今回は「身近な疑問を哲学で解決する」について考えていきましょう。参考文献は『哲学の解剖図鑑』(著者:小須田健さん)です。
ルネサンス期の哲学者フランシス・ベーコンは「知は力なり」という言葉を残しました。机上の空論にすぎない学問を批判して現実生活をよりよくする学問の重要性を説きました。まさに今日における「実学志向」そのものといえるでしょう。
では、ほとんど生産性も感じられないように思われる哲学に意味はないのでしょうか?いっぽう、哲学は不況の時代にこそ流行するともいわれています。現代はVUCAの時代といわれ何が正解なのかわかりにくい世の中となっています。そんな時代だからこそ「考えること」そのものを本質とする哲学が注目されているのです。
哲学は大きく4つの時代に区分して大まかな歴史を捉えるとわかりやすいと思います。
①世界のしくみを知るために生まれた「古代の哲学」…紀元前6世紀ごろの古代ギリシアを中心にソクラテスやプラトンたちが活躍した時代です
②哲学と神学の融合をめざした「中世の哲学」…ローマ世界に浸透したキリスト教は哲学と結びつくことで新たな哲学を生み出しました
③これまでの常識をくつがえした「近代の哲学」…デカルトから始まる人間には生まれつき理性があると考えた「大陸合理論」、ベーコンから始まる人間は経験することで知識を獲得していくと考えた「イギリス経験論」、カントがその両者を統合することを試みてヘーゲルによって完成された「ドイツ観念論」、そしてヘーゲルを乗りこえることを目指したキルケゴールやマルクスが登場した時代です
④社会状況に寄りそう「現代の哲学」…アメリカでは実用性を重視するプラグマティズムや分析哲学が誕生しました。また生き方を希求する実存主義や社会の構造に注目した構造主義などが登場しています。
2500年にもおよぶ哲学の歴史の中では時代や国をこえてさまざまな哲学者が登場します。今回は「身近な疑問」について考えるヒントとなる哲学者を紹介しようと思います。
「時間」については、アウグスティヌス、フッサール、ベルクソン
「学校」については、ルソー、デューイ、フーコー
「自由」については、ロック、サルトル、フロム
「身体」については、デカルト、メルロ=ポンティ、フーコーの思想が役に立つでしょう
今回の動画は「哲学を始めてみたい」という方にピッタリの内容になっています。ぜひ哲学の面白さを実感して頂けるはずですので最後までごらんください。
1 「時が流れる」とはどういうことか?
日常生活の中で何もしなくてもどんどんなくなっていくものといえばなんでしょうか?それは「時間」ですよね。いま、この動画を見ていただいている間にも時間はどんどん過ぎていきます。では、さっきまで「現在」だった時間はどこにあるのでしょうか?また、さっきまで「現在」だった時間はいつ「過去」になってのでしょうか?「空間」は実際に目の前に広がっているので認識することができます。しかし確認することのできない「時間」を空間と同じように扱ってもいいのでしょうか?時間について考えてみましょう。
1-1 アウグスティヌス
時間の謎に挑んだ最初の哲学者の1人が中世の哲学者アウグスティヌスです。著書『告白』の中で次のように述べています。「時間とはなにか?誰もわたしに問わなければわたしは知っている。しかし、問う者にせつめいしようとすると、わたしは知らない」
アウグスティヌスは時間を2つの時間に区別しました。1つは「時間それ自体」、もう1つは「私たちとの関りにおける時間」です。絶えず過ぎ去っていく時間それ自体には「現在」しかありません。いっぽうで“さっきのこと”を覚えている私がいてはじめて「過去」や「未来」は成立するのです。アウグスティヌスは「唯一存在する現在の記憶や予測で成立する」と考えたのです。アウグスティヌスについてはぜひこちらの動画もごらんください。
1-2 エドムント・フッサール
「現象学」という立場で時間を論じたのがオーストリアのエドムント・フッサールです。フッサールは記憶と予測によって時間意識がつくられると考えました。たとえば、わたしたちは音楽を聴いている時に「現在」聴こえてくる音だけでなく、「過去」に聞こえていた音もまだ残っていて(過去把持)、「未来」に聞こえてくる音をも予想している(未来把持)のです。そうでなければそれらの音の連なりがメロディとして感銘を残すことはないと考えました。
そして「あらゆる時間はそれを意識する主観との関係において立ち止まりつつも、流れる現在として可能になる」と言いました。つまり、フッサールは「現在が過ぎ去りながらも残存している」と考えたのです。フッサールの現象学はとても難解なのでぜひこちらの動画もごらんください。
1-3 アンリ=ルイ・ベルクソン
フッサールと同時期に活躍したフランスの哲学者がアンリ・ベルクソンです。ベルクソンは生命の進化の根源として「エラン・ヴィタール」を想定しました。ベルクソンは「空間化された時間は時間ではない」として本質は「持続」であると考えました。私たちがふだん時計の表示板で見ているのは「空間化された時間」であると言いました。なぜなら私たちは眼に目える形で空間化しないと時間の流れをイメージできないからです。
しかし愉しい時間があっという間に過ぎたり退屈な時間は長く感じたりするように、本来時間とは空間的には表象することのできない多様性をそなえています。ベルクソンはこのような「量的に一元化」される前の「質的に多様性」をもった本来の時間を「持続」と呼んだのです。
2 なぜ「学校」に行かなければいけないのか?
とても大切なことはわかっているけど行きたくないと思ってしまうところといえば、もちろん「学校」ですよね?大人の中には「学校で勉強したことは役に立たない」と考えている人もいます。なぜ、私たちは「学校」に行かなければいけないのでしょうか?そもそも、「学校」とはどのようなものなのでしょうか?学校について考えてみましょう
2-1 ジャン=ジャック・ルソー
18世紀のフランスの思想家ルソーは「学校で大切なのは学習ではない」と考えました。著書『エミール』では主人公の成長を通して当時の教育のゆがみを批判して、個性を尊重した自由な教育のあり方を提唱して近代教育に大きな影響を与えました。ルソーは「子どもたちはもともと豊かな感受性を備えている」として、学校の役割はその細やかな情緒を損ねないようにすることであると考えたのです。
同じく教師は社会からの悪影響が子どもに及ばないよう配慮するだけでよいとしました。つまり学校教育で大切なことは知識の習得などではなく、脳の発達年齢に応じた知性を提供する場づくりであると考えたのです。教育論を語る時のルソーはとても立派なように思えるのですが実生活では、露出狂で子どもを5人とも施設送りにしている哲学史上まれにみるクズ男でもあります。
2-2 ジョン・デューイ
「学校は社会の縮図だ」と言ったのはアメリカの哲学者ジョン・デューイです。デューイは「あらゆる知識や概念はそれ自体に価値があるのではなく、日常の具体的な問題を解決して豊かにするための道具(手段)だ」と言った哲学者です。つまり道具を使って何を実現したのかが大切であると考えたのです(道具主義)。
それまでのヨーロッパ哲学では知識自体を追求することを目的にしていました。しかしアメリカは何もないゼロの状態から国を開拓する必要があったので、知識が問題解決にどのように役立つのかという点を重視するようにしたのです。デューイは実用性を重視するプラグマティズムの立場で世界初の実験学校を開設して、学校を「社会の萌芽」として児童にとって社会に出るための訓練の場であると考えたのです。社会に出るための訓練の場であるからこそ画一的な詰めこみ教育は論外です。学校は民主主義の性質をもっている小さな社会として機能するべきであるとして、デューイはみんなで協力して主体的に問題を解決するための教育を実践しました。現代教育のアクティブラーニングの基礎を作った「問題解決の父」と称されています。
2-3 ミッシェル・フーコー
「国家に必要な人間をつくる規律訓練の場」と考えたのはフランスの哲学者フーコーです。フーコーは「権力によってつくられた構造に人間社会は支配されている」と考えました。そして「学校は制度の上では監獄と同じである」と考えて、「健康な国民の身体を維持してその数量を管理するための制度である」と指摘したのです。
学校の正体は定期試験を繰り返すことのようにさまざまな「規律訓練の場」だったのです。学校では教室という閉鎖空間で時間割という画一的スケジュールへの服従を求められます。そこで重視されるのは国家にとって望ましい従順に学ぶ姿勢を習得させることなのです。フーコーはこのような状態を功利主義者ベンサムのパノプティコンにたとえています。パノプティコンは一望監視装置という特性をもった円形の監獄のことです。中央にすべての部屋を監視できる塔があり囚人から看視者を見ることはできませんが。看視者からは囚人を見ることができるようになっているので監視者がいなくても、囚人は「監視されているかもしれない」と考えて規範を守ることが期待されるのです。このように抽象的な監視によって自発的に規律を守るようにさせられているのです。
3 「自由」とは何か?
「自由」とはどのような状態のことをいうのでしょうか?他人からいっさい束縛されないことや何をしても許される状態はたしかに「自由」ですが、それはただのわがままであり他人との関わりなく生きることは不可能ともいえます。そもそも「自由」は何よりも望ましいものだといえるのでしょうか?自分で何かをするのは責任がともなうので決めてもらう方が楽という人もいると思います。自由について考えてみましょう。
3-1 ジョン・ロック
「社会契約論」の立場から自由について考えたのがイギリスの哲学者ジョン・ロックです。もともと人間は自然状態において「万人の万人による闘争状態」であると考えたのは、17世紀のイギリスの哲学者トマス・ホッブズです。そこで人間が生まれながらにしてもっているはずの大切な権利(生命保存の権利)を保障するためには主権を国家に全面的に委譲することが必要であるとしました。これを発展させて自由についても論じたのがロックでありルソーはそれを引き継いで、来たるべき社会を実現するための手立てとして「社会契約論」を提唱したのです。
ロックは自然状態の人間は「自由で平和な状態」であったと考えました。そして人間が生まれながらにしてもっているはずの権利は「所有権」であるとしたのです。国家権力であっても所有物(生命・財産・自由)をうばうことは許されないと考えたのです。国家はお互いの財産や自由を守るための集団的合意、すなわち社会契約によって成立したことが起源であるとロックは考えました。ロックは政治が退廃したら国民たちは抵抗することができる抵抗権(革命権)も認めました。そのため名誉革命やアメリカ独立宣言に大きな影響を与えたのです。
3-2 ジャン=ポール・サルトル
「人間は行動によって自由に未来をつくる」と考えたのがフランスの哲学者サルトルです。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言いました。たとえばナイフには切るという本質があってそのために存在しています(即自存在)。しかし人間はまず存在していてそこから何者かになっていくのであり、自分の本質(役割)は自分で自由に決めることができるのです(対自存在)。このように人間は自由であると考えたのですが人間は自由であるがゆえに孤独であり、自由であるがゆえに責任をもたなくてはいけないとも考えられます。このことをサルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言ったのです。
以前サルトルが親ガチャ論についてディベートしたらどうなるかという動画を出しました。
サルトル自身も生まれた時点では多くのガチャに外れた人生を送りました。生まれて間もなくして父親を病気でなくし3歳で右目をほぼ失明することにもなりました。背が低くギョロ目でおまけに強度の斜視という外見的コンプレックスも抱えていました。それでもサルトルは次のように言います「持って生まれたものなんてどうでもいい」「これからなろうとするがまだなれていないものになりうるということだけが重要なのだ」そして外見的コンプレックスを抱えるモテない少年ではなく、フランス哲学界をリードする知的エリートとして生まれ変わることができたのです。
3-3 エーリッヒ・フロム
「自由には不安がつきまとう」と考えたのがドイツの哲学者エーリッヒ・フロムです。近代になって資本主義が台頭して市民社会が成熟していきました。その中で人々は封建的な旧来の権威から自由になることができたとフロムは言いました。しかしそれと引きかえに自分をつなぎとめていた絆の安心感を喪失してしまったのです。その結果としてわたしたちは孤独の不安に耐えかねて、自分がすがることのできる権威に屈してしまうこともあると指摘しました。
全てを自分で決める責任の重さより判断を委ねる安楽さを選びたくなることがあるのです。そして自由からの逃走が招いた最悪の事態こそがナチスのファシズムだったのです。フロムは著書『自由からの逃走』において民衆がナチスに傾倒する心理を分析しました。望ましいと考えられる自由からなぜ逃げだす必要があるのでしょうか?サルトルが指摘したように自由とは自己責任という刑罰という側面をもっています。フロムはヒトラーの台頭はこのような自由への不安があったと指摘したのです。
4 「身体」とは何か?
「身体」は誰にでも備わっているので誰もが自分でコントロールできると思っています。しかし時に身体は私たちの意志に抗うことがあります。例えば寝てはいけないのに授業中にうとうとしたりダイエット中なのにお菓子を食べたり、また身体の活動が精神に影響を与えることだってあるのです。お風呂に入ることでリラックスしたりスポーツをすることでリフレッシュできたりします。身体とはただの「物質」といえるのでしょうか?それとも何か特別な存在なのでしょうか?
4-1 ルネ・デカルト
「我思う、ゆえに我あり」という哲学史上もっとも有名な言葉を残したのがデカルトです。デカルトは絶対に確実なものの存在を徹底的に疑うことで明らかにしました。それは「疑っている私がいること」です。しかし身体を通してえられる感覚はしばしば私たちを欺くことがあります(目の錯覚など)。つまり感覚を通してえられる身体による知は疑いの余地があると考えました。そのためデカルトは「身体は物体である」ことから心とは区別されるものであるとしました。このように意識と身体を峻別する考え方を「心身二元論」といいます。心と身体が別であるなら心をAIにもたせることができるのか?というテーマについて考えたこちらの動画もぜひごらんください。
4-2 モーリス・メルロ=ポンティ
意識と身体のどちらも大切であると考えたのがフランスの哲学者メルロ=ポンティです。メルロ=ポンティは意識と身体が相補的なものであると考えました。そしてこれまでのような意識を中心(上位)とする哲学に反旗を翻したのです。
私たちのいかなる精神的な営みも身体に支えられてこそ可能となります。そのためどちらかが優位にあるわけではなく双方は「両義的な存在」と表現したのです。そして「身体は世界と自分をつなぐ媒介」であるとした上で、頭で考えるよりも体を動かすことで意識を制御することができると考えたのです。体から心のバランスを整える瞑想やヨガが注目されるようになってきていることからも、実際にメルロ=ポンティの考え方は科学的にも証明されてきているのです。
4-3 ミッシェル・フーコー
フーコーは現代の権力が日常のいたるところに浸透して、知らない間に私たちの身体をコントロールしていると考えました。よく「身体で覚えたことは忘れない」といわれます(自転車の乗り方など)。しかし体育座りにみられる権力関係を考えてみると子どもは一方向を見ることしかできず、学校の権力者である教師の話を聞かなければならないようにしむけられているのです。このような不自然な身体感覚もパターン化されることを通して不自然と感じなくなるので、現代の権力が当たり前に私たちの中には浸透していることに気づかなければいけません。2章でも紹介したようにフーコーは正常とされることを徹底的に疑った哲学者です。それは自身がゲイとして世間からの異常者という視線に苦しんできたことにも関係します。現代社会の当たり前を破壊するポスト構造主義についてぜひこちらの動画もご覧ください。
5 まとめ
今回は「身近な疑問を哲学で解決する」について考えてきました。動画の中では紹介することができなかったこともまだまだありますので、ぜひ本書を手に取って教養としての哲学をふかめていってください。「時間」「学校」「自由」「身体」とはどのようなものなのか?今回の動画がそれを考えるきっかけになってくれたらうれしいです。
「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。「人間は思考することをやめてしまえば誰もがナチスのような巨悪になりうる」公共哲学の哲学者ハンナ・アーレントはこのように言いました。これからも「哲学」のおもしろさを発信していきますので、ぜひゼロから一緒に学んでいきましょう。
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