今回は「世界の宗教」について解説したいと思います。参考文献は『哲学と宗教全史』(著者:出口治明さん)です。
なぜ、哲学のチャンネルで「宗教」なのかと疑問に思われた方もいるかもしれません。しかし、実は哲学と宗教には大きな関係があったのです。これまで「芸術(アート)」に関する動画をいくつもアップしてきました。そこでは「アート思考=哲学思考」というように哲学と芸術の関りもあれば、「アートの理解=宗教の理解」というように宗教と芸術の関りも示唆されていました。
「哲学×芸術」や「宗教×芸術」という枠組みで世界を捉えることが必要であるならば、「哲学×宗教」という枠組みでも世界を捉えることも必要だと考えられますよね。アートに限ったことではないのですが、今日の世界の共通ルールの多くは、西洋中心に決められたものが多くそこにはキリスト教が大きな影響を及ぼしています。キリスト教は西洋文化の根底にあり2000年の歴史と20億人の信徒をもっています。だからこそ、キリスト教をはじめとする宗教への理解も必須の教養となるのです。
しかし、「宗教」は明治維新の後に翻訳された概念であることから、「芸術」「哲学」のように日本人にはどうにも馴染みのないものだと思ってしまうものです。そこで、今回の動画ではまず宗教が生まれた時代背景―そもそもなぜ宗教が生まれたのかを解説します。
そして、世界最古の宗教と世界中を席巻する3つの一神教について解説します。宗教に対する正しい教養があれば世界を少し高い視座から見ることができるはずです。ぜひ、動画を最後まで見て頂き宗教に対する正しい教養を身につけてください。
1 宗教とは何か?
人類がほかの動物たちと比べて特に秀でた身体的特徴がないにもかかわらず、この地球の覇者となれたのは「考える力」がほかのどの生物よりも秀でていたからなのです。人間は考えることで自然を征服してさまざまな文明や文化を創造してきました。その結果として幸福や不幸という概念も生み出すことになったのです。
以前の動画でポール・ゴーギャンのこの長いタイトルの絵画―『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を紹介しました。

「世界はどうしてできたのか?」「人間はどこから来てどこへ行くのか?」この最も根源的な問いについて考えてきたのが哲学と宗教なのです。哲学者たちは世界をまるごと理解しようと思考をめぐらせました。そして、同じように宗教家たちは人間のさまざまな葛藤―生老病死などの苦しみをまるごと救おうとした人たちだったのです。
ところで、哲学も宗教も日本ではあまりなじみがない言葉のように感じると思います。その理由はどちらも明治維新によって輸入された概念に訳語がつけられたからなのです。宗教は英語で「religion」なのですがラテン語「 religio」から派生したといわれています。「re」は再びという意味の接頭語で「 ligare」は結びつけるという意味の言葉です。つまり「神と人とを再び結びつける」というような意味なのではないかと思われます。
この神という概念が生まれたのは約12000年前のドメスティケーションの時代―いわゆる狩猟・採集社会から定住・農耕社会への転換期だとされているそうですが、それ以来どうやら私たち人間の脳はあまり進化していないようなのです。人間は定住を始めたことがきっかけで世界を支配するようになっていくのです。地球上の全て―植物を支配する農耕、動物を支配する牧畜、そして金属を支配する冶金、これらを支配した人間はいよいよこの世界を動かす原理をも支配しようとしたのです。
「太陽を動かしているのは誰か?」「誰が我々の生死を決めているのか?」そのような自然界のルールを定めているもの―それこそが「神」であると考えたのです。紀元前1000年頃にはペルシアの地に世界最古の宗教ゾロアスター教が誕生しました。紀元前600年頃にはギリシアの地に世界最古の哲学者タレスが登場しました。つまり、まず人間のさまざまな問いに答えを出してきたのは宗教だったことがわかります。それから哲学が台頭してきて現在では科学がそのほとんどを証明できるようになりました。
では、科学が答えをだしているのであれば宗教や哲学を学ぶ必要はもうないのでしょうか。そんなことはありません、なぜなら科学もまた必ずしも万能というわけではないからです。どんなにAIが発達したとしてもそれを扱うのは人間である以上、12000年前からあまり進化していない脳にできる範囲で科学技術を扱うしかないのです。私たちがどのように思考してきたのかという起源を知る意味はここにあるといえそうです。
2 世界最古の宗教はゾロアスター教
先述した通り、あらゆるものを支配した人間は、いよいよ自然界をつかさどる超自然的な神の存在を認識するようになりました。そして、太陽や自然の中に神の存在を意識する原始的な多神教があらわれ始めたのです。そのような流れの中で紀元前1000年頃に古代ペルシア(現イラン高原)に世界最古の宗教家としてザラスシュトラ(英語でゾロアスター)が登場したのです。
古代ペルシアの帝国アケメネス朝ペルシア(前550年~前330年)では、すでに創始者キュロス2世のころからゾロアスター教が信仰されていたようです。そしてザラスシュトラの登場から約1300年後のササン朝ペルシアの時代になって、ようやくゾロアスター教が国教となり経典『アヴェスター』が整備されるようになるのです。ササン朝は651年にイスラム帝国によって滅亡することになるのですが、それからはこの地ではイスラム教が信仰され現代のイランにつながっているのです。
ゾロアスター教では最高神のことをアフラ・マズダーとよんでいます。マツダの社名の由来(Mazdaのzの理由)もこのアフラ・マズダーといわれています。アフラ・マズダーが創造した世界では善と悪の2つの勢力が争っていました。善い神は人類の守護神スプンタ・マンユ、悪い神は邪悪な大魔王アンラ・マンユです。(アンラ・マンユの別名はアフリマンであのゲームの敵の名前にもなっています)
ゾロアスター教では宇宙の始まりから終わりまでを12000年であると数えて、それを3000年ずつの4期に分けて考えているのです。ザラスシュトラは「現在は善い神と悪い神が争っている時代」であると説きました。つまり、善いことが続くのは善神、悪いことが続くのは悪神が優勢な時代ということです。そして、12000年後の終末の日にアフラ・マズダーの最後の審判によって、生者も死者も含めて全人類の善悪が審判されて悪人は地獄に落ちてすべて滅び去り、善人は永遠の生命を授けられ天国(楽園)に生きる日がくるのだと説いたのです。このようにザラスシュトラは時間を直線的(天地創造から最後の審判まで)に捉えて、世界を善悪という二元論で説明しようとしたのです。
ゾロアスター教にはその他に「祖霊信仰」と「入信の儀式」という2つの特徴があります。世界には神羅万象に存在する精霊フラワシが宿っていて祖先の精霊は守護霊になるのです。日本でも信仰されている祖先を祀る行事もその根源はフラワシ信仰なのかもしれません。また、入信の儀式としてナオジョテというものもありますが、この後に紹介するキリスト教の洗礼の儀式にも採用されていくことになるものです。
さいごに、ゾロアスター教では偶像崇拝はないのですが代わりに火を信仰しています。ゾロアスター教が「拝火教」といわれる所以です。ザラスシュトラはアーリア人といわれていますが大きな民族大移動を経験しています。その過程でアゼルバイジャンを通過する時に自然発火する火を見たのです。(現在でも石油の大産地であるため自然発火の現象があるそうです)。アーリア人はどんな天候でも燃え続ける火に神の存在を認識したのかもしれません。やがてザラスシュトラは火を信仰するゾロアスター教を創造するに至ったのでしょう。(アーリア人はインドでもバラモン教の火の神アグニを誕生させています)。
このゾロアスター教に多くを学んだのがセム的一神教なのです。ノアの3人の子ども(セム、ハム、ヤペテ)の中でセムを祖先とする一族がセム族です。セム族はメソポタミアやパレスチナやアラビアなど西南アジアの歴史に登場するのですが、その中から登場した一神教―つまりユダヤ教、キリスト教、イスラム教がそれにあたります。
セム族が信じる唯一神YHWHが人類を救済するために選んだ預言者がアブラハムです(YHWHを発音することはできないのですがこれが通称ヤハウェとよばれる神です)。アブラハムはユダヤ人の祖とされてキリスト教やイスラム教でも尊敬されています。(セム的一神教がアブラハムの宗教と呼ばれる所以です)。またYHWHが3つの宗教に共通する神でもあるので、3つの宗教の経典(旧約聖書、新約聖書、クルアーン)にも共通するところがあるのです。
「天地創造」「最後の審判」「天国と地獄」「洗礼の儀式」など聞いたことがある言葉はすべてゾロアスター教にその起源をもつことだったというわけなのです。キリスト教もイスラム教もユダヤ教に起源をもつということを知っていた方でも、さらにその起源が世界最古のゾロアスター教にあったとは驚くのではないでしょうか?
2 ユダヤ教
ユダヤ教はもともとユダヤ民族の民族宗教でもある一神教の宗教です。信者数は約1500万人で聖典はヘブライ語聖書タナハ(旧約聖書)であり、ユダヤ教を信じる人々のことをユダヤ人(自称イスラエル人で他称ヘブライ人)とよびます。
紀元前13世紀頃にエジプトで苦難の生活を強いられていたイスラエルの民は預言者モーセに率いられてエジプトを脱出します(出エジプト)。そして、紀元前11世紀頃にイスラエルの地にヘブライ王国を建国したといわれています。ソロモン王とダビデ王の時代に最盛期となりエルサレムにヤハウェ神殿を建造しました。その後に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分離するのですが、前722年にイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされてしまいます。
前586年にユダ王国は新バビロニアに滅ぼされヤハウェ神殿も破壊されてしまいます。新バビロニアの王ネブカドネザル2世による住民連行事件が有名な「バビロン捕囚」で住民のヘブライ人はそのまま約50年の捕囚生活をバビロンで送ることになったのです。その後アケメネス朝ペルシアが新バビロニアを滅ぼしてヘブライ人は解放されるのですが、ヘブライ人は司祭階級を除いてほとんどエルサレムに還らなかったようです。当時のバビロンは世界随一の都といわれていましたので、50年後のヘブライ人の子孫がわざわざ知らない田舎の土地へ行くかと言われても…(東京で生まれた人が遠い先祖が地方の山村にいるからって帰りませんよね?)
エルサレムに帰郷した司祭階級の人たちはユダヤ教のヤハウェ神殿を再建しましたが、このままではユダヤの民族は消滅してしまうのではないかと考えました。そこで、民族のアイデンティティを確立するために「旧約聖書」を整備するのです。旧約聖書ではユダヤの民は苦しい時代を生きているがもともと神に選ばれた民族である、だから最後は救世主があらわれて救ってくれるという選民思想を説いたのです。ちなみに、救世主はヘブライ語でメシアといいギリシア語ではクリストス(キリスト)です。
旧約聖書はユダヤ教においてタナハといわれます。この中には創世記から順番に歴史的に物語が語られていますが、実は多くのねつ造もふくんでいるとされています。たとえば、アダムが土からつくられたという話はシュメール人の神話をもとに、ノアの方舟はメソポタミアの大洪水、エデンの園はメソポタミアの地名をもとに。もちろん、先に紹介した最後の審判はゾロアスター教をもとにされています。
そんな旧約聖書は世界中に離散(ディアスポラ)しているユダヤ民族のアイデンティティを確かなものとすること以外にも大きな理由があって制作されました。それがユダヤ民族にもアケメネス朝に負けない歴史があることをアピールするためです(日本も中国に負けない歴史があることをアピールするために記紀を編纂しましたよね)。ユダヤ教では神が与えた立法やモーセの十戒を遵守することで、私たちは神に選ばれるという選民思想が根底にあります。
ユダヤ人たちは中世の時代から長きにわたって迫害され続けてきました。ローマ帝国によってキリスト教が公認されるとユダヤ人はイエス・キリストを十字架にかけた罪人であるというレッテルをはられました。また、十字軍の遠征においてアラブ人と同様にユダヤ人も異教徒とみなされたことやキリスト教で禁止されていた利子を認めるユダヤ人を金の亡者とも揶揄されたのです。19世紀には反ユダヤ主義の流行からロシアを中心とするポグロムやフランス将校がスパイ容疑をかけられたドレフュス事件なども起こりました。このような時代の流れの中でユダヤ人たちはやがてユダヤ人の国家を建設しようといういわゆるシオニズム運動(シオンとはパレスチナの古名)が始まるのです。
パレスチナの地は当時オスマン帝国が支配していたのですがオスマン帝国を弱体化させるためにイギリスは1917年に「バルフォア宣言」を出して、パレスチナの地にユダヤ人の国家を建設することを約束したのです。ところが、イギリスは1915年に「フサイン=マクマホン協定」をアラブ人と1916年に「サイクス=ピコ協定」を仏露と結んでいたのです(悪名高い三枚舌外交)。第二次大戦後の1948年にユダヤ人は約束どおりイスラエルを建国するのですが、もともとこの地にいたアラブ人たちはパレスチナ難民となってしまうのです。これが現在まで続くパレスチナ問題の原因でもあり解決の見通しは未だたっていません。
3 キリスト教
キリスト教はイエスを救世主として信仰する世界最大の宗教です。信者数は20億人以上(世界人口の約30%)で聖典は旧約聖書と新約聖書です。旧約聖書とは「Old Testament」であり、新約聖書とは「New Testament」の翻訳です。キリスト教ではイエス以前の預言者と神との契約のことを旧約(旧い約束)とよび、イエスの言葉や奇跡を弟子がまとめたもの(新しい神との契約)を新約とよんでいるのです。つまり、もともとの起源はユダヤ教にもあるといえる一神教の1つなのです。
イエスはユダヤ教の上層部に蔓延していた堕落を批判する活動をしていたようです。いわゆる、ユダヤ教における宗教改革ともいえる運動だったと考えられます。しかし、ユダヤ教の司祭たちはイエスの活動が教義を脅かすものだと不信感を募らせて、ローマ総督ピラトにローマへの反逆を企てていると密告したのです。そして、民衆たちも十字架の刑を要求したことからピラトはイエスを処刑したのです。
イエスの死後はその教えを弟子の12使徒が中心となってエルサレムで布教していました。しかし、イエスの教えを最も体系的に発展させたのはパウロだと言われています。パウロはイエスの弟子ではなくローマ市民権をもつユダヤ人でした。もともとはイエスの教えを迫害するパリサイ派のユダヤ教徒だったのです。しかし、パウロはイエスの死から数年後にダマスカスへ向かう途中で天からまぶしい光が降り注いだことがきっかけで落馬して失明してしまいました。この時に天上から主イエスの声が聞こえて回心したといわれているのです。そして、エルサレムに向かいますがイエスを迫害していたので追い出されてしまいます。そのため、アナトリア半島やエーゲ海の周辺都市にいるユダヤ人に布教活動をしたのです。この時パウロがエルサレムから距離のあるローマ帝国の辺境で布教したことが、後にキリスト教が世界宗教に発展する契機となっていったのは運命の悪戯といえそうです。
パウロはイエスの教えを以下のように布教したといわれています。―神が天地を創造して人間はエデンの園で楽しく暮らしていたけど、神の教えを破って禁断の知恵の実を食べたことで原罪を背負うことになってしまったのだ。そのためイエスは全人類の原罪を贖うために十字架で磔刑にされたのであり、イエスこそが人類の救世主メシア(キリスト)である。パウロの書簡は後に新約聖書の正式文書に位置づけられていきます。ローマで布教活動をしていた初期キリスト教団は庶民に人気のあった地元の宗教―ミトラス教とイシス教からアイデアを拝借しているのです。ミトラス教では冬至にお祝いをする文化があるのでイエスの誕生日も冬至の頃にしました。これがクリスマスの起源であり正式に12月25日に決まったのは4世紀の頃です。また、イシス教ではイシスが子どもを抱く像があるので、そこからイエスを抱く聖母マリア像をつくったのです。
このような布教活動の末にイエスの教えは少しずつローマ帝国の中でも広がりました。そこで、イエスの教えを新たに文書にしようとしたことで新約聖書がまとめられるのです。新約聖書は27の文書の集合体としてまとめられるのですが、正式にキリスト教に認められるのは4世紀の終わり頃だったようです。27文書は4つの福音書と使徒言行録、そしてパウロなどによる21の書簡と黙示録で構成されています。福音とは良い知らせのことで英語ではゴスペル、ギリシア語ではエヴァンゲリオンです(あの有名な哲学アニメもキリスト教からアイデアを頂戴しているということですね)。福音書はイエスの言行を4人の書記者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が纏めたものです。また、使徒言行録はペテロやパウロなどの伝道の記録のことであり、黙示録はキリストの再来と地上の王国の滅亡を啓示する内容となっています。
マタイ福音書にはイエスの誕生について以下のような記述があります。ベツレヘムで大工をしていたイエスの父ヨゼフには許嫁のマリアがいましたが、まだ愛を交わしたことがないのに妊娠していることに気づくのです。そのため、マリアと別れることを決意するのですが夢の中に神の使者があれわれて「マリアを妊娠させたのは神の精霊であるので生まれた子にイエスと名付けなさい。イエスは人類の罪を救うために生まれてくるのだ」とお告げしたのです。
しかし、アレクサンドリア教会のアリウス司祭はこの伝説を次のように解釈しました。神は唯一の存在であるのでイエスは神そのものではなく神のつくった人の子である、と。もちろん、イエスの神性を否定するものではないのですが神ではないということです。当時の教会では「イエスは神の子」とされていたのでアリウスを破門することにしたのです。しかし「イエスは人の子」というアリウスの主張はわかりやすいので、さまざまな地域に広く伝承されていくことになるのです。
3世紀になると、ユーラシア大陸の大規模な寒冷化によって諸部族が次々にローマ帝国に侵入するようになりました。そこで、皇帝ディオクレティアヌスは広大なローマ帝国を4つの地域に分割―いわゆる四分割統治(テトラルキア)をしましたがそれも長くは続きませんでした。その後コンスタンティヌス大帝によってローマ帝国は再統一されるのですが、その過程で313年に「ミラノ勅令」が発令されることになったのです。これは帝国内での信教の自由を認めるものでここにキリスト教の弾圧はおわるのです。
コンスタンティヌス大帝はキリスト教の教義をめぐる討議をする公会議を開催しました。場所はニカイア(現トルコのイズニク)で325年に第1回の会議が開催されました。この会議のテーマは「イエスは神の子なのか人の子なのか」ということでした。「イエスは神の子」とした論客はアレクサンドリア教会のアタナシウス司祭です。アタナシウスは「神とイエスが異質なものであったら信仰は成立しないので、父なる神と子なるイエスは同質であることからイエスは神の子である」と考えました。そして「マリアを身ごもらせたのは神の位格をもつ精霊であるのでイエスは神の位格をもっている」と主張したのです。ここに「父なる神と子なるイエスと精霊の3つの位格はすべて一体の神である」とする「三位一体説」が誕生してこれがニカイア信条として正式な教義となっていくのです(父と子と精霊の名において…というやつですね)。
その後テオドシウス帝がコンスタンティノープル公会議で三位一体説を正当な教義として392年にキリスト教をローマ帝国の正式な国教と定めました。これによってギリシアの神々への信仰も禁止されたことから古代オリンピックも中止となったのです。中世ではキリスト教のカトリック教会があらゆる分野で大きな影響力をもっていました。中でもエジプトのアレクサンドリア教会、シリアのアンティオキア教会、エルサレム教会、コンスタンティノープル教会、そしてローマ教会の5つは五大本山といわれました。エジプト、シリア、エルサレムの3つはイスラム勢力の影響によって衰退していくのですが、コンスタンティノープル教会とローマ教会は激しく対立していくようになります。これがローマ=カトリック教会とギリシア正教会に分離することにつながっていくのです。
やがて、宗教改革によってカトリックからプロテスタントという教派が分離していきます。現在カトリックはラテン諸国(フランス、イタリア、スペイン、南米など)を中心に、プロテスタントはゲルマン諸国(アメリカ、イギリス、ドイツ、北欧など)を中心にそして正教会はスラブ諸国(ロシアや東欧など)を中心に信仰されています。
4 イスラム教
イスラム教はムハンマドが布教した唯一神アッラーを信仰する一神教の宗教です。成立は6世紀ですが信者数は約18億人(世界第2位)でさらなる増加が見込まれています。聖典はクルアーンでイスラム教の信徒のことをムスリムとよびます。
イスラム教の聖典はクルアーンとハディースです。クルアーンには「詠唱すべきもの」という意味があります。ムハンマドが神から託された言葉で構成されていてムハンマドの死後650年に完成したとされています。ハディースはムハンマドの言行(スンナ)を記録したものです。
ムハンマドは570年頃にアラビア半島の交易都市マッカで生まれたといわれています。商人としての生活を送りながらもヒラー山の洞窟にこもって瞑想するようになりました。40歳のころムハンマドのもとに天使ガブリエルがあらわれて「詠め」と言うのです。ムハンマドは読み書きができませんでしたが心の声を聞きなさい。そして、聞いたことを声に出して歌うように詠みなさいと告げるのです。
「詠む」とは詠唱する―つまり声に出して読む、歌うことを意味しています。ムハンマドは夢中で詠唱するうちに瞑想から目覚めて妻のハディージャに伝えました。最後の預言者ムハンマドと最初の信仰者(ムスリム)が誕生した瞬間です。
ムハンマドは普通の生活をしながらクルアーンを伝える日々を送っていました。しかし、当時のアラビア半島では多神教が信仰されていたので迫害されたことから、622年にムハンマドと信者はマッカを離れて西のマディーナで布教を始めました。これがヒジュラ(聖遷)とよばれるイスラム歴の元年になるのです。マディーナでは信者が増えたことからムハンマドはこの地の支配者―市長であり軍の司令官でありイスラム教の教祖になっていくのです。
やがてムハンマドはマッカの軍勢と戦い勝利して630年にマッカに帰還しました。この時カーバ神殿にあった多神教の像は破壊しましたが、カーバ神殿そのものはイスラム教の大切なモスクとして残したのです。マッカはもともと交易都市でありカーバ神殿では定期的に祭典が開かれていました。商人たちはさまざまな思いを詩の形式で詠唱していたといわれています。イスラム教の聖典がクルアーンとなったのはきっとこの行事が影響したと考えられます。そのため、現在でもクルアーンは声に出して詠唱することが原則となっているのです。
イスラム教はユダヤ教やキリスト教と同じくYHWHを唯一神とする一神教です。ただし、イスラム教では唯一神YHWHをアッラーとよんでいます。また、イスラム教にはキリスト教や仏教にみられる聖職者(司祭や僧侶)がいません。そのため寄付をする必要がなく必要な時には誰かが兼業をしながら儀式を進行するのです。
イスラム教の信仰の中心は六信五行(6つのことを信じて5つの行動をすること)です。六信とは神・天使・啓典・預言者・来世・定命を信じることです。神はYHWH(アッラー)であり天使はムハンマドに預言を託したガブリエルのこと、啓展はクルアーンであり預言者はもちろんムハンマドのことです。そして、来世とは天国と地獄の存在を信じることであり定名は予定説のようなもの―人間が救われるのか滅びるのかはあらかじめ神が決めているということです。
五行とは信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼の5つの行動をすることです。信仰告白とは「アッラーが唯一神でありムハンマドが最後の預言者です」と宣言すること、礼拝は1日に5回マッカのカーバ神殿がある方向を向いて礼拝すること。喜捨はお金があるなら貧しい人たちにめぐみなさいという教えのことです。断食(ラマダン)はイスラム歴の9月に日の出から日没まで食事をとらないことであり、巡礼は一生の中で一度はマッカのカーバ神殿を訪れましょうということです。
イスラム教といえば「スンナ派」と「シーア派」という言葉を聞いたことがありますよね。スンナとはクルアーンやハディースに記されているムハンマドの言行のことです。そのため、スンナ派とはムハンマドの言行を大切にしましょうという派閥のことです。いっぽう、シーアとは「アリーの派閥」のことを意味しています。そのためシーア派は日本語だとアリーの派閥派閥になってしまうのでおかしいのですが、いつのまにかこのような言い方が定着してしまったものと思われます。
イスラム教徒の中ではスンナ派が圧倒的に多数(約80~90%)であり、イランやイラクを中心とする一部の地域でシーア派が信仰されています。ムハンマドの死後にイスラム教の指導者は3人の戦友たちに順次継承されていきました。カリフ(ムハンマドの代理)と呼ばれ順調に継承されてイスラム帝国も拡大していきます。
ところが、4代カリフにアリーが選ばれた時に大きな問題が起こってしまったのです。3代カリフのウスマーンが暗殺されたことで真相究明を求める声があがったのです。アリーのカリフ就任に異議を唱えたのがシリア総督の立場だったムアーウィアでした。そしてムアーウィアとの間に大きな争いが起こりひとまず和議が申し入れられたのですが、過激派が「ムアーウィアの反乱もそれを許したアリーも堕落している」と激怒したのです。そして、双方に暗殺者を送るのですがアリーだけが暗殺されてしまうのです。
アリーの長男ハサンはムアーウィアに帝国の統治を任せて自分は身を引くことにしました。そして661年にムアーウィアがシリアのダマスカスに遷都してウマイヤ朝を興すのです。しかし、アリーの次男フサインのもとに東からアリーを信じる使者が訪れて新しいイスラム帝国をつくるさそいを受けることになるのです。680年にフサインは50名ほどの一族を引き連れてメソポタミアに向かうのですが、ウマイヤ朝から軍隊が派遣されてカルバラーの戦いで命を落としてしまうのです。アリーとフサイン一族はムハンマドの血統を正式に継承しているのだから、ムスリムの宗教的指導者の立場を与えるべきと考える宗派をシーア・アリーというのです。
実はアリーはムハンマドの娘と結婚をしており、次男のフサインはササン朝の王女を妻にしていました。つまり、フサインの子どもはイスラム教の創始者とペルシア王朝の血をひいているのです。ペルシアの人々にとってはとても誇らしいことであるので、アリーの一族の長をイマーム(指導者)とよぶようにしたのです。
そのため、ペルシア(イラン)では現在に至るまでシーア派の勢力が優勢であり、宗教と政治の実権をシーア派の最大派閥(十二イマーム派)が握っているのです。スンナ派とシーア派の争いというのはイスラム教の指導者が多数に選ばれたカリフなのか、フサインの血を引くイマームなのかとする対立のことなのです(キリスト教のように教義をめぐる悲惨な争いというわけではありません)。ちなみに、カルバラーの戦いがあった日のことをシーア派では「アーシューラ―」といい、シーア派の男性は惨殺されたフサインの殉教命日として自分の体をムチなどで叩いて泣き叫びながら行進して祈りを捧げるのです。
7 まとめ
今回の動画は「世界の宗教」について解説してきました。動画の中では紹介することができなかったこともまだまだたくさんありますので、次回は「名画で学ぶ聖書」という企画でさらに詳しく学んでいきたいと思います。
なぜエルサレムがユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地とされるのか?それは、ユダヤ教徒には「嘆きの壁」(ヤハウェ神殿を囲む外壁の一部)があり、キリスト教徒には「正墳墓教会」(イエスの墓とされる場所にある教会)があり、イスラム教徒には「岩のドーム」(ムハンマド昇天伝説の地に建つモスク)があるからです。
それぞれの宗教の共通点と相違点や歴史的な背景を知ることでこれまで知らなかった世界の見方が大きく変わることもあったのではないかと思います。イスラエルとパレスチナの紛争問題をどのように考えたらよいのか?ロシアを非難することはあってもイスラエルを非難することがないのはなぜなのか?世界中の国旗に描かれる十字架や月や星が何を意味しているのか?宗教の知見をもとに「哲学の補助線」を引いて世界を眺めることができるといいですね。
コメント