今回は「独断と偏見で選ぶ奇人変人の哲学者BEST5」を紹介したいと思います。
世界の真理を解明しようとした哲学者はひたすら思索にふける人格者のような人ばかり―そんなふうに思っていた時期が私にもありました…。哲学という言葉はもともとギリシア語の「フィロソフィア」が語源となっています。フィロは「愛する」でありソフィアは「知」を意味していることから、「知を愛する」という考え方を提唱した人物こそかの有名な哲学の祖ソクラテスなのです。
ソクラテスといえばイエス、釈迦、孔子に並ぶ四聖人の1人に数えられています。このように考えると、哲学者は誰もが聖人君子とよべるような人物に思えますよね?しかし、そんなことは全くありません(断言)!哲学者の中にもとんでもない人はたくさんいるのです。そもそも、ソクラテスは結婚することに関して「良い妻と結婚すれば幸せに、悪い妻と結婚すれば哲学者になれる」と言って妻のクサンティッペさんに頭から水をぶっかけられているような人だったのです。(ちなみに、クサンティッペは世界三大悪妻といわれる偉大な人でもあるのですが…)
『進撃の巨人』という壮大な哲学書の中にはさまざまな恐ろしい巨人が登場するのですが、その中に通常では考えられない行動をする「奇行種」という巨人が登場します。同じように、哲学者の中にも「奇行種」ともよべるような奇人変人がたくさんいるのです。そこで、今回は独断と偏見で奇行種の哲学者BEST5を紹介したいと思います。哲学者の思想については最低限の解説にとどめることで、それぞれの哲学者の愉快で最低な言動の数々を紹介していきます。
最初のこの図を見ただけでわかったらあなたはきっと相当な哲学マニアだと思いますよ!「哲学は何の役にも立たない」「哲学は難しくて答えの出ないことを考え続けるだけ」このように思っている方にはぜひ今回の動画を難しく考えずに楽しんで観て頂きたいです。「哲学ってけっこう身近なものかも…」そんな風に哲学に興味をもって頂けたら幸いです。今回の動画が面白かったと感じた時にはぜひチャンネル登録と高評価をお願い致します。
第5位 カント
イマヌエル・カントは東プロイセン首都ケーニヒスベルクで生まれた哲学者です(ケーニヒスベルグは現在のロシア領カリーニングラードのことです)。馬具職人の家庭だったことから若いころは経済的に困窮しながらも哲学の道を志すのです。生涯独身を貫いたカントでしたが大学教授となって学生から結婚の相談を受けた時には「美貌の女よりも金持ちの女を選びなさい」と言ったそうです。容姿は時と共に衰えていきますが金は賢く運用することで時と共に増えていくからです。カントは手元の金貨が20枚を下回らないように浪費を控えた生活をしていたそうです。このようなエピソードからはカントのまじめ(!?)な性格がよく伝わってきますよね。
そんなカントは規則正しい生活を心がけていたことでも有名です。健康を維持して長生きをするのは自身の仕事をやりとげるために必要なことであり、その中でも知性を明晰に保つことに特に気を配っていたといわれています。具体的には就寝時間は10時で起床時間は5時と決まっているのはもちろん、仕事や食事や散歩の時間も正確に決めていたとされているのです。まず、起床したら朝食はとらず紅茶を二杯と煙草で一服をしていました。昼食では会食を通してさまざまな知見をえることを楽しみにしていました。その内容はライ麦パンとチーズに肉料理を食べていたそうです。そして、ドイツといえばビールなのですがビールは飲まなかったと言われています。チーズの栄養は頭脳によくビールは眠気を誘う怠惰なものであると考えていたのです。
昼寝をすることもなく眠くなるので夕食はとらずに読書の時間に充てていました。また、いつも同じ時間に散歩をしていたので近所の人は、カントの散歩の時間と自分の家の時計がずれていたら家の時計を直したと言われています。ちなみに、一度だけこの散歩の時間に遅れて街の人をざわつかせたことがあるのですが、その理由は第2位の哲学者のところで紹介する予定なのでご期待ください。カントはこの哲学者のおかげで「無学の愚民を軽蔑した時代もあったが、その謬りを正してもらい人間を尊敬することを学ぶようになった」と述べています。
現代でも話題の1日1食の断食ダイエットを行うほど厳格で健康志向のカントの生活には、もしかして結婚生活のような予定外が起こるものが入る余地はなかったのかもしれません。ただし、カントは自分に対しては厳格でありながらも他者に対しては寛容でもありました。他者の行為を批判することなく講義はとてもわかりやすいので学生からもよい評判でした。
そんなカントの哲学における「自由意志」とは「やりたいことをする」のはなく「やると決めた正しいことを徹底する」意志(寝たいから寝るはダメ)ということなのです。ケーニヒスベルグ大聖堂に接する霊廟にある墓標には「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」という著書『実践理性批判』の一文が刻まれているそうです。カントは若いころ研究していた天体に見ることのできる絶対的な自然法則(外的真理)と人間の中に見ることのできる道徳法則(内的真理)の美しさを探究した哲学者だったのです。参考文献の『独身偉人伝』(著者:長山靖生さん)はとても面白いのでおすすめです。
逸話の多いカントを5位にしたのは奇行ではあっても個人で完結してくれているからです。しかし、上位の哲学者たちは他人にまで影響を与える奇行種ですのでご期待ください。
第4位 ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン
ウィトゲンシュタインはオーストリアの分析哲学を代表する哲学者です。裕福な家庭で8人兄弟の末っ子として生まれ芸術にも親しむ生活を送っていました。しかし、3人の兄は自殺をしており本人も自殺願望やうつに苦しむこともあったようです。父の莫大な遺産を放棄したのですがその時の言葉は「金は腐るから腐った連中にくれてやる」と言ったそうです(カント…)。
父の意向でベルリン工科大学において機械工学を学んで2年後マンチェスター大学工学部で航空工学を学びプロペラの設計に携わりました。この研究で取得された特許は第二次世界大戦のヘリコプターにも利用されました。そして、機械工学に必要な数学を学ぶため『数学原理』を読んだことがきっかけでケンブリッジ大学のバートランド・ラッセルのもとを訪れ哲学を学ぶことになるのです。
ある日ウィトゲンシュタインが「私はバカですか?」とラッセルに尋ねた時には「バカなら飛行士になり、そうでないなら哲学者になります」と言ったそうです。1914年に第一次世界大戦が始まると愛国主義者であったことから志願兵となります。そして「死に瀕する経験ほど人を人らしくする経験はない」という信念のもと、自ら危険な前線への配属を希望したといわれています。
ウィトゲンシュタインは塹壕の中で哲学的なアイデアをノートに書き留めていました。これが有名な「語りえぬものについては沈黙せねばならない」という『論理哲学論考』です。「語りえぬもの」とは論理で真を導くことができないものという意味のことです。その結果ウィトゲンシュタインはカントが人間の認識できる限界を示したように、言語(哲学)の限界を明らかにした(沈黙しなければならない)のです。
そして、否定しようのない確定的な真理と諸問題に対する最終的解決を含んでいるとして急に哲学をやめて故郷で小学校の教師になるのです。小学校では子どもの興味に応じて理科の時間に猫の骸骨を集めて骨格標本を作ったり、夜に集まって天体観測や自分の顕微鏡で道端の植物を観察させたりしていたそうです。しかし、保護者から子どもへの体罰を訴えられて退職し修道院の庭師、姉の家の建築家などさまざまな職を転々とした後に再びケンブリッジ大学にもどって哲学を再構築するのです。この時、教職に就くために『論理哲学論考』を博士論文として提出するのですが、試験官であり師でもあるラッセルに対して肩にポンと手を当てて「心配する必要はない、あなた方が理解できないことはわかっている」と言ったそうです。
ちなみに、ラッセルも相当な人で80歳の時に4度目の結婚をすることになりました。ウィトゲンシュタインが癌によって病床に伏している時に見舞いをしたのですが、「私はもう80歳になるけど20歳くらい若く見せる方法はないかな?」と聞いたとか…。超がつくほどまじめで潔癖なウィトゲンシュタインは若干キレ気味になるものの「ラッセルも老いたし、自分も死の床にいるのか…」と心が和らいだそうです。そして「あなたは数学者なのだから答えは簡単です、恋人に20歳も若く見られたいというなら100歳だと言えばいい」と言いました。
奇人変人の名をほしいままにした奇行種ウィトゲンシュタインは師バートランド・ラッセルをして「最も完全な天才の生きた実例」といわしめた傑物でした。もし履歴書があれば航空工学で特許→数学を学ぶために大学へ行き哲学を専攻する→従軍して塹壕の中で世紀の名著を記す→小学校の教師→修道院の庭師→建築家→ケンブリッジ大学の哲学教師というとんでもない経歴を書くことになりますね…。
マネするにも不可能なのは承知の上ですが仕事で大切なプレゼンをすることになったら「心配しなくてもいい、あなた方に理解できないことはわかっている」と言ってみましょう。もしくは、何か自分にとって不都合なことがバレてしまった時などには「語りえぬものについては沈黙せねばならない」と言って黙秘するのもおすすめです。(ちなみに、プレゼンや人間関係がどうなっても責任は一切とりません)
第3位 ジャン=ポール・サルトル
サルトルはフッサールやハイデガーに影響を受けたフランスの実存主義の哲学者です。神学者・音楽家である「密林の聖者」アルベルト・シュバイツァーは親戚にあたります。哲学者であり文学者としても秀でた才能をもち1964年にノーベル文学賞を受賞しますが「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」と言って辞退しました。
そんなサルトルは幼少期から学問は優秀でも背が低くギョロ目でおまけに強度の斜視という外見的コンプレックスを抱えながら生きてきました。にもかかわらず「モテたい」という思いだけは誰よりも強く、学内で美少女に告白するも幾度となく拒絶される経験を重ねたと言われています。
サルトルの実存主義はこの外見的コンプレックスを克服するために到達した哲学なのです。はじめに「神は存在しないのだからどのように生きるのかは自由であり、人間は自己の主体的な選択と決断によって生きるべきである」とサルトルは考えました。「実存は本質に先立つ」という言葉において、人間はまず存在していて、自分の本質(役割)は自分で自由に決めることができる(対自存在)と考えたのです。
サルトルは「持って生まれたものなんてどうでもいい」と考えて次のように言いました。「これからなろうとするがまだなれていないものになりうるということだけが重要なのだ」こうして、外見的コンプレックスを抱えるモテない少年ではなく、フランス哲学界をリードする知的エリートとして生まれ変わることができたのです。1980年に亡くなりその葬儀には50000人が参列したと言われるほどの人気者でした。
サルトルには哲学者シモーヌ・ド・ポーヴォワールという契約結婚をした女性がいました。ポーヴォワールは人間の自由と女性解放フェミニズムの先駆者であり、「人は女に生まれるのではない、女につくられるのだ」という有名な言葉を残しています。サルトルは20代のころには母方の祖父母から相続した約1600万円の遺産をこのポーヴォワールとの2~3年の旅行で使い切ったと言われるとんでもない浪費家です。サルトルとポーヴォワールは生涯で一度も同棲をしたことがないといわれています。契約結婚とはお互いに他の異性とも恋愛をしながら続ける結婚生活のことなのです。サルトルはポーヴォワールに対して「ぼくたちの恋は必然だけど偶然の恋も経験したいな」とか言っちゃって浮気相手との関係について逐一手紙で報告していたとされています。(ポーヴォワールはこの手紙を大切に保管してサルトルの死後に出版までしています)
ポーヴォワールがサルトルに嫉妬するのかを尋ねたところサルトルは、「他の男性がいても自分が絶対であるという確信は揺るがない」と断言していたそうです。コンプレックスを抱えながらも自らの哲学に忠実にその実存を体現した哲学者サルトル、華やかなファッションやカウンターカルチャーを愛する若者たちで活気づくパリ―その中心サンジェルマン大通りのカフェで若者たちと幾度も語り合ったといわれています(そのため、ついたあだ名が「サンジェルマン通りの法王」)。
契約結婚をしながらたくさんの愛人とのハーレムな生活を送ったサルトルの実存主義、どうしても浮気をしたくなった時には「この恋は必然だけど偶然の恋も経験したいな」こんな風にパートナーに言って現代ならLINEで報告するのもいいかもしれませんね(ちなみに、パートナーとの関係がどうなっても責任は一切とりません)。
第2位 ルソー
ルソーは「一般意志」という概念を通して民主主義を構想したフランスの哲学者です。生後まもなく母を亡くし10歳の時に父が告訴されてジュネーブを逃亡しました。さらに、奉公先では度重なる虐待を受けるようになったことがきっかけで、嘘をついたり盗みをしたりする非行少年になってしまったのです(仕方ないけど…)。
「お尻を出せば興味をもって叩いてもらえると思ったのになぜか逮捕されてしまった」
ルソーといえば若い女性の前で全裸になってこう言った言い訳があまりに有名です。(『史上最強の哲学入門』ではルソーの二つ名を「お尻を出した子一等賞」としています…)。さらに、ルソーは愛人との間にできた5人の子どもを孤児院に送りつけてしまうのです。また、ルソーは行く先々で数々の著名人とも論争を起こしてしまうのでした。その結果、ヴォルテールには子どもを孤児院に入れたことを暴露までされてしまいますが「みんながそうしているから子どもにも最善の方法だと思った」と弁解をしています…。
そんなルソーですが天賦の文才を発揮して刊行した書物はどれもベストセラーとなります。特に『エミール』では教育論について子どもの自発性を重視して、内発性を社会から守ることに主眼を置いた現代にも通用する教育論を展開しました。発育初期の教育については「徳や真理を教えること」ではなく、「心を悪徳から精神を誤謬から保護すること」を目的とするべきであると述べました。(子どもを孤児院に送ったやつがどの口でと思いますが…)。
実は現代でも通用する画期的な教育書でもあったこの『エミール』こそが第5位で紹介したカントが読みふけって散歩に遅刻した原因となったのです。あまりの面白さに時間を絶対に守るカントでさえ時間を忘れてしまうほどだったのです。また『社会契約論』『人間不平等起源論』では社会契約説と一般意志について書かれており、後のフランス革命にも多大な影響を与えることになりました。さらに、音楽家としても有能でオペラ「村の占い師」の挿入曲が日本の童謡「むすんでひらいて」であり文部省唱歌となっています。
一躍時の人となったルソーでしたが絶対王政の時代に社会契約論はさすがにアウトでした。フランスを国外追放されて故郷ジュネーブでも逮捕状が出されてお尋ね者の仲間入りです。女性の前でお尻を出して子どもを孤児院に送るという哲学界でもぶっちぎりのクズ男は現代社会の基本となる民主主義と教育論を構想した哲学界でも有数の革命児だったのです。ルソーがお尻を出さなかったら私たちは未だに絶対王政の鳥籠の中にいたかもしれません。
番外編
第1位を発表する前にベスト5に入れられなかった哲学者も少しだけ紹介します。1人目は厭世主義のアルトゥール・ショーペンハウアーです。パンチの効いたこの顔つきとこの髪型を見たら二度と忘れられないほどの猛者です。ベルリン大学の講師として人気絶頂のヘーゲルと同じ時間に講義をぶつけるものの聴講生はたったの数人という惨敗を喫して大学を去ることになるのです。負け惜しみとしてヘーゲルのことを「酒場のおやじみたいな顔」と悪口を言ったとか…そのまま生涯を通して在野の哲学者として活躍するのですが、その哲学には「友だちいらない」「生きるのは苦痛」などのパワーワードが並んでいます。
2人目はイギリス経験論の祖といわれるフランシス・ベーコンです。演繹法では物事の説明はできるかもしれないけど知識を増やすことはできないと批判し、「知識は力なり」と言って実験や観察を通して「知識」を増やすべきであるとしたのです。そんな実験が大好きなベーコンは晩年に冷凍保存する技術が人類の発展に役立つと考えて、なんと鶏に雪をつめこむ実験をしていたところ体調を崩してそのまま…という変態です。そんなベーコンはあのシェイクスピアと同一人物ではないかという噂があるのでした。
3人目は日本でも大人気の哲学者フリードリヒ・ニーチェです。「俺を満足させるには三人の女が必要だ」とか「女に会いに行くなら鞭を忘れるな」とか、どこかのプレイボーイのようなことをのたまう割に全く持てなかった伝説の超人です。父親のことは心から尊敬していたのですが母親と妹のことは以下のように蔑んでいます。「こんなゲスな連中と家族であると思うだけで、私の神々しさが冒とくされる」ニーチェはトリノの広場で人目もはばからず泣きながら馬の首を抱えて発狂したそうです。そのまま10年間の精神錯乱状態が快方することなくこの世を去ることになるのです…(ニーチェを入れるか迷ったのですがなんとなく心情的にどうしてもできませんでした)。
まだまだいっぱいいるのですが、そろそろ第1位を発表したいと思います。言うまでもないぶっちぎりの1位は前回のストア派の動画でも予告したあの哲学者です。
第1位 ディオゲネス
第1位は樽の中で生活した究極のミニマリストであるキュニコス派のディオゲネスです。キュニコスとは「犬のような」という意味でシニカル(皮肉的な)の語源にもなりました。ディオゲネスは現トルコのシノペで生まれましたが貨幣偽造の罪で国外追放されました。そして、アテナイでキュニコス派の開祖アンティステネスに弟子入りを志願します。
アンティステネスが「弟子をとるつもりはない」と断ってもしつこく頼みこまれるので、ディオゲネスのことを杖で殴って追い返そうとした時のことです。「どうぞ殴ってください、木は私を追い出すほど堅くありませんから」と言ってアンティステネスに弟子入りを許可されたといわれています。
キュニコス派では物質的な豊かさや社会的な地位に執着することを否定して、自然な状態に回帰することで真の幸福が得られると考えられていました。ディオゲネスも「真の幸福は自由で自律的な生活にある」と考えていました。そのため、外見を気にせず粗末な上着のみを着て乞食のような生活をしていました。
彼は神殿やアゴラでも気にすることなく食事をしては寝ていたので「アテナイ人は自分のためにわざわざ住処を作ってくれる」と言ったそうです(汗)。また、ディオゲネスは酒樽に住んだことから「樽のディオゲネス」ともよばれていました。アテナイの人々は、その樽が誰かに壊されると新しい樽をあげたとさえ言われています。そして、挙句の果てには道ばたで公然と自慰行為に及ぶこともあり、「擦るだけで満足できて、しかも金もかからない」と言ったとされています…。
ディオゲネスが究極のミニマリストたる所以は樽の中でコップだけで生活していた時に手で水をすくって飲む子どもを目にしてコップすらも投げ捨てたとされているからです。これが「アテナイの学堂」でディオゲネスの横に小さなおわんが描かれている理由なのです。
そんなディオゲネスは「徳を身に付けることが人間の真のあり方である」と考えていました。そのため、ディオゲネスは昼間からランプに明かりを灯して街中を歩きまわっていました。街の人々が何をしているのかと尋ねると「人間を探しているのだ」と答えたのです。もちろん、特定の誰かではなく「徳のある善人」を探しているという意味であり、そんな人間はなかなか巡り合えないということをその行動で風刺していたとされています。
ディオゲネスは「反知性主義」ともいえる立場であったのであのプラトンが大嫌いでした。プラトンが「人間とは二本足の羽のない動物である」と偉そうに論じているとディオゲネスはケンタ…羽をむしり取った鶏とともに教室に現れて、「これもプラトンの言うところの人間だ」と盛大に煽ったと伝えられています。プラトンはディオゲネスのことを「狂ったソクラテスだ」と言ったとされ、その後は人間についての定義には「平たい爪をした」という語句が付け加えられたそうです。
そんなディオゲネスの噂を聞いたアレクサンダー大王がディオゲネスを訪ねてきました。大王が「私はアレクサンダー大王である」と言うと、「私は犬のディオゲネスです」と答えたと言われています。そして大王が「私のことがこわくないのか?」と問えば、「あなたは何者ですか?善人ですか?悪人ですか?」と聞き返して、大王が「もちろん善人である」と言ったところ「善人であるなら何をおそれることがあるでしょうか?」と答えたとされています。これに感銘を受けた大王は「何か望みはあるか?」と尋ねると、あろうことか「太陽の日がさえぎられるからそこをどいてください」と答えたのです。大王は帰路の途中「大王でなかったならディオゲネスになりたい」と言ったそうです。
説明不要のぶっちぎり1位であるディオゲネスは現代にも通じる思想をもっていました。それが「コスモポリタン思想」(コスモポリタニズム)です。ディオゲネスが海賊に襲われ奴隷として売り出された時に「どこから来た?」と問われて「私は世界市民(コスモポリタン)である」と答えたことにその起源があります。この時、国家や民族に囚われない「コスモポリタニズム」が世界で初めて唱えられたのです。
幸福の哲学でもあるストア派の源流となったディオゲネスの崇高な哲学はきっと悩み多き現代人の心をわしづかみにしてそのまま砕いてしまこと間違いありません。みなさんの幸福への第一歩もこのディオゲネスをマネするところから始まるのです(繰り返しますが、どうなっても責任は一切とりませんのでご了承ください)。
まとめ
今回の動画は「奇人変人の哲学者BEST5」を紹介しました。動画の中では紹介することができなかったこともまだまだありますので、ぜひほかの動画も参考にして頂きあなただけの「推し哲」を見つけてください。そして、今回の動画をきっかけに哲学に興味をもって頂けたのであれば、ぜひこちらの動画を参考にして「哲学のはじめの一歩」を踏み出してみましょう。
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