今回は「ストーリーで学ぶハイデガー哲学」をテーマに死について考えていきましょう。参考文献は『あした死ぬ幸福の王子』(著者:飲茶さん)です。
皆さんは「自分の死期」を知りたいと思いますか?死に怯えてびくびくしながら残りの人生を送るくらいなら知りたくないと考えるか、残りの時間がわかればやり残すことがないように過ごせるから知りたいと考えるか。「死」は誰にでもやってくるにもかかわらず誰もが最も目を背けているものの1つです。
これについて、前回の動画では「あっという間に人は死ぬから」という本を紹介しました。その時に哲学の補助線としてハイデガーの哲学を紹介しました。今回はストーリー仕立てでハイデガーの哲学を詳しく理解できる最高の1冊を紹介します。著者の飲茶さんは『正義の教室』で高校生が倫理の授業を通して、「正義」について考える物語を書くなど哲学を誰でも楽しめるよう紹介してくれる方です。
今回は死期を知らされた王子様がハイデガーの哲学に通ずる賢者と対話する形式で「嫌われる勇気」と同じなので難解なハイデガー哲学もすらすら頭に入ってきます。飲茶さんの著書は哲学を理解するためだけではなくストーリーもとても面白いのです。「正義の教室」では最後にまさかの結末が用意されていましたが、今回も最後に「あっ!」と気づくようなしかけや伏線が随所に施されています。(私は最後になってようやく気付いたのですが聡明な方であればすぐに気づけるかと…)
20世紀最大の哲学者といわれ著書『存在と時間』はあまりに難解なことでも有名です。その哲学は「存在とは何か」ということを考えるために「人間とは何か」を問いかけ、「人間とは何か」を考えるために「死とは何か」を問いかけたとされています。ハイデガーは自己の有限性を自覚して死と向き合うことで主体的に生きられると考え、「人は死から目を背けているうちは自己の存在に気づけない。死というものを自覚できるかどうかが自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる」という言葉を残しました。そんなハイデガーの難解な哲学を少しでもわかりやすくお伝えしたいと思います。
1 死を知らされるとはなんと幸福なのか!
サンスーシ(憂い無し)とよばれる優美な城の中でため息をついているオスカー王子。物語は王子が「1か月以内に必ず死ぬ」という宣告をされたところから始まります。考えることも感じることもできない永遠の闇(無)が未来永劫に続くことへの恐怖、自分の人生にはいったいどんな意味があったのかという疑問。王子は絶望感に襲われ森の中へ向かうといつの間にか湿地帯に足を踏み入れていました。「このまま歩いていけば楽になれるかもしれない」
恐怖と絶望を1か月も感じ続けることなど不可能に思え足を前に踏み出していくのです。その時、釣竿を持った老人が不思議そうに王子のことを見ていました。王子は「自分はもうすぐ死ぬからほっといてくれ」と怒鳴るのですが老人は言いました。「自分の死期を知らされるなんて、おまえはとてつもなく幸福なやつだな」なぜ死期を知ることができた王子が幸福なのでしょうか?
たとえばそれまで当たり前のように思っていた日常(趣味や仕事など)のことを、あなたが死を知らされたとしても同じように幸福だと感じることはできますか?もしそうではない―死ぬと分かったら無意味だと思えるような人生なのだとしたら、残りの人生を無意味だと気づかずに無駄に浪費して終えてしまうことになります。死期を知らされなければそのことに気づくことすらできないのです。
ハイデガーは死という絶望に気づくことによって「本来的な生き方」ができると考えました。老人は王子に「哲学とは思考できないことを問いかけること」つまり「考えられないことを考えること」というハイデガーの定義を紹介します。ハイデガーは「存在とは何か」(ある、とは何か)を考え抜いた哲学者です。たとえば「釣竿がある」とはどういうことだと思いますか?竿がある、糸がある、針があると言えばよさそうですが、また「ある」が出てきてしまう以上は「ある」を説明したことにはならないのです。このことから「存在」については明らかにすることができないのです。
にもかかわらず私たちは当たり前のように「存在」についてわかってしまっています。存在について語ることはできないのに、なぜか存在とは何かをわかっている。ハイデガーの「考えられないことを考えること」とはまさにこのことなのです!老人は王子に人間について何も知らないのにわかったような気になっている。だからこそ人間とはどのような存在なのかを知らなければいけないと言うのです
2 現存在
ハイデガーは人間のことを「現存在」と表現しました。ハイデガーの哲学書が難解なのはこのような造語がたくさん出てくる点があげられます。たとえば『死は現存在自身の最も固有な可能性である。この可能性へ望む存在はそこで現存在の存在そのものが賭けられているような現存在自身の最も固有な存在可能を現存在に開示する』と言われても全く意味が分かりませんよね?実は哲学書が難解な理由は時代や場所によって理解がかわらないようにするためなのです。「人間とは何か」を考える時「人間」のイメージが時代や場所でかわってはいけません。だから安易に「人間」という言葉を使うのではなく抽象化した言葉を当てはめるのです。
ハイデガーは「現存在」という言葉を次のように表現したかったようです。『世界に投げ出されていると同時に、自らもその存在可能に向かって投げだす存在であり、自己を現にそこにあるものとして存在そのものと関わる存在』今はまだ意味がわからないと思いますが動画の最後にはこれがピンとくると思います
3 道具体系
ハイデガーは人間を「現存在」と捉えた一方それ以外については「道具」と表現しました。そして「道具は、それ単独では存在できない」とも言いました。なぜなら道具はある目的(ハンマーとクギは家を建てる目的)のために存在しており、そのような道具同士の関連を「道具関連」と言います(本書では道具体系)。そのため「そのものが目的となる、それ単体で自己完結した道具」はありえないのです。
私たちは「道具体系」を教えられることによって「ものがある」ことを認識できるのです。ハイデガーは「複数の道具体系が重なり合ったもの、それが世界である」と言いました。では、人間は「道具」なのでしょうか?自分から見た他人であればその通りなのです。しかし道具が道具として存在できるのはそこに目的があるからです。その目的を無限に遡って考えられる究極の目的は何かといえば「自分のため」です。つまり世界のあらゆるものは「自分」という究極の目的のために存在しているのであり、自分という存在は道具体系という世界の中で唯一のかけがえのない存在であるのです。
このとき何が問題かといえば、相手はこちらのことを道具だと思っているということです。かけがえのない存在であるはずの自分であっても他人からみたら道具なのです!そして私たちは相手から道具として見られているうちに、自分から自分のことを道具であると思い込んでしまうのです。誰かのために生きる―そのような生き方は「本来的な生き方」であるといえるでしょうか?もしスプーンが折れてしまったらどうしますか?取りかえますよね。道具としてみるとはこのように「交換可能」なものとしてみるということです。かけがえのない存在であるはずの自分が交換可能な道具でいいといえるでしょうか?死に対する漠然とした恐怖の具体的な正体がここにあるのです。つまり死とは自分がいかに交換可能な存在であったのかを知らされることであり、それはすなわち自分が本質的に無価値で無意味な存在であることを知ることなのです。
4 本来的生き方
ではどうすれば交換可能な道具としてではない「本来的な生き方」ができるのでしょうか?ハイデガーは「人間とは自己の固有の存在可能性を問題とする存在である」つまり「人間とは自分がどんな存在であるかを問いかける存在である」と考えました。たとえば道端の石のことを役に立たないものとみるか武器とみるかはあなた次第であり、そこにはさまざまな可能性がある―石とはそのような存在だと考えることができます。このように人間の本質は「人間はあらゆるものの可能性を問いかける存在である」のです。つまり「私は〇〇である」ということを自分に向けても問いかける存在だということです。さぁ、あなたはこの問いにどのように答えますか?もし「会社の社長」「学校の先生」のような立場や身分を想像していた場合、それは真に問いかけて導き出された答えだといえるのでしょうか?実は多くの人が想像してしまうような答えは「世間」が決めているものなのです。まず人間はあらゆるものの可能性を問いかけると同時に自分にもその問いを向けています。しかし同時に同じような問いかけをしている多くの他者がいることにもなります。すると自分に向かう問いかけは他者から向けられるものの方が多くなってしまうのです。その結果、自分への問いかけはかき消され本来あるべき姿を世間が決めてしまうのです。
このように考えると「他者の目を気にせず生き方を決めることが大切だ」と思いますよね?しかし理屈ではわかっていてもなかなかそれができないから困っているのです。ハイデガーはそんな他者の視線をはねのける究極の切り札こそが「死」だというのです。もし「あした死ぬ」とわかったら他人からどのようにみられていても関係ないですよね。ハイデガーは死の特徴として次の5つをあげています。
- 確実性…誰もが確実に死ぬ
- 無規定性…いつ、どこで死ぬのかはわからない
- 追い越し不可性…死んだらおわり
- 没交渉性…死ねばすべてがなくなる
- 固有性…自分の死は誰であろうと代理することはできない
これを聞くと死はやはり絶望を感じさせるもののように思いますが、ハイデガーは死がもたらす思いがけない贈り物について教えてくれます。まず④について、死はあらゆる関係性という呪縛からあなたを解き放ってくれます。つぎに⑤について、代理不可能ということは誰とも交換不可能ということでもあります。交換可能な道具だと思っていた自分はかけがえのない存在であることを示しているのです。他者の視線から解放され道具ではない固有の存在であることに気づくことができれば、「自分の人生とは何だったのか?」という疑問をもつことができるようになるのです。つまり死だけが自分を道具ではない本来的な生き方について気づかせてくれるのです。人間は死に向き合うことで「自分の人生とは何だったのか?」とはじめて考えます。これこそが「人間とは自己の固有の存在可能性を問題とする存在である」ということです。もしかしたら私たちは「私の人生とは?」「私の存在とは?」このような問いの答えを見つけるために生きているのかもしれません。
5 死の先駆的覚悟
本来的な生き方が死を意識した(自分の存在を問う)生き方である一方、そうでない生き方は死を忘却した(自分の存在を問わない)生き方であるといえます。ハイデガーはここに「おしゃべりと好奇心」に満ちた生き方をつけ加えています。死を忘却した人間は何をしてすごすのかといえば、好奇心に満ちたおしゃべりなのです。自分の可能性を無視したおしゃべりは何も生み出さないただの時間の浪費なのです。そうならないようにするために、ハイデガーは「死の先駆的覚悟」が必要であるといいます。これだけ「死」について考えてきても尚わたしたちはまだ「いつか死ぬ」と考えがちです。死は「いつか」ではなく「今この瞬間」に訪れることを自覚しなければいけないのです。死の先駆的覚悟とは「この瞬間」に死ぬ存在であるという事実を受け止めるということです。
しかしそんなこと本当にできるのでしょうか?ハイデガーは「良心」があればできるといいました(本書では「負い目」)。なぜなら人間は「有限の(できないことがある)存在である」からです。たしかに私たちは無限に何でもできるのであれば何に対しても負い目などもちませんよね。できないことがあるからこそ無力感を覚えて負い目を感じてしまうのです。有限であるがゆえに私たちは誰もがふとした瞬間に負い目を感じてしまうものなのです。だからこそ「負い目と向き合う」ことが有限性、つまり死と向き合うことになるのです。
そのためにハイデガーは「良心の呼び声に耳を傾けよ」といいました。「自分の負い目を忘れていないか」と気づかせるために「おい!」と呼びかけてくるのです。「あれをしろ、これをしろ」というのではなく、ただ「気づけ!」と。たしかに「良心の呼び声」が本当にあるのかどうかはわかりません。ハイデガーの哲学が道徳論や人生の指南書と思われているのはこの辺りが原因のようです。ちなみにハイデガーは若い時に心臓疾患で死にかけたり蘇ったりする体験をしたそうです。
では「負い目」は自分にだけ向けられるものなのでしょうか?他者に対しては?たしかに他者のことをスプーンのように道具とみれば負い目を感じることはないでしょう。しかし他者もまた自分と同じ「有限の存在」であると気づくことができれば…。ハイデガーの哲学は自分を中心とする問題に関するキーワードが多く出てきます。だからといって「自分だけが有限」だとしたら何をしてもいいことになってしまいます。(自分はかけがえのない存在であるけどそれ以外は道具にすぎないとしてしまえば)。言うまでもなく、そのような生き方には何の価値もなければ意味もありません。だからこそ「他者の有限性」「他者のかけがえのなさ」を感じることが必要なのです。
6 時間(被投性と企投性)
最後にハイデガーが考える「時間」について紹介しましょう。ハイデガーは時間の理解の仕方には次の2つ、「通俗的な時間」と「根源的な時間」への理解の仕方があると考えました。通俗的な時間の理解とは時計の針を見てわかる「今」という時間があるとわかることです。時計の針がカチカチ動けば「今」という時間も次々に過ぎていくというイメージです。このように考えると時間は無限に流れ続けていくように思いますよね?。しかしあなたにとっての時間は本当に無限であるといえるでしょうか?きっと「時間は有限である」という思いの方が強いのではないでしょうか。実際に日々の生活で「時間がない」「時間が足りない」という実感があるはずです。このようにハイデガーの考える根源的な時間の理解とは常識にとらわれず、自分にとって時間がどのように存在しているのかという理解の仕方をすることなのです。
ハイデガーの時間論では「過去・未来・現在」をそれぞれ負い目として理解します。まず「過去への負い目」(無力感)とはどのようなものだと考えられますか。私たちにとって最大の過去―つまり「生まれた」ことに自分ができたことは何もありません。ハイデガーはこの「どうにもできない」過去のことを「被投性」と言いました。
次に「未来への負い目」(無力感)とはどのようなものだと考えられますか。私たちは未来に向けて「1つの可能性しか選べない」のです。何が正しいのかわからない状況の中で1つの可能性だけを選ばなくてはいけない、ハイデガーはこのように理解する未来のことを「企投性」と言いました。つまり過去とは「何もわからないままにいきなり投げ込まれてしまったもの」であり、未来とは「何もわからないのに自分を投げ込むことしかできないもの」ということです。
では「現在への負い目」(無力感)とはどのようなものだと考えられますか。それは「おしゃべりと好奇心」に抗えずそこに逃避してしまうことだといえます。次々と新しい情報が流れ込みそれに対応しているだけで1日が終わっていく…。そうやって時間を浪費した結果「あっという間に人は死ぬ」のです。
ではこの「無力さ」を感じてしまう時間をどのように考えればいいのでしょうか?まず未来とは1つしか選べないのですが、逆にいえば1つだけは選べるということです。かけがえのない存在であるあなただけのオリジナルの生き方を見つけられるのです。そしてそのヒントは過去と向き合うことで見つかります。勝手にこの世界に投げ込まれた自分ですが、その状況に投げ込まれた自分は1人だけです。どのような状況で生まれたとしても本人には何の責任もありません。しかしオリジナルの過去から選んだオリジナルの未来であるならば、それは結果に関わらず正解とよんでいいのではないでしょうか?ハイデガーは人生に迷ったときは「反復」せよと言います。自分がこれまで何をしてきた人間なのか?どんな環境に放り込まれた人間なのか?自分だけの過去を反復することで自分だけのオリジナルの可能性が見えてくるのです。このような前提のもとに導かれる現在こそが本来的な生き方ができる場となりうるのです。「人生とは何か?」についての答えは死ぬまで誰にもわかりません。それどころか死んだら全てがなくなるのですから答えを知ることは不可能でもあるのです。だからこそ、あなたにできることは過去から良心の呼び声に耳を傾けること、そして「このままではいけない」という感覚と共に一歩前へ動き出すことなのです。
7 幸福の王子
実はこの物語はある寓話をもとにここまでストーリーが展開されてきました。それに気づくためのヒントは至る所に隠されていたのですが、お恥ずかしいことに私はクライマックスのところになってようやく気づきました…。ぜひ自分でも考えてみたいという方はここで動画を閉じてください。
ヒントは…サンスーシの宮殿と大きなサファイア、お針子をしている町の人、マッチ売りの少女、そして幸福の王子の名前はオスカー…。
飲茶さんの本は「正義の教室」のように必ず最後に大きな衝撃をもって幕を閉じます。ぜひ皆さんも本書を手に取って最後まで読んでいただければと思います。いつか私を哲学の楽しさに気づかせてくれたあの2冊の紹介もしたいと思いますので、ぜひ期待してお待ちください。
8 まとめ
今回は「ストーリーで学ぶハイデガー哲学」について考えてきました。動画の中では紹介することができなかったこともまだまだありますので、ぜひ本書を手に取って難解なハイデガー哲学をより深く学んでみてください。
「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。「人間は思考することをやめてしまえば誰もがナチスのような巨悪になりうる」ハイデガーと不倫関係にあったとされる哲学者ハンナ・アーレントはこう言いました。これからも哲学を楽しく学べる本をたくさん紹介していきますので、ぜひゼロから一緒に学んでいきましょう。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。
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