今回は「哲学で人生が楽になる!?まとめ編」をテーマにして考えていきましょう。参考文献は『哲学を知ったら生きやすくなった』(著者:小川仁志さん)です。
1 人生の指針が見つからない
戦争や災害、パンデミック、そしてテクノロジーの進化と働き方の変化…現代はそんな先の見えない複雑で不確実なVUCAの時代です。そんな時代を切り開くためのツールとして注目されているのが「哲学」なのです。これまで「西洋編」と「東洋編」の動画を通してさまざまな哲学者の思想を紹介しました。結局、哲学とは「自分で考えることによって人生の答えを導き出していくための指針である」著者の小川仁志さんは本書の中でこのように述べています。人生において悩んだり迷ったりすることから逃れることはなかなかできません。そんな時みなさんは人生の指針をどのように見つけるようにしていますか?
心理学や宗教、スピリチュアルなものから自己啓発書、または名言集などでしょうか?わたしたちはこのようなものにふれたときに2つのタイプに分かれるようです。1つは「何かの指針に従って生きていくタイプ」です。もう1つは「そうしたものを疑いながら生きていくタイプ」です。哲学とはまさに後者のように「それって本当?」と当たり前を疑う生き方のことなのです。たしかに疑ったからにはそのあと自分で考える必要があるのでとても大変です。しかしだからこそ自分にとって納得のできる指針を作ることができるようにもなるのです。哲学をするとはつまり「人生の指針」を自分で考えてつくることなのです。著者の小川さんが好きな作家オルダス・ハクスリーは「この天と地の間に思ってもみないことがあるのが哲学だ」と言いました。わたしたちは「当たり前」を疑うからこそ想像を超えた思考や生き方ができるのです。イノベーションが求められるVUCAの時代だからこそ「哲学」が求められているのです。わたしたちの悩みは時代や環境などによって絶えず変化するので尽きることはありません。だからこそ哲学でその都度人生の指針を自分で考えることができるようにしましょう。
哲学は基本的には自分で考えて答えを出すのが原則かと思いますが、みんなで対話することで客観的な視点を用いて自分の考えを吟味することもできます。そのきっかけが小川さんも開催されている「哲学カフェ」なのです。これまでの動画で紹介した思想もこの動画で新たに紹介する哲学者の思想も、それぞれの悩みに対する1つの視点にすぎないのです。もしかしたら「これは少しちがうのではないか?」と思われた回もあったかもしれません。それで全く問題なく大切なことはそれを疑いながら自分で考えてみることなのです。哲学を通して人生に対する処方箋を出すことのできる医者のような存在になってください。
今回の記事ではそんな哲学の処方箋を日常生活に活かすことで、あなたの生き方がこれまでより楽になることを実感してもらうためにつくりました。
「SNSは疲れるけど孤独には耐えられない」
「仕事ばかりの人生でいいのかわからなくなった」
「劣等感から解放されたい」
今回はこのような誰もが抱くであろう日常のモヤモヤを新たに3つ選んで紹介した後に、これまでの「西洋編」「東洋編」もセットにしたまとめ記事となっています。最後までご覧になって頂ければ明日からの人生がこれまでより少し楽になるはずですよ。
2 孤独に耐えられない
SNSで誰とでも交流することができる一方で他人とのつながりが希薄にもなっている現代、ふと自分が孤独であると感じて耐えられなくなってしまうことってありますよね。そんな時ドイツの哲学者ショーペンハウアーならきっとこのように答えるでしょう。「孤独を愛することは自由を愛することなのだから、自分と向き合うことで人生はもっと楽しくなるのだ」と。
ショーペンハウアーはヘーゲルの講義と同じ時間に自分の講義を開講してみたものの、生徒がほとんど集まらないという状況に心が折れて在野の哲学者として活動しました。その際ヘーゲルに対して「酒場のおやじみたいな顔」と悪口を言っていたそうです。厭世主義(ペシミズム)の立場から意志や欲望を諦めることで幸せになれるという思想、また逸話や肖像画まで全てにインパクトがありすぎる哲学者です。ショーペンハウアーについて詳しく知りたい方はぜひこちらの記事をごらんください。
みなさんは「孤独」のことをどちらかといえばネガティブなものと思っていませんか?しかしショーペンハウアーは「偉大な精神の持ち主は孤独を選ぶ」と肯定したのです。なぜなら人間が完全に自分自身でいられるのは1人でいる時だけだからです。だからこそ「孤独を愛さない者は自由をも愛していない」と説いたのです。ショーペンハウアー自身もたくさんの学生に囲まれる人気者のヘーゲルに対して生涯を在野の孤独な哲学者として真理を発見したという自負があったのかもしれません。彼は人生を交響曲のパートではなくピアノのソロ演奏に例えて、「精神が豊かな人はひとりだけで小世界をつくりあげている」と言ったのです。たしかにピアノソロの演奏者を見たときに誰も「孤独な人だ」と言いませんよね?
SNS全盛の時代では誰かとつながっていないと不安を感じるという人もいます。もちろん対話を通して新しい知見を発見することができることもあるでしょう。しかしショーペンハウアーの言う孤独とは自分と向き合うことを示しています。自分と向き合う中で自分が何を望んでいるのかを見つけることができるのです。「他の人はどうするのかな?」と気にしてばかりいることこそが寂しい孤独なのです。寂しさを紛らわすため誰かと繋がった気になっていることほど無意味なことはありません。孤独を愛するというのは自分を大切にするということと同じなのです。
でも多くの人にとって1人でモヤモヤしているのは辛いことかもしれません。そんな時はショーペンハウアーの「知的で孤独を愛する方法を見つけることができれば、退屈も苦痛もない幸福な時間を手に入れることができる」という言葉が意味をもちます。ショーペンハウアーの思想はどこか東洋的なエッセンスを感じる人もいるでしょう。事実その哲学は東洋哲学からも大きさ示唆をえていると言われています。本書では「孤独」のことを「個得」と考えてみることが提案されています。1人だからこそえられる「得」があるということです。自分と向き合うことで自分を高めることができ結果として人が集まってくるのです。
3 仕事ばかりの人生で本当にいいのかな
仕事ばかりの人生を突っ走ってきたもののふと振り返ってみたときに「私の人生ってこれでよかったのかな?」と思うことがありませんか?そんな時イギリスの哲学者バートランド・ラッセルならきっとこのように答えるでしょう。「自分の内側ばかりに目を向けるのではなく、外界に目を向けて客観的に生きることで幸福を獲得できる」と。
バートランド・ラッセルは数学や記号を論理学の手法で分析した著書『数学原理(プリンティカ・マテマティカ)』を出版した多彩な才能をもつ哲学者です。「ラッセルのパラドクス」やアインシュタインとの共同宣言など様々な活動に取り組み、三大幸福論の1つ『幸福論』などの著作が評価されてノーベル文学賞も受賞しました。ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインの師匠でありながらガチ切れされたり、80歳で4度目の結婚をしたりするという波乱万丈の人生を送った哲学者です。ラッセルについてさらに詳しく知りたい方はぜひこれらの記事をごらんください。
ラッセルは『幸福論』の中で「幸せになるためにもっとも重要なことは、自分ではなく外界に目を向けること(客観的に生きること)」だと述べました。自分の内側にとらわれるのではなく広く外の世界にも目を向けようということです。
いやいや、さっきショーペンハウアー先生は自分と向き合えと言ったじゃないか?そう思った方はラッセルの内側がどんな意味で語られているのかを考えてみてください。ラッセルは外側にある熱中できるものを趣味でかまわないと言っています。わたしたちは何かに夢中になっているときモヤモヤ悩むことはありませんよね?その上で仕事などに熱中することが主観的な思いこみになっていないかが問われるのです。
ラッセルは幸福になるためには不幸の原因を取り除くべきだと考えました。不幸の原因とはつまり主観的な思いこみ、つまり自分のことばかり考えてしまうことです。たとえば過度な競争や心身の疲労、ライバルなどに対する嫉妬心などがそうです。仕事というのは私たちを主観的な思いこみにとらわれやすくする性質をもっているのです。そこで夢中になって続けられるような趣味を見つけてみることが大切なのです。でも忙しい毎日を送っているので趣味はついつい後回しになってしまいがちですよね?まずは何でもいいので無理にでも始めてみて楽しいと思えるものを続けていきましょう。小川さんも無趣味といえる人だったそうですが「韓国ドラマ」が趣味になったそうです。そこから韓国文化に興味をもったりK-POPなども楽しんだりするようになったそうです。意識して趣味をもったことで自分の世界が広がって昔より幸せを感じているようです。
ラッセルの『幸福論』の原題は『The Conquest of Happiness』なので直訳すれば、「幸福の獲得」つまり幸福は偶然やってくるのではなく手に入れるものだということです。ラッセル自身も思春期はどちらかといえば内向的な人生を送っていたそうですが、数学への情熱がそこから救ってくれたと言っています。そして政治や平和活動など生涯を通してさまざまな活動に取り組んだ偉大な哲学者でした。80歳で4度目の結婚をするという驚きの人生を送ったことも納得でき…そうです(?)。会社に人生をささげて退職したら旅行しながらのんびり過ごす…それが当たり前という時代もありましたがすでに時代は変わったのです。あなたにとっての幸福な生き方をぜひ見つけてみてください。
4 劣等感から解放されたい
他人と比べて自分は劣っているという劣等感にいつも苛まれてしまうことないですか?そんな時『嫌われる勇気』のアルフレッド・アドラーならきっとこのように答えるでしょう。「劣等感には他人と比較する悪い劣等感と成長につながる良い劣等感があるので、良い劣等感のもと勇気をもって自分の課題に挑戦しなさい」と。
アドラーはフロイトやユングと並ぶ「心理学界の三巨頭」とされる精神科医です。フロイトと共同研究をしたのちに決別して新たに「個人心理学」を確立しました。トラウマの存在を否定して対人関係に関する思想がベストセラーと共に注目されています。
劣等感は自分がよりよくありたいと思う「優越性の追求」欲求があることに起因しています。そこでアドラーは「劣等感は誰もが抱くものでむしろ成長の原動力である」と考えました。もともと内科医として自分の体の弱さをバネに活躍するサーカス芸人を診察することで、劣等感こそが人を成長させるカギであることに気づいたそうです。具体的には他者との比較から生まれる「悪い劣等感」と理想の自分と比較することで成長のバネとなる「良い劣等感」があるとしたのです。
私たちはつい他者と比較して自分に足りないものや他者からの評価を気にしてしまいます。しかし自分の評価を他者に委ねている間は真の満足はえられず苦しむだけなのです。大切なことは人がどう思うかではなく自分がどうありたいかということです。アドラーは「自分の課題は自分にしか意味はなく自分にしか解決できない」と言いました。つまり他者がどう思うかはその人の課題であって自分が解決することではないのです。アドラーはこのことを「課題の分離」と言いました。難しいのは他者のマネをしたいという劣等感なのか、自分の理想を追求していることからくる劣等感なのかを見極めることです。そして「他者とは違う」という他者と比較する「悪い劣等感」を言い訳にしないことです。
アドラー心理学を実践することはとても難しいのですが必要なことは「勇気」なのです。そのために必要なことは「自分の世界の見方(意味付け)を変えること」です。世界とはわたしたちが生きる環境のことでありそれぞれの経験や選択の結果です。そのため私たちは自分自身で人生を意味づけて変えていくことができるはずなのです。だからこそアドラーはトラウマのことを否定したのです。トラウマとは過去できなかったことに目を向けることですが、失敗したという事実を変えることはできませんがその意味は変えることができます。失敗をトラウマとするのか成長の糧とするのかは自分の意味づけ次第なのです。現代では子どもから大人まで自己肯定が低いことを悩んでいる傾向にあるようです。その原因の1つに「失敗に厳しい」社会であるということがあるかもしれません。日本の経済成長の低迷(失われた30年)もこのことと無関係ではないでしょう。失敗をトラウマとするのではなく成長の糧と思える風潮に変えていければいいですね。
5 上司の意見に納得できない
上司の意見に納得できない時やまわりと自分の考え方がちがう時ってありますよね?そんな時ドイツ観念論の哲学者ヘーゲルならきっとこのように答えるでしょう。「どんなことにも問題は生じるからこそ弁証法をつかうことで否定する意見をうまく取り込んでより発展した第3の道を見出しなさい」と。
ヘーゲルは意識から歴史まで幅広い思索を展開したドイツの哲学者です。哲学者としては遅咲きながらも逆境を克服してベルリン大学の総長にまで上り詰めました。近代哲学を完成させたといわれるヘーゲルの人生こそがまさに「弁証法」だったのです。ヘーゲルについてさらに詳しく知りたい方はぜひこちらの動画をごらんください。
ヘーゲルといえば「弁証法」です。これは相反する2つの問題についてどちらか一方を切り捨てるのではなく、よりよい道、すなわち第3の道を見つけたいときに使える思考法です。まずヘーゲルはどんなことにも問題は必ず生じるという考え方を前提にしていました。つまり全てが完璧に進むなんていうことは絶対にないということです。問題が起きた時どちらかを切り捨てるのは簡単ですがそれで解決しないことも多いのです。そこで弁証法では対立する問題を取り込んで「発展」させるという考え方をするのです。
たとえば自動車は環境によくないからなくすべきであるという考え方があったとします。しかし自動車はとても便利なので今さらなくすことはできないという指摘が出てきます。そこで両者のよいところを取り込んで1つ上の段階で問題を解決しようとするのです。すなわち環境への影響が少ない自動車をつくればいいという考え方をするのです。これによって誕生したのがあの「プリウス」なのです。弁証法ではある問題(テーゼ)に対してそれに対立する問題(アンチテーゼ)が存在する時、それらを止揚(アウフヘーベン)することで解決法(ジンテーゼ)を生み出すのです。
ヘーゲルはこのように弁証法によってあらゆるものが「発展」していくと考えたのです。ヘーゲルにとって「否定」はむしろ「発展」するための原動力でもあるのです。自分にとって脅威となる存在があらわれた時に戦うことも逃げることも難しい…それならば仲間にしてしまえばいいんだと考えることができるかどうかが重要なのです。水と油は混ざることがないと言われますがうまく一緒にすればドレッシングになります。弁証法というのはおたがいにとって「ウィンウィンの関係」であることがポイントです。つまりこれは単純な折衷案や妥協案ではないということを意味しています。たしかに上司の意見は納得できないところもあるかもしれないけど、よいところを受け入れることで自分もレベルアップできて相手も満足するはずです。本書ではどちらか一方に勝ち負けがつくわけではなくお互いに勝ち勝ちになることができ、そのうえでお互いの価値もあがるというおやじギャグで説明されています。いやな上司や強力なライバルが現れたときにはぜひシャットアウトするのではなく、まずは成長のチャンスだと捉えてみることが大切だと考えてみてください。
6 怒りをコントロールできない
現代はストレスの多い時代なのでついつい怒りっぽくなってしまうことがありますよね。SNSを怒りのはけ口のように使っている人も多いのでないでしょうか?そんな時ローマ帝国時代の哲学者セネカならきっとこのように答えるでしょう。「怒りは破壊をもたらし負の連鎖を引き起こすものだから、怒りを他人にぶつけずみんなで助け合って怒りの問題となった原因を解決しよう」と。
セネカは暴君として知られるローマ皇帝ネロの家庭教師として有名な哲学者です。理性と節度を信奉する「ストア派」の哲学者として様々な名言を残しました。ストア派の哲学についてさらに詳しく知りたい方はぜひこちらの記事をごらんください。
セネカは暴君ネロに仕えた経験をもとに怒りのことを悪だと批判して「この世でもっとも遠ざけるものである」と考えていました。なぜなら怒りとは「破壊」であり仕返しをしたいという「報復の欲望」だからです。報復をすればそれに対してまた報復されることになり憎しみの連鎖に陥ってしまいます。だからこそ自分の中にある怒りと闘うことで怒りに出口を与えるなと説いたのです。
たしかに怒りがわいてしまうことは誰にもとめられないことかもしれません。しかしその怒りに出口を与えないように闘うことはできるはずなのです。セネカは「人間は相互に助け合うために生まれたが怒りは破壊のために生まれた」という言葉を残しています。これは私たち人間がお互いに破壊するために生まれたわけではないことを意味しています。だからこそ怒りの原因を理性で正すようにすることが大切なのです。
それができないからすぐにカッとなって怒っちゃうんだよね…と思いますよね?セネカは「怒りが収まるまで待つことこそが勇気である」と言いました。まずは相手の言動に即反応するのではなく時間をおいてみることを実践してみましょう。何か言われて言い返したくなったら10秒くらい待ってからするようにしたり、メールの返事をするにしても一晩しっかり考えてから返すようにしたりしてみるのです。もちろん自分が嫌な思いをしているということを伝えることを我慢する必要はありません。時間をおいて冷静になってから伝えるようにすればいいのです。
セネカは理性によって問題を正していくことは「Heal(癒し)」だと言っています。怒りが収まるまで待ち、冷静に意見を伝えることでさいごに癒しが訪れる。このような3ステップこそが本来の助け合いの姿であり正しい怒りの表現であるのです。自分のことを振り返ってみてもたいてい怒りに任せて行動してしまった時は、あまりよい結果にならないことが多いように感じます。たしかにその一瞬はストレスを発散できたような気がして気持ちがいいかもしれませんが、相手も自分も傷つけることになって結果的に苦しくなっていくことが多いのです。反対に冷静になって対応できた時には自分のことを誇らしく感じることもできるのです。
怒りというのは「弱さ」の裏返しであるということを忘れないでいてください。すぐにカッとなってしまうのは余裕のなさがあらわれてしまっているということなのです。日ごろから時間的・精神的なゆとりをもって、弱っている自分のことをいたわってあげることも大切なことだといえるでしょう。
7 やらなきゃと思っても動き出せない
仕事や勉強など頭ではやらないといけないと思っていても、なかなか気分がのらず行動できないことってありますよね?そんな時フランスの哲学者メルロ=ポンティならきっとこのように答えるでしょう。「身体は自分のものであると同時に世界と自分の意識をつなぐ媒介であるので、身体というもう1つの自分に任せればおのずと心はついてくるのです」と。
メルロ=ポンティはフッサールの現象学に影響を受けて身体をありのままに記述する独自の現象学を展開したフランスの哲学者です。身体は主体でありかつ客体でもあるという「両義的な存在」だと考えました。実存主義のサルトルらと交流をもちながらもマルクス主義に幻滅して決別しました。現象学についてさらに詳しく知りたい方はぜひこちらの記事をごらんください。
メルロ=ポンティは初めて本格的に「身体」を哲学することをテーマにした哲学者です。長いあいだ哲学の世界ではデカルトの「我思う、ゆえに我あり」のように、人間の本質は意識にあり意識こそが体をコントロールしていると考えられていました。しかしメルロ=ポンティは体が意識にも影響を与えていると逆転の発想をしたのです。
まずメルロ=ポンティは「身体は自分のものであって自分のものではない」というように身体には両義性があると考えたのです。たとえば右手で左手をさわった時のことを考えてみると、触っている自分と触られている自分という2人の自分がいることに気がつくと思います。また私たちは頭で考えて行動しているように思いますが、実は無意識に行動していることも多いのです。だからこそメルロ=ポンティは「身体は世界と自分をつなぐ媒介」であると言ったのです。さらに「身体は世界を構成する肉の一部である」とも考えたうえで、頭で考えるよりも体を動かすことで意識を制御することができるはずだと考えました。
たしかに現在では心身相関(心と体はお互いに影響を与えている)という考えのもと、体から心のバランスを整える瞑想やヨガが注目されるようになってきています。実際にメルロ=ポンティの考え方は科学的にも証明されてきているのです。意識をかえることは難しくても体を整えることは比較的簡単ですよね?だからこそ意識が働くよりも前に体を動かすことが大切なのです。「しんどい」と意識してしまうと体も動かなくなるので考える前に動くのです。まず動くことで気がついたら集中して長い時間やるべきことに取り組んでいた…このような経験が誰にでもけっこうあるのではないでしょうか?ポイントは体を動かすスイッチとなる1つの動作を決めておくことです。起きるのが苦手なのであれば布団をどこかにとばすとか、仕事をするのに時間がかかるのであればまずはパソコンを起動するとか何でもいいのです。ストレスの多い現代だからこそくよくよ考えるのではなくまずは体を動かしてみましょう。ランニングをするのでもいいしお風呂にゆっくりつかるのでもかまいません。悩みは頭で解決するのではなく体を動かすことによって解決することができるのです。「もっと頭をつかえ」という言い方をされることがあると思いますが、正しくは「もっと体をつかえ」ということになるのかもしれません。
8 こんなこと意味がないと思えてしまう
勉強したって意味がない、将来の役に立つとは思えない…と思うことってありますよね?そんな時アメリカの哲学者デューイならきっとこのように答えるでしょう。「知識は目的ではなくあくまでも道具(手段)にすぎないのだから、自分が本当は何を実現したいのかを突き詰めて明確化することが大切だよ」と。
デューイはプラグマティズムの立場から道具主義を提唱した哲学者です。学校が民主主義の性質をもっている小さな社会として機能するべきであるとして、みんなで協力して主体的に問題を解決するための教育を実践しました。現代教育のアクティブラーニングの基礎を作った「問題解決の父」と称されています。デューイは「あらゆる知識や概念はそれ自体に価値があるのではなく、日常の具体的な問題を解決して豊かにするための道具(手段)だ」と言った哲学者です。つまり道具を使って何を実現したのかが大切であると考えたのです(道具主義)。それまでのヨーロッパ哲学では知識自体を追求することを目的にしていました。しかしアメリカは何もないゼロの状態から国を開拓する必要があったので、知識が問題解決にどのように役立つのかという点を重視するようにしたのです。
ただしこれは結果がよければすべてよしとする単純な結果主義などではなく、プラグマティズムの哲学はイノベーションの哲学ともいえるのです。たとえばアップルの創業者スティーブ・ジョブズは常識に従うのではなく、思考錯誤を繰り返すことでMacやiPhoneなどの発明品を生み出したのです。仕事や勉強をしていても意味を感じられなかったり役に立つと思えなかったりする時には、それをすることで何を実現することができるようになるのかを考えてみることが大切です。目的を明確にすることで初めてモチベーションにつなげることができるのです。デューイ自身も学びというものは目的意識をもって行うものであると考えていました。
また日本の学校教育で流行しているアクティブラーニングや探究学習(Project Based Learning)の原型をつくった人でもあるのです。これらの学びのプロセスは社会や企業の問題を解決する際にも十分に役立つものです。事実デューイは「問題解決の父」としてアメリカの実業家に多大な影響を与えています。原理原則にこだわらず自分のことを柔軟に修正しながら問題を解決するという姿勢は、仕事や人間関係などの幅広い悩みにも応用ができるはずです。
9 信頼されるリーダーになりたい
部下が指示を聞いてくれないのでカリスマ的なリーダーに憧れることがありますよね?そんな時仏教の創始者ブッダならきっとこのように答えるでしょう。「人を従わせようとするのではなく自然と人が従うような生き方をせよ」と。ブッダは現在のインド国境付近の小さな国シャーキヤ国の王子として生まれました。本名はガウタマ・シッダールタですが「目覚めた人」という意味のブッダとよばれます。
Z世代に対するリーダーシップのあり方がよく話題になっている今日この頃です。かつてはマキャベリの『君主論』に代表される強いリーダーシップがよいとされていました。しかし現在では傾聴や共感を重視するサーバント型リーダーが求められているようです。リーダーシップのことを話すと多くはこの2つのタイプに分類されるのですが、必ずしもこの二者択一で考える必要はないと本書では述べられています。
そもそもブッダは神ではなく悟りを開いて心おだやかに生きることを追求した人でした。そのためブッダ自身が弟子や信者を集めようとしたのではなく、ブッダのカリスマ性ゆえに自然と人が集まってきてそのまま大教団が形成されたのです。カリスマ性というと限られた一部の人だけのものと思いますがそうではないのです。手塚治虫さんのマンガ『ブッダ』をもとにリーダーに必要な要素を5つ紹介します。
1つ目は「仲間への尊敬」です。ブッダは自分のことを役立たずであると卑下する奴隷に対して「つながりの中でおまえは大事な役目をしているのだよ」と言ったそうです。ブッダのように周囲の存在を心から認めて尊敬するからこそ信頼関係は生まれます。
2つ目は「スケールの大きさ」です。ブッダは弟子に対して「この自然にとって、あらゆる生き物にとって大事なことなのか、よく考えなさい」と言い「エゴ」のない人間性の大きさを示したそうです。現在のSDGsにもつながる地球規模のスケールを当時からもっていたことがわかります。
3つ目は「無欲」です。人間が世界や自然を変えるというのは「おごり」であるとして謙虚な心を大切にしました。
4つ目は「使命感と圧倒的な能力」です。ブッダは「この仕事は私でなければできない」という強い使命感のもと、晩年まで人々のことを救う旅の中で圧倒的な能力をもって周囲を納得させ続けたのです。
5つ目は「敵をつくらないこと」です。ある弟子がブッダに対してライバル心をもっていて死に際に「憎い」とつぶやいたそうです。それに対して「おまえの敵はおまえ自身なのだ」と言ったそうです。そして自分の欲を捨てることで苦しみから逃れることができると説いたのです。
このような姿勢はとても難しいかもしれませんがブッダは自らの態度で示し続けたのです。まさに「説得よりも納得」をすることのできるリーダーだと思います。ブッダは相手に対して決して行動を強制することはありませんでした。心から相手のことを信頼しているので相手も自分に委ねられているとわかったのでしょう。これらの要素はブッダのように毎日を「善い生き方」をするように努めた先に身につくものです。ぜひ周囲の人たちを信頼して任せ、最後に責任をとることのできる人になってください
10 争いごとの切り抜け方に困っている
クレーマーやモンペの対応など不要な争いごとに巻き込まれることってありますよね?そんな時春秋戦国時代の思想家老子ならきっとこのように答えるでしょう。「余計なことは何もせずあるがままに合わせることで実は全てのことをしている」と。
老子は道家の始祖とされていますが本当に実在したのかは謎とされる人物です。中国の思想で有名なのは孔子の儒教ですが老子はその思想を否定しました。孔子はあらゆる物事を論理的に分析してカテゴライズすることで問題を解決しましたが、老子はそもそもそのような区別をすることが争いを生むと考えたのです。
道家の思想の根幹にあるのは「道(タオ)」であり「全ては1つ」という考え方です。道は万物を生み出す宇宙の原理であり人為的な区別を超えた自然の摂理なのです。老子はこの「道」に従うことですべてがうまくいくと考えたのです。そして「何もしないことによって全てのことをしていることになる」と言いました。これを表す言葉がかの有名な「無為自然」です。
また老子は「上善は水のごとし」という言葉も残しています。これは「物事の最善の状態は水のように逆らわないことである」という意味です。なぜなら水は遮るものに逆らわず相手の形に合わせて自然のままに流れていきます。これこそがわたしたちにとって理想の状態であるとしたのです。たとえば無理に意地をはってしまうとお互いに引くに引けなくなって禍根を残します。しかし相手に合わせて柔軟な態度でいることで相手も納得してくれることがあります。柔らかくて弱そうに見えるものが実はしなやかでもっとも強いということなのです。
でも相手に合わせるのは妥協なんじゃない…と思うこともありますよね?実は「無為自然」とは何もしないという意味ではなく、全体を俯瞰して最もよい動き方をするということなのです。ただ相手に合わせるのではなくどうすればみんなが嫌な思いをせずに、最終的には1つに丸く収まることができるのかを考えて行動するのです。
しかしそんなことは現実的にはなかなか難しいように思います。本書の事例ではお店にきたクレーマーにも共感して丸く収めようと述べられています。冷静になって周囲の状況をよく考えて余計なことをせずに必要な行動をするべき、と。そんなに物分かりがいいクレーマーなら誰も苦労しないよ…と皆さんも思いますよね?実際に老子の思想は難解であり本人が何か大きな功績を残したというわけでもありません。しかしそれでも老子の思想は後世にまで残り現在でも大きな影響を与え続けているのです。現代はストレスの多い社会だからこそ老子の思想を思い出すことによって、心にゆとりを取り戻してくれることもあるはずです。ふだんは孔子のように仁と徳によって論理的に過ごすことを大切にしながらも、つかれた時には老子のように無為自然な生き方を模索してみることもいいかもしれませよ。
11 人間関係のしがらみにうんざりしている
SNSや仕事をしていても人間関係のしがらみにうんざりすることってありますよね?そんな時老子の後継者といわれる思想家荘子ならきっとこのように答えるでしょう。「全ては1つしかないのだから全てをあるがままに受け入れることで、あらゆるとらわれから逃れて人生を自由に生きることができる」と。荘子は「朝三暮四」や「胡蝶の夢」など多くの寓話を用いて道家の思想を広めた人物です。老子と同じく「道(タオ)」すなわち「全ては1つ」と考えた思想家です。老子と荘子を合わせて「老荘思想」と称される道家の2トップといえる存在です。
荘子の思想を象徴する言葉が「万物斉同」です。これは道の見方をすれば「全ては価値的に等しい」という考え方のことです。たとえば先ほど紹介した寓話「胡蝶の夢」ではわたしが蝶になった夢を見ているのか、蝶がわたしになった夢を見ているのかわからないということを言っています。これは本来どんなものであっても1つなのに私たちはそれを勝手に区別して、その一部だけを見ているからわからなくなってしまうということを示しています。
さらに荘子は「人生に選択肢などない」と言うのです。私たちは選択しなかったもう1つを空想してあれこれ考えてしまうものです。しかしもともと1つなのに他に選択肢があったと思うから悩むのであって、実際には自分が選んだ道しかないのだと捉えれば迷いも後悔も生まれないのです。
なんか消極的な感じがしますが荘子は「逍遥遊」という言葉も残しています。人生を遊ぶかのように逍遥(散策)してその瞬間を無心で楽しむという意味です。このように何事にもとらわれない自由自在な境地こそが真人であると考えたのです。真に自由であればあらゆる物事も同じ1つのものとして捉えることができるはずです。人間関係という言葉もあちらとこちらに区別することによるとらわれであるので、もともと同じ1つのものであると考えればそのような関係性に固執することもないのです。
荘子は論理的に区別することで逆にとらわれて不自由になってしまうと指摘しました。わたしたちは区別という名の囲いを勝手につくって、自分をそこに閉じ込めることによって窮屈になってしまっているのです。特に現代社会では社会的な役割やルールが多くそこにとらわれやすくなっています。だからこそ荘子のように考えることができれば精神的に解き放たれて自由になれるのです。
中国には「差不多(チャブドゥオ)」という言葉があります。これは「多くの差はなく全ていっしょ」という意味で日本語なら「ま、いっか」です。「ま、いっか」ですまないこともあるとは思いますが、たまには「ま、いっか」と言ってみるとあたかも問題が解決したように感じられるのです。これはわたしだけに限らず周囲も巻き込んで幸せを感じることができる不思議な言葉です。ピンチの時には「ま、いっか」と言って場を和ませることも試してみてください。命に関わらなければ対策はそのあとで考えてもきっとおそくはないのですから。
12 本当にやりたいことが見つからない
自分が本当は何をやりたいのかわからなくなる時ってありますよね?そんな時日本の哲学者西田幾多郎ならきっとこのように答えるでしょう。「自分にとって大事なものを見極める時には主観と客観を分ける前の純粋経験に素直に従えば迷うことなく前進できるはずだ」と。西田幾多郎は日本における京都学派を創始した哲学者です。京都帝国大学の教授として西洋哲学と大乗仏教を融合した日本独自の哲学を構築しました。参禅と思索が結実した著書『善の研究』は当時ベストセラーになりました。西田が思索して歩いた銀閣寺から若王子神社までの小道が現在も残っており、「哲学の道」と呼ばれ四季折々の風景を眺めながら散策することができます。
西田は本当に正しいこと(真理)を探究するなかで、目的に向かって合理的に考えようとする西洋哲学を問い直し、自ら実践していた「禅」の思想を融合させることで独自の哲学を構築しました。そして善(もっとも善いこと)を「才能の開花」と位置付けて、それを実現するものこそが「純粋経験」であると考えたのです。純粋経験とは経験する一歩手前の主観と客観が混ざった状態のことです。わたしたちは何かを経験する時に物事(客観)を心(主観)でとらえることで経験します。つまり経験とはわたしたちが物事を認識したり判断したりすることだといえます。しかし西田はその経験の直前の主客が一体化した瞬間にこそ真理があると考えたのです。
たとえば美しい音楽が聞こえてきた時のことを思い出してみてください。「なんの音楽だろう?」と考え始める前の瞬間から「あの曲だ!」とわかるまでの一瞬に、経験以前の純粋な体験が存在するというのです。そして実はその瞬間というのは物事をあるがままに受け止めることができるので素直にやりたいことが見つかりやすくなると西田は言うのです。
西田は善とは「才能の開花」であることから「真の自己を知る」ことであり、それはすなわち「人格の実現」であると考えました。私たちが物事を主観で捉えるということは異なる対象が自己の中に入ってくることです。つまり経験が始まった瞬間から対立が起こってしまうのです。しかし純粋経験は主観と客観が一体となったあらゆる矛盾が共存する状態です。言いかえれば「自他を分け隔てない優れた人格」のことでありこれこそが善であるのです。西田が実践した禅も老荘思想の道も「すべては1つ」つまり無になるものでした。だからこそ西田の哲学は「無の哲学」とも言われているのです。これらは近代的で合理的な思考の過程で排除されてしまった人間本来の豊かな体験を取り戻すための思想であることから近年では、世界の分断を乗り越えて平和を実現するための思想であると世界的にも評価されています。なぜならそもそも対立が生じるのは自分と相手を区別するからなのです。すべては1つであるということがわかればそこに対立は存在しなくなります。何をしたいのかわからなくなるということは本来の自分がやりたいことに目を向けず、自分と自分がやりたいことを分けて考えてしまうからなのです。
純粋経験とはあれこれ考えるのではなく気がついたらやってしまうことだともいえます。意識することなくやってしまうのは主客を分ける前の瞬間にほかなりません。そのため普段ぼんやりしている時に自分が何をしているのかを振り返ることも大切です。たしかに生きていくうえでは論理的・合理的に考えることが不可欠です。しかし自分にとって大切なものを見極める時には西田幾多郎の説く「純粋経験」の感覚に従うことも忘れないでください。自分が何を求めているのかを見失わないためにも、これら2つの思考を意識して使い分けてみることが大切なのです。哲学とは「新しいものの見方や考え方」をもつことです。哲学を通していろいろな思考の仕方ができるようになれば人生はきっと楽になりますよ。
13 まとめ
今回は「哲学で人生が楽になる!?東洋の哲学編」について考えてきました。記事の中では紹介することができなかったこともまだまだありますので、ぜひ本書を手に取って教養としての哲学をふかめていってください。「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。「人間は思考することをやめてしまえば誰もがナチスのような巨悪になりうる」公共哲学の哲学者ハンナ・アーレントはこのように言いました。これからも「哲学」のおもしろさを発信していきますので、ぜひゼロから一緒に学んでいきましょう。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。
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