にしていったのです。ヘーゲルは「西洋における国家は人倫(道徳と法)の最高段階である」と考えました。しかし第一次世界大戦において「人倫の最高段階」であるはずの西洋国家は、他民族との殺し合いを主導してあげくのはてに多くの自国民をも死に追いやりました。私たちの生活を豊かなものにするはずの科学技術は残虐な大量殺戮兵器を生み出しました。

このような歴史の流れの中で西洋文明の「普遍性」への疑いが出てくることになるのです。そこでハイデガーやサルトルの実存主義の哲学が流行するようになるのです。実存主義の哲学と言えばサルトルの「実存は本質に先立つ」です。実存とは「現実存在」のことであり本質とは「それが何であるのか」という意味ですが、西洋哲学ではプラトンをはじめ基本的に「本質は実存に先立つ」という考え方でした。西洋哲学では具体的な現実の存在(わたしの個人的な特徴)を明らかにするのではなく、「人間」そのものの本質(哺乳類で言語を扱うなど)を探究することを重視したのです。しかし実存主義の哲学者たちはこの関係を逆転させたのです。ハイデガーは人間が自己の存在の意味を問うことができる「現存在」であると考えました。ものは自己の意味を問うことはできないけど存在しているのに対して、人間は「生きるとは?わたしとは何か?」と自らの意味を問うことができるということです。

その後は普遍的な真理よりも個人の具体的な在り方を重視する思想が広がります。第一次世界大戦の後で「民族自決」の原則がかかげられたことはその第一歩といえます。パリ講和会議で日本は「人種差別の撤廃」を国際連盟の規約に入れるべきと主張しますが、アジアやアフリカに対する西洋諸国の差別的な目線を変えることはできませんでした。第二次世界大戦を終えてようやくそれまで支配されていた植民地は独立していきます。そしてそれぞれの地域や文明には西洋文明とかわらない価値があるという主張がようやく受け入れられるようになっていくのです。

そしてサルトルの哲学を否定する形で登場するのがレヴィ=ストロースの構造主義です。実存主義が多様な個人の生き方に焦点を当てたのに対して、構造主義は歴史や文化の多様性に焦点を当てるようにしたのです(文化相対主義)。レヴィ=ストロースはアマゾンの未開部族の調査を通してそれぞれの社会における親族関係や神話に人類共通の構造があることを指摘しました。このような文化相対主義はいってみれば「文化はそれぞれ」というものだといえます。

そしていよいよ「文化はそれぞれ」から「人それぞれ」への転換が始まります。植民地が独立していくのと時を同じくして公民権運動やフェミニズム運動、また性的マイノリティへの権利運動が盛んになっていきます。これらの運動は世界大戦の荒廃から経済的な復興が進み人々の生活が向上していく中で、「学校教育を受けて労働者になる」「女性は家事をする」「結婚して家庭をつくる」などの国家や社会が公認する「正しい生き方」からはみ出す人たちが主張したことで広がりました。ところがこれらの運動は次第に収束していくことになるのです。なぜならそれぞれが公民権運動で「白人」に対する「黒人」という集団の権利を主張したり、フェミニズム運動で「男性」に対する「女性」という集団の権利を主張したりするのですが、その集団の内部でもさらなる多様性(白人の女性など)が浮き出ることになったのです。社会的な変革をもたらすためには大きな連帯が必要になるのですが、多様化したことで内部から分裂していったことがその大きな原因であったように思います。もちろんこれらの運動はさまざまな権利を認めるべきという考えを社会に浸透させました。しかしどうすれば多様な個人が抑圧されることがないように多様な個人と連帯すればよいのかという課題も残すことになったのです。

フランス現代思想のデリダやドゥルーズは西洋文明の普遍的な正しさを批判するとともにその独善的な社会体制をよりよいものに改善していこうとする考え方を広めました。さらにアメリカでは新自由主義の考え方が広がりをみせます。ロバート・ノージックの最小国家論では国家の介入をできる限り少なくして個人の自由を尊重するべきであるという立場がとられました。これは他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいという考え方であり、他者を尊重しているように思いますが他者と関わらないようにしようということなのです。フランス現代思想が自由と平等のバランスをできる限りとるようにしていたのに対して新自由主義ではそのようなややこしい手続きは一切ありません。つまり「新自由主義」こそが「人それぞれ」の思想であると結論づけることができるのです。

近年では多くの国々が新自由主義的な政策を推進するようになりました。なぜなら新自由主義的な政策(民営化など)は財政難に苦しむ政府にとって都合がよく、「人それぞれ」で連帯することなくバラバラでいてくれる方が支配もしやすいのです。その結果として貧富の差はますます拡大することになり社会は分断されていったのです。

このような世界が「人それぞれ」という新自由主義の帰結であるとするならば、わたしたちは多様な個人が抑圧されることなくどうすれば連帯できるのかという課題にもういちど真剣に取り組まなければいけないのではないでしょうか?

2 「人それぞれ」というほど人はちがわない?

近年の研究の結果わたしたち人間は文化がちがっていても、それほど人はちがわないということが明らかになってきました。言語学においてはソシュールが「言語の恣意性」を主張することで「正しさは言語それぞれ」であると考えました。しかし色の名前や見え方を例にとってみると遺伝的・生物学的な構造が影響していて、それらはだいたい同じという普遍性を見つけることができたのです。またチョムスキーは「言語を学ぶためには生得的な能力が必要である」と考えました。たしかにサルやチンパンジーが言語を学ぶことはできないが人間はできることからも、言語を学ぶためには前提としての知識のようなものがなければ不可能なように思えます。さらにドナルド・ブラウンは著書『ヒューマン・ユニバーサルズ』を出版しますが、その意味はタイトルの通り「人間の普遍的なもの」ということです。ブラウンは「普遍的人間」の特徴について「言語をもつ」「物語や詩をつくる」ことから、「集団生活」「インセスト・タブー」「礼儀作法やもてなしをする」などをあげて人類学の分野でも人間にとって普遍的なものの存在が認められるようにもなりました。

このように「人それぞれ」というけど実はそれほどわたしたちはちがってはいないのです。つまりだいたい同じ人間は多様性があるもののおおよそ普遍的な文化を形成するのです。だからこそ言語や文化の多様性は人間にとって理解可能な範囲に留まることになるのです。ただし「〇〇が人間にとって正しいあり方だ」と言いたいわけではありません。「事実としてそうである」ことと「そうすることが正しい」は別の問題なのです。そこで「正しさ」をどのように決めていけばよいのかが問題になるのです。

3 「人それぞれ」で勝手に決めてはいけない

では「正しさ」はどのようにつくられていくのかについて考えていきましょう。当然「正しさ」は「人それぞれ」だからと個人が勝手に決めていいものではありません。「正しさ」はそれに関わる他者もふくめて合意できてはじめて「正しい」ことになるのです。それでは「正しさ」について具体的に「道徳的な正しさ」と「事実認識の正しさ」という2つの場合について考えてみましょう。

3-1 道徳的な正しさ

「道徳的な正しさ」とは「人間の行為の正しさ」のことです。功利主義の倫理学や新自由主義の経済学では「最大多数の最大幸福」が正しい選択をするための原理だとされています。しかし人間には自分の利益をなげうってでも公正や平等を守ろうとする傾向があるのです(マイケル・サンデルの『それをお金で買いますか』や「最後通牒ゲーム」など)。そのため人間は正しいことと正しくないことを感じる「感情」の仕組みが備わっていてそれが道徳的な善悪を判断するための起源になると考えられるのです。

さらに人間は自分の感情や意図を他者に伝達しようとするし相手も理解してくれます。そうして人間は理解を共有して新たな社会のあり方を合意していくことができるのです。たとえば人間にはおそらく「女性を劣位」に見る傾向があるようです。そして実際にそのような感情の仕組みによって社会的な序列が作られがちでもあります。しかしだからといってそのような仕組みは女性が合意した結果であるとは限らないのです。そこで「これは不正である」という主張が反発されながらも次第に共有されていき、女性の指導者が誕生するなど社会的な序列についての正しさが合意形成されてきたのです。

このようにして「正しさ」は社会的に形成されていくのですが、だからといって「正しさは社会それぞれ」といって終わらせてはいけないのです。なぜならルールを正当化した手続きそのものが正しいとは限らないからです。先に述べたように正しさはそこに関わる人たちの合意があってはじめて正当化されるのです。先日「旧優生保護法」のもと行われた強制不妊は違憲であるという最高裁の判決が出ました。ここでは昔のことについて裁判をすることの是非や保障の有無については語りませんが、これについて「その時代では正しいことだった」という意見が少なからず見られました。たしかに当時のルールにおいて正当な手続きによって法律として定められたものではあります。しかしその対象となった人たちは本当にその法律に合意していたのでしょうか?そこに関わる人たちと共に合意形成していないルールを強制することはそれ自体が不正です。そもそもルールを正当化するための手続きそのものが不正であったのですから。「正しさは文化によってそれぞれ」という相対主義の立場で考えてしまうと、「その時代では正しい」ことに反論することはできません。だからこそルールが正しいかどうかではなくルールを正当化する手続きが正しいかどうかを考える必要があるのです。

わたしたちは自分が納得して合意したルールには強制されなくても従うことができます。(もちろんたまには違反することがあってもそれは自分で反省することができます)。しかしみんなが合意していないにもかかわらずそのルールを強制するのは不正です。だからこそわたしたちは「社会的な正しさ」のもと不正を強いられている人たちの声を聴く必要があるのです。そしてより正しい正しさをもとめていくことが正しさをつくるための正しい手続きであるのです。なぜならわたしたちは相手の感情を聞き事実と論理にもとづいて思考することで、みんなが共有することのできる「より正しい正しさ」をつくることができるからです。

3-2 「事実認識の正しさ」

みなさんはこの2つの写真を見比べてどちらの人数が多いと思いますか?右はオバマ大統領で左はトランプ大統領の就任演説の写真なのですが、誰がどう見たって右の写真の方が人数は多いように見えますよね?しかしホワイトハウス報道官は「トランプ大統領の就任式は史上最多」と発表しました。後日このことを指摘された大統領顧問官は「報道官は間違えていない」と答えました。そして「彼の言ったことはオルタナティブ・ファクトである」と開き直ってしまったのです。このようにもしも明らかな事実すらも「事実は人それぞれ」などと言ったら、わたしたちは論理にもとづいた話し合いをすることは不可能になってしまいます。

たしかにわたしたちは自分が知覚しているものすべてを認識しているわけではありません。目の錯覚によって見間違えたりだまされたりすることもあるでしょう。その意味では目で見てわかるような基本的なことですら、わたしたちは正しい事実を他者と共同してつくらなければいけないはずなのです。

そのうえで問題なのは「正しいかどうかすぐにはわからない場合」の正しさについてです。たとえば原子力発電の放射性物質の危険性や地球温暖化の影響などが考えられます。このような時に正しさはどのように形成されていくのかを考えてみましょう。わたしたちがものごとをどのように認識するのかについて、イギリス経験論の哲学者バークリーは「存在するとは知覚することである」と考えました。これは知覚していなければそれは存在していないという極端な考え方です。このような思想がめぐりめぐって現在の「事実は人それぞれ」につながっているのです。

いっぽう「世界はわたしたちがどのように認識するのかに関わらず存在している」という「実在論」つまり「真実は1つ」という考え方を主張する哲学者も出てきました。大切なことはどちらであろうが「正しい事実はそこに関わる人によって作るべき」ということです。そもそもわたしたちは「知覚」をとおしてものごとを認識しています。そのため世界についての共通理解を形成するためには知覚の認識が共有されている必要があります。だからこそ自分にとって都合が悪いものは存在しないという人とは共に生きることはできません。先に紹介した写真のように「左の写真の方が人数は多い」という人にはどうしようもないのです。

そうはいってもわたしたちの知覚はすべてまったく同じというわけではありません。その意味で「わたしが認識できるのはわたしの意識に現れたものだけである」といえます。もしかしたらわたしたちは「水槽の中の脳」なのかもしれません。そこで近年になって登場したのがマルクス・ガブリエルの「新実在論」です。ガブリエルは「事実は人それぞれ」論と「人それぞれではない」論を両立させることを試みたのです。古典的な実在論では「ものは世界という唯一の舞台にあらわれる」と考えられていました。しかしガブリエルは『なぜ世界は存在しないのか』でそのような世界は存在しないと言いました。そして存在とは「意味の場」にあらわれることであると指摘したのです。ガブリエルの概念はとても難解なので詳細は別に譲りますが、「存在するとはさまざまな意味の場に現れることだ」とすることで存在の多様性と実在性を両立させようとしたのです。そもそも事実として私たちが世界についての理解を共有できているということは、わたしたちの知覚も共有されていると考えることにまちがいなさそうです。

一方で「わたしが認識できるのは意識できたものだけ」ということもまた真理であるので「わたしが知覚しているもの」と「相手が知覚しているもの」が同じである保証はどこにもないのです。なぜ論理的に考えると「人それぞれ」であるはずの事実(ガブリエルの「意味の場」)を現実にわたしたちは共有することができているのでしょうか?著者はこの世界についての根本的な謎を乗り越えるものこそが、「人間の創造性(新たな理解や解釈をつくりだす力)」であると主張しています。つまりわたしたちがまだ気づいていない新しい数学の理論や科学の仮説などは、創造性によって新たに「意味の場」を開いていくことで存在できるようになるのです。そこから他者にも納得して共有されてはじめて「正しい事実」ができあがっていくのです。

では「意味の場」をひらくものが人間の欲求や関心であるならばこれらは人間の認識とはかかわりなく存在しているといえるのでしょうか?たしかに実在論の立場で言えばまだ発見されていない数学の理論などは世界のどこかに存在していることになります。しかしそもそも数学という領域が開かれたことに必然的な根拠はなく、それは人間の欲求や関心に即して展開されたことを忘れてはいけません。つまりまだ発明されていない機械が存在していないのと同様に、まだ証明されていない定理や公式もまた存在していないということになるのです。どのような新しい仮説を思いつくのかは「人それぞれ」の創造性によるところがあります。しかしその思いつきが正しいかどうかは他者による厳格な検証が必要になります。みんなが実験対象を同じように思い通りに動かす(仮説検証)できたときにはじめてわたしたちのだれもが認めることのできる「正しい事実」が形成されるのです。科学における「正しい事実」はこのようにしてつくるられていくのです。わたしたちは物をいつでも同じようにあつかう方法を工夫して

その工夫を他者と共有することで「より正しい正しさ」を合意形成していくのです。

4 「人それぞれ」はもうやめよう

これまでの内容をまとめると「正しさは人それぞれ」という主張が事実としても道徳的な態度としてもまちがってきていることを指摘してきました。わたしたちは「人それぞれ」ではあるけれどお互いを理解できないほどちがうわけではなく、ヒトとして同じような感覚器官や身体構造をもち同じように思考することができるのです。だからこそ手間のかかる方法かもしれませんがそこに関わる人たちの合意形成が必要なのです。相手が納得してくれたら強制しなくても自分の考えに従ってくれるだろうし、自分が納得できたら強制されなくても相手の考えに従うようにするはずなのです。これが「正しさの力」でありこれによって自分で考えて行動することが望ましいはずです。

もちろんすべてのことについてこのように理想的な解決をすることは難しいかもしれません。しかし、できる限り暴力をなくして「より正しい正しさ」を作るように努力することは正しいと言えるのではないでしょうか?「人それぞれ」という考え方はそもそもお互いに合意形成することを目指していません。このような態度は一見すると相手を尊重しているように見えますが合意できない相手と対立すればかならず暴力的な正しさの押し付け合いに終わることが多いのです。これはSNSなどで罵詈雑言や誹謗中傷を行う人たちとある意味で表裏一体の関係です。なぜなら「人それぞれ」というのは自分の正しさの根拠や理由を考えない態度を助長することになるからです。

わたしたちが生きていくうえで困難な状況に直面した時には「感じ方」をかえることも大切ですがそれよりも「状況」をかえることの方が重要です。しかし「状況」をかえるためには他者と連帯して大きな運動を展開していかなければいけません。「人それぞれ」というのは困難な状況にいる人たちをはげます言葉のように見せかけて、実のところは困難な状況にいる人たちを困難なままに放置する態度を助長する言葉なのです。だからこそ「人それぞれ」をもうやめてみませんか?「人それぞれ」と言ってしまいたくなった時にはぐっと踏みとどまって相手のことを理解したり自分のことを理解したりするような努力を放棄しないでみてください。

5 まとめ

今回は「みんなちがってみんないいのか?」について考えてきました。わたしたちは「正しさ」を決める時にはみんなが合意できるように配慮する必要があります。もちろんすべての人が合意することは現実的に難しいのかもしれません。しかし「社会的に正しい」とされる不正を強制されている人たちの声を無視することは許されません。わたしたちには事実と論理にもとづいて思考することで共有できる「正しさ」を作っていくことができるはずなのです。記事の中では紹介することができなかった事例もまだまだありますので、ぜひ本書を手に取って各章における詳細な議論も確認してみてください。

「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。「人間は思考することをやめてしまえば誰もがナチスのような巨悪になりうる」公共哲学の哲学者ハンナ・アーレントはこのように言いました。これからも「哲学」のおもしろさを発信していきますので、ぜひゼロから一緒に学んでいきましょう。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。

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