今回は「百年戦争」について解説したいと思います。参考文献は『仕事に効く 教養としての「世界史」』(著者:出口治明さん)です。
中世ヨーロッパにおける最大の争いである「百年戦争」をご存じでしょうか?百年戦争は1337年にイギリス国王エドワード3世がフランスの王位継承権を主張して、ヴァロワ朝のフィリップ6世に戦いを挑んだことがきっかけで始まったとされています。そして、断続的に約100年に及ぶ争いが続いたことから「百年戦争」とよばれるのです。
「百年戦争といえばジャンヌ・ダルクのことしか知らない」
「ジャンヌ・ダルクは英雄のはずなのになぜ処刑されなければいけなかったの」
このように考えている方は「中世ヨーロッパとキリスト教」について知る必要があるのです。 中世ヨーロッパの世界では前回の動画で解説したヘブライズムの思想―中でもキリスト教カトリック教会が大きな影響力をもっていました。1077年には「カノッサの屈辱」とよばれるローマ皇帝を破門する事件が起こります。また、1095年にはクレルモン公会議において「十字軍」への呼びかけが行われました。皇帝や国王を差し置いて宗教指導者が軍隊を動かすほどの権力を有していたのです。そんな1000年以上も続いた中世の最も象徴的なできごとこそが百年戦争なのです。
そこで、今回は百年戦争の概要とヨーロッパ諸国への影響について詳しく解説します。暗黒時代といわれた中世から啓蒙時代といわれる近代への転換点こそが百年戦争なのです。 百年戦争の全体像を把握することができれば複雑なイギリスとフランスの関係性やキリスト教カトリック教会の中世ヨーロッパ世界における影響、そして中世から近代へどのように社会の価値観が変化したのかを理解することができます。内容がわかりやすかったと感じた時にはぜひ高評価&チャンネル登録をお願いします。
1 百年戦争の概要
百年戦争はイギリスとフランスの争いであると思われている方もいるかと思いますが、この時代にはまだ近代的な主権国家とよべるものは存在していませんでした。そのため、イギリスとフランスという国家間の戦争というものではなく、プランタジネット家とヴァロワ家のフランス王位をめぐる争いであったと考えられます。イギリスとフランスの関係についてはぜひこちらの動画を参考にしてみてください。
1066年フランスのノルマン公国によるノルマン・コンクエストによって、ノルマンディー公ギョームがウィリアム征服王としてイングランドの国王になりました。そのため、イングランド王がフランス国内に領地をもつという状態になってしまうのです。その後、両者はさまざまな問題を抱えながら対立を続けていくことになるのです。
14世紀になって、イギリス産の羊毛を原料にした毛織物産業が盛んなフランドル地方やぶどう酒の産地として重要なイギリス領ギエンヌ地方をめぐって両者は対立していました。そこに、フランスのカペー家の王位が断絶したことで王位継承したヴァロワ家に対して、エドワード3世の母がカペー家であったので開戦の口実として継承権を主張したのです(ただし、サリカ法によってフランスでは男系男子にしか継承権はないとされていました)。
戦場となったのはフランスの国内であってフランス領主たちも二派にわかれて争いました。100年に及ぶ戦争によってフランスの封建制は没落していくことになり、シャルル7世の頃には常備軍が組織化されて絶対王政の基礎が築かれることになるのです。
また、イギリスでもその後のバラ戦争によって封建領主の没落が進み、デューダー朝による絶対王政が誕生するきっかけとなったのです。
このように戦乱が長く続いた原因の1つにカトリック教会の影響力の低下があげられます。中世ヨーロッパでは国王同士による王位継承や領土問題などの対立が生じた時には、カトリック教会のローマ教皇による仲介が慣例となっていました(現在の国連?)。しかし、当時のローマ教皇は1309年からの「教皇のバビロン捕囚」にあたる時期でした。フランスのアヴィニョンに教皇庁が移されそこから暫くフランス人の教皇が続いたのです。そのため、フランス監視下のローマ教皇にイギリスが仲介を依頼することは不可能でした。
そして、1378年のシスマ(教会大分裂)によって教皇は調停能力を失ったのです。このような知識を前提とすることで、百年戦争がより理解しやすくなると思います。
2 百年戦争
百年戦争は1337年からの前半戦と1389年からの休戦期間、そして1415年からの後半戦に分けて考えると理解しやすくなります。前半戦も後半戦もイングランドが優勢に戦を進めるのですが、フランスが巻き返して最終的にはあの人物の登場によって逆転勝利をかざります(サッカーでいえば前半1-1後半2-1でフランスの勝利みたいな感じです)。
2-1 前半戦(1337年~)
実際の戦闘はエドワード3世がフランスに上陸した翌年の1340年に始まりました。イギリス軍は「長弓(ロングボウ)」を使用して優位に戦闘を進めていきました。1346年クレシーの戦いではイギリスの歩兵部隊がフランス騎士軍を破り優勢を保ちます。そして、1347年にイギリス軍がカレー地方を占領することに成功します。
1356年ポワティエの戦いではエドワード黒太子の活躍によってフランスに勝利します。(あの名作RPGに登場する暗黒騎士のモデルとなったといわれている?)フランス国王ジャン2世を捕虜にしてブレティニー条約を結び、ギエンヌ地方のイギリス領地を大きく拡大することに成功したのです。
いっぽう、フランスで即位したシャルル5世は「ブルターニュの鷹」と呼ばれるゲクラン将軍を抜擢しました。1367年ナヘラの戦いでゲクラン将軍とエドワード黒太子が激突することになるのです。不敗のブラックプリンスはこの戦いに勝利するものの病気になって戦線から退場しました。そのため、1370年ポンヴァランの戦いでフランス側が勝利をおさめるのです。
イギリスの無敗神話が崩壊したことでフランスは巻き返しを図るようになります。シャルル5世はフランスに常備軍を用意する必要性を説きました。中世の軍隊は主に傭兵(アルバイト)が担っていたのですが、いつでもフランスの戦術を理解した味方の軍隊を備えるようにしたのです。
2-2 休戦期間
このように、前半戦はフランスが巻き返していくのですがさまざまな問題も起きます。1348年ごろにヨーロッパに広がった黒死病(ペスト)が両国に大きな被害を与えました。このとき、ヨーロッパの人口の3分の1が黒死病によって亡くなったともいわれています。
また、1358年にフランスでジャックリーの乱、1381年にイギリスでワット=タイラーの乱という2つの農民反乱も起こりました。それぞれの国内で病気と農民反乱という2つの問題にも対処しなければなりませんでした。
また、この時期イギリスでエドワード3世とエドワード黒太子が亡くなった後にフランスでもシャルル5世とゲクラン将軍もこの世を去ることになるのです。そのため、イギリスではリチャード2世が13歳、フランスではシャルル6世が11歳で即位することになりました。両国で幼い少年王が即位したことで自然に休戦期間が保たれるようになったのです。
15世紀になってその休戦期間もおわりを告げるのですが、その原因はフランス国内の権力争いによる内部分裂でした。
2-3 後半戦
15世紀に入ると、フランスは次第に内部分裂をしていくことになるのです。ヴァロワ朝のシャルル6世の弟オルレアン公ルイと従兄弟ブルゴーニュ公ジャンが権力争いをするのです。その結果、親イギリスで東北部を基盤とするブルゴーニュ派と南西部を基盤とするオルレアン・アルマニャック派に分裂して内乱状態となるのです。
この機に乗じてランカスター家のヘンリー5世はノルマンディーに上陸しました。1415年アザンクールの戦いで勝利したことがきっかけでトロワ条約を結び、ブルゴーニュ派はイギリスと結託してシャルル6世の娘とヘンリー5世を結婚させます。
1422年にヘンリー5世は亡くなるものの、ブルゴーニュ派はその息子ヘンリー6世を英仏両国の国王として即位させるのです(イングランド王ヘンリー6世でありフランス国王アンリ2世として)。
これに対抗するように、オルレアン・アルマニャック派はシャルル6世の息子をシャルル7世として即位させるのです。しかし、シャルル7世はブルゴーニュ派が支配するパリに入ることができませんでした。そして、1428年にイギリス軍はアルマニャック派の拠点オルレアンを包囲するのです。
ここで登場するのが百年戦争の英雄ジャンヌ・ダルクです。1429年にジャンヌは神のお告げを受けてシノン城でシャルル7世と面会をしました。そして、オルレアンを解放するため軍の指揮に加わり見事これを成功させるのです。
オルレアンを解放したフランス軍は反転攻勢をしかけていきます。ジャンヌと共にランスに赴いたシャルル7世は歴代のフランス王の先例にならって、ノートルダム大聖堂で国王塗油と戴冠の儀式を行い正式にフランス国王に即位したのです。しかし、ジャンヌ率いるフランス軍はパリ攻略に向かうもののこれに失敗して、1430年にコンピエーヌでブルゴーニュ派によって捕らえられてしまいます。そして、イギリス軍に引き渡され宗教裁判の結果ルーアンで火刑に処されるのでした。
ジャンヌ・ダルクを処刑したヘンリー6世(アンリ2世)でしたが、イングランド風の戴冠式をパリで行ったことにフランス国民は不満をもつようになります。その後、シャルル7世は1435年にブルゴーニュ派とアラスの和約で講和しました。これによって、ブルゴーニュ派とイギリスの同盟が破棄されることになり、フランス軍は反転攻勢の後にパリに入城するのです。
そして、1453年カスティヨンの戦いで大砲を用いて勝利したフランスはイギリス領ギエンヌ地方の中心地ボルドーを占領しました。その結果、フランス本土から北部のカレーを除きイギリスの支配地がなくなってことで、百年戦争は終結することになるのです(さらに100年後にカレーもフランス領に入ることになります)。
これによって、ドーバー海峡を挟んでグレートブリテン島がイギリス、大陸側がフランスという国境線が確定することになったのです。
3 百年戦争のその後
百年戦争が終結すると、ヴァロワ朝のシャルル7世は国土の統一的な支配を実現しました。しかし、イタリア戦争でハプスブルグ家との戦いが始まっていくのです。
いっぽう、イギリスではランカスター家とヨーク家による王位継承をめぐる争い―30年に及ぶ血みどろの「バラ戦争」が始まるのです。その結果、封建諸侯は没落していくことになりデューダー朝による絶対王政が始まります。
このように、百年戦争は封建領主の没落をもたらし結果的に王権の強化につながりました。そして、国王のもとで絶対王政による統一的な主権国家が形成されるようになるのです。主権国家とは自国のことを自分で決定できる権利(主権)を持つ国のことです。具体的には領土・国民・国家としての統治権を備えた近代的な国家形態を指しています。ジャンヌ・ダルクの存在は、国家と国民意識を触媒する役目にもなっていたということです。
百年戦争が終結した1453年はオスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落によって、東ヨーロッパの覇者ビザンツ帝国が滅亡した年でもありました。また、同時期にはイタリアでルネサンス運動が展開されていたことも重なって、ギリシア人の学者がイタリアに逃れたことでルネサンスの発展に大きく寄与したのです。こうして、百年戦争をきっかけにして中世の封建社会から近代へと進んでいくのです。
4 ジャンヌ・ダルクと宗教裁判
ジャンヌ・ダルクは1412年にフランス東部のドンレミ村で生まれました。12歳となったある夜ジャンヌは大天使ミカエルたちによる神の啓示を受けました。
「イングランド軍を追い出してシャルル7世を戴冠させなさい」
ジャンヌはこれをお告げと受け止めてシャルル7世に会いに行くことを決心するのです。ジャンヌはオルレアン近郊のニシンの戦いでフランスが大敗することを予言しました。この予言を受けてシャルル7世はシノン城でジャンヌと面会することにしたのです。
このとき、シャルル7世は家臣を玉座に座らせて自らは臣下の列に紛れ込んでいました。ジャンヌが聖人であるならば自分のことを見抜くことができるはずだと思ったのです。ジャンヌが迷わず王太子の元へ向かったのでシャルル7世は本物であると認められました。(ただし、一説には臣下がさりげなく誘導したともいわれていますが…)

こうしてシャルル7世はジャンヌを軍の指揮下に加えることで、オルレアンを解放することに成功するのです。オルレアンを解放したことでジャンヌは「オルレアンの乙女」とよばれるようになりました。
その後イギリス軍がコンピエーヌの街を包囲したことでジャンヌは軍を率いて進軍します。しかし、その途中でイギリス軍につかまって捕虜となってしまうのです。この時シャルル7世は身代金を払わなかったと言われています。名声への嫉妬や勝手に軍を率いたことを危険視したなどいろいろな理由があるようです。
ルーアンで半年にわたって異端審問にかけられたジャンヌは「お前は神の恩寵を受けたのか」というどちらに答えても有罪となる質問をされます。前回の動画で解説したアウグスティヌスによる神の恩寵と教会制度に関わるのですが、カトリック教会では人と神の間には教会が仲介するという考え方が当時の常識でした。そのため、ジャンヌが直接に神とつながることは異端であることになるのです(しかし、神の恩寵を受けていないのであればそれも虚偽の罪を告白したことになります)。
ジャンヌは「恩寵がないなら恩寵を、恩寵があるならそのままに」とこれをかわします。しかし、ジャンヌは読み書きがあまりできなかったといわれています。そのため、ジャンヌは裁判の宣誓書に署名をしたつもりだったのですが、実はそれは「二度と男装をしない」という内容の誓約書になっていたのです。聖書には女は男装をしてはいけないと記されていました。異端の罪で死刑になるのは改悛した後に再犯した時と決まっていたのですが、ジャンヌは監視役が男性でドレスを盗まれていたので仕方なく男装をしてしまったのです。
男装をしないという誓約書に署名させられていたジャンヌは再犯を犯したことにされて、1431年に火刑に処されることになってしまったのです。17歳でオルレアンを解放してから19歳で火刑にされる怒涛の2年間だったといえます。
ジャンヌの復権裁判は百年戦争が終わった1455年に公式に開廷されました。翌年ジャンヌは殉教者であって異端審問の結果を覆して無罪であるとされたのです。20世紀になってようやくローマ教皇から正式に聖人として列聖されることになるのです。
ジャンヌが受けた神のお告げは「フランスを救え」というものでした。もともとは王家と王家の王位継承問題だった百年戦争でしたが、ジャンヌの存在が国民というアイデンティティを生むきっかけになったとされています。ジャンヌ・ダルクはその後フランスの愛国心の象徴とされるようになっていくのです。第二次世界大戦でシャルル・ド・ゴール将軍が用いた自由フランス旗の中央には、ジャンヌを象徴するロレーヌ十字が描かれていたのです。
5 まとめ
今回は「百年戦争」について解説してきました。動画の中では紹介することができなかったこともまだまだたくさんありますので、ぜひ本書を手に取って世界史についてさらに詳しく学んでみてください。
私たちは世界史を学ぶときにイギリスやフランスと何気なくよんでいますが、中世の世界観ではまだ国家としてのイギリスやフランスは存在していなかったのです。封建領主といわれる貴族たちの存在やキリスト教カトリック教会による影響力など、中世ヨーロッパの価値観を理解することが世界を見る時には欠かせない視点となるのです。
百年戦争は中世ヨーロッパの世界観がすべて詰めこまれた最大のできごとでした。せっかくなのでこれを機に中世ヨーロッパについてもっと詳しく学んでみてください。今後は近代への扉を開いたルネサンスや宗教改革についても詳しく解説していく予定です。
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