【空想哲学読本】アニメの解釈も哲学で!

哲学×エンタメ

今回は「アニメの解釈を哲学で!」したいと思います。参考文献は『空想哲学読本』(著者:富増章成)です。

【空想哲学読本】アニメの解釈も哲学で!?

哲学と聞くと「なんだか難しそう」「なんの役に立つのかわからない」と思いますよね?でも『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』の著者である山口周さんはこれまでのような論理だけにもとづいた経営ではVUCAの時代に通用しなくなるので直感的に真・善・美を判断することができる哲学の素養が求められると言っています。VUCAすなわちV=Volatility(不安定)、U=Uncertainty(不確実)、C=Complexity(複雑)、A=Ambiguity(曖昧)という社会を特徴付ける4つの形容詞の頭文字を合わせた言葉で、もともとはアメリカ陸軍が現在の世界情勢を説明するために用いだした用語です。

また私たちは生活の中でさまざまな悩みをかかえていることでしょう。そんな悩みのほとんどはすでに哲学者が答えを出しているのです。ビジネスエリートであってもそうでなくても、VUCAの時代をしなやかにたくましく生きていくための素養となるのが哲学なのです。この記事ではアニメを題材として哲学の面白さを学ぶことができるようになっています。最後までごらん頂ければ「哲学はおもしろい」「哲学は役に立つ」と思えるはずです。また本書はあの『空想科学読本』シリーズと同じ仕様になっているので、哲学だからと身構えることなく気楽に読むことができるはずです。ぜひ哲学を始めたいと思う方は本書を手に取ってみてください。

1 エヴァンゲリオンでデカルトがわかる!?

よもや「新世紀エヴァンゲリオン」を知らないという方はいませんよね?エヴァンゲリオンとは汎用人型決戦兵器とよばれる人造人間のことです。天使の名をもつ「使徒」を迎えうつための国連直属機関がネルフ(NERV)であり、エヴァンゲリオンを運用しています。そしてネルフを操る国際秘密結社ゼーレは「人類補完計画」を推進しています。これは人間の足りない部分を補うことで完全な存在へと進化させる計画のことです。ゼーレは「サード・インパクト」を起こすことによってこれを達成しようとしているのです。これだけでは意味が分からないという人がほとんどだと思いますが、エヴァを完全に理解することは不可能なので今回は以下の点にしぼって考えてみます。

①エヴァンゲリオンと魂…物心二元論

②エヴァとパイロットのシンクロ率…心身問題

③人類補完計画…汎神論

エヴァは巨大なロボットではなく巨大な人造人間です。エヴァを起動させるためにはパイロットが必要なのですが誰でもいいわけではありません。なぜならエヴァにはパイロットの身内の魂が入っているため、親子の心が共鳴しなければエヴァをスムーズに動かすことはできないのです。この点からエヴァの世界では「物心二元論」が採用されていると考えられます。

物心二元論とはデカルトが指摘した体と心が別のものであるという考え方のことです。デカルトと言えば「我思う、ゆえに我あり」という言葉が有名な近代哲学の父です。ある日デカルトは数学的手法を用いて新しく学問体系を構築しなおすことを決心しました。そこで哲学を始めるための出発点となる第一の原理は、誰もが真であると認めることができるものでなければならないとしたのです。そしてデカルトはあらゆるものを疑った(方法的懐疑)うえで、それでも疑えないものがあればそれこそが絶対に確実な原理となりうると考えました。デカルトはあらゆるものを疑ったことでこの世に確実なものは何一つないと確信します。しかしそれでも「その疑っている自分の存在」だけは確実にそこにあることに気づくのです。これこそが「我思う、ゆえに我あり」ということです。デカルトはこれを哲学の第一原理として演繹的に学問体系を構築していくのです。

デカルトの考える「我」とは1つの実体のことであり考えることそのものです。そのためあらゆる物質に依存することなく「我」は完全に独立したものであるのです。シンジも「そうだ!ぼくはぼくでしかない!ぼくはぼくだ!」と言っています。ところで疑われたままの存在となっている物質(現実世界)はどうなるのでしょうか?デカルトは「神の存在証明」を行うことによって物質もまたそこに存在するとしたのです。つまり①あらゆるものを疑うことで「第一原理」が導き出される、②第一原理をもとに「神の存在証明」を行う、③「神の存在証明」によってあらゆる疑いが晴れることで現実世界の存在を肯定するのです。このようにして「物質」と「精神」は互いに独立して存在しているというデカルトの「物心二元論」の世界観が確立するのです。

エヴァではこの「物質」と「精神」を隔てる境界のことをATフィールドと表現します。カヲルは「ATフィールドは心の壁なんだ」と言っており、レイも「わたしがいなくなったらATフィールドが消えてしまう」と言っています。では互いに独立した存在なのにどうして「動こう」と「動く」は互換されるのでしょうか?「動こう」というのは精神のはたらきであるのですが互いに独立しているのであれば、どうしてそこから「動く」という物質のはたらきがおこるのか説明がつきません。

そこで「人類補完計画」というスピノザの哲学が登場するのです。スピノザはデカルトの後に登場して「汎神論」を唱えた哲学者です。「汎神論」はあらゆるものは神そのものであるという考え方のことです。つまり「物質」も「精神」も神の属性でありそれぞれちがった側面をもつだけなのです。「物質」も「精神」も互いに平行しているのでありこれを「心身平行論」といいます。エヴァの世界ではサード・インパクトを起こすことで「人類補完計画」を目指します。ミサトも「出来損ないの群体としてすでに行き詰った人類を完全な単体としての生物へと人工進化させる(ための人類)補完計画」と言っています。そのためにはATフィールド(心の壁)を破壊(我の喪失)することが必要です。劇場版「まごころを君に」ではゼーレのメンバーが「エヴァンゲリオン初号機パイロットの荒れた自我をもって人々の補完を…」と言います。つまり初号機パイロットであるシンジの自我を崩壊させることで人類を補完するのです。これによってすべてが1つになることで対立や苦しみから私たちは解放されるのです。

ただし自分と他人が融合した静かな世界では変化も発展もなくなります。もし自我を取り戻すことを望むのであれば対立や苦しみと向き合わなければいけません。「父さんはぼくの気持ちなんか分かってくれないんだ」という世界のことです。それでもシンジは決断するのです。レイ「他人の存在をいま一度望めば再び心の壁がすべての人々を引き離すわ」シンジ「いいんだ…ありがとう」こうして秘密結社ゼーレの人類補完計画は失敗に終わるのです。公開当初さまざまな物議を醸したエヴァンゲリオンもこのように解釈してみると少しスッキリと理解することができたのではないでしょうか?え、頭の中でサード・インパクトが起こってもう考えることをやめたい…?そんなあなたに贈る言葉はこれしかありません。「逃げちゃダメだ…逃げちゃダメだ…逃げちゃダメだ…逃げちゃダメだ…」

デカルトやスピノザの哲学は「大陸合理論」とよばれる1つの潮流となりました。詳しくはぜひこちらの記事をご覧ください。

2 ときめきメモリアルでカントがわかる!?

「全てのギャルゲーはときメモに流れこみ、全てのギャルゲーはときメモから流れ出る」そう表現される(かどうかはわかりませんが)かつて世の中を席巻した伝説のゲーム、それが「ときめきメモリアル」です。「私立ときめき高校」には卒業式の日に校庭の大きな樹「伝説の樹」のもとで女の子から告白して生まれたカップルが永遠に幸せになれるという言い伝えがあります。ときメモの最終目標はあわい恋心を抱いていた幼なじみの藤崎詩織に告白されることです。もちろん藤崎以外にも13人の女の子が存在しておりそれぞれにイベントがあります。偏見交じりの眼差しを感じなくもありませんが「ときメモ」こそが哲学なのです。なぜなら「ときメモ」をプレイすることで、

①ゲームと現実はどこかちがうのか?②相手の気持ちをどこまで知ることができるのか?③そもそもときメモをプレイするということは道徳的に問題がないのか?

のような人生における重要な問いを哲学的に解釈することができるからです。

さてみなさんはこの世界が現実であるとなぜ思っているのでしょうか?もしかしたら目の前のものはすべて自分の幻覚がそう見せているだけなのではないか?東洋の哲学者「荘子」は『胡蝶の夢』において自分が蝶になった夢を見て目覚めたときに「わたしが蝶になったのか?それとも蝶がわたしになっているのか?」と言ったそうです。ゲームの中では遊園地の「バーチャルシップ」を選択すると詩織ちゃんが「本当に宇宙旅行をしている気分だったね」「人間の感覚っていい加減なのね」と言います。このゲームの発売からすでに何十年とたった現代ではまさにメタバースという仮想現実の中で実際に生活をしている人がいることを考えればもしかしたら…と思います。このように現実に「存在する」ことと「存在を感じる」ことを区別するのは難しいのです。

前章の「大陸合理論」と同じ時期にイギリスで生まれた哲学の潮流である「イギリス経験論」の哲学者バークリーは「存在するとは知覚されること」と言いました。だるまさんがころんだを例に考えてみると後ろを見ている時はそこに人は存在しています。しかし「だるまさんが~」と言って目をふせている間はその人たちを知覚できません。この時こちらに向かってくる人たちは知覚できないので存在しないと言っているのです。つまり現実の彼女もゲームの彼女も知覚されるならば存在していると言えるのです。次にこの世にはA(原因)ならばB(結果)になるという因果法則があるとされています。因果法則があるならばわたしの人生は運命が決まっていると考えることもできます。前章で紹介したスピノザも自由意志はなく全ては神によってきめられていると言いました。

ところがイギリス経験論の哲学者ヒュームはその因果法則を否定したのです。ヒュームは因果法則などなくそれは心が勝手に決めたことなのだと考えました。ゲームの中にも世界征服を夢見る女の子といつもおどおどしている女の子がいますが前者がスピノザ(大陸合理論)的な世界観をもっているのに対して後者はヒューム(イギリス経験論)のような懐疑論をもっていると考えることができます。「ときメモ」ではこの正反対ともいえる2人を同時に攻略することは不可能らしいですが、哲学の世界においてこの二大潮流を統合しようと試みたのが「カント以前の哲学はカントに流れこみ、カント以後の哲学はカントから流れ出る」と表現されるドイツ観念論の哲学者イマヌエル・カントです。

ゲームの中には女の子の感情変化が7段階であらわされて確認することができますが、実は「隠しパラメータ」が存在しておりプレイヤーはそれを知ることはできません。ある女の子はふだん「変な動物がいるぜ」のような口調で話すのですがこの隠しパラメータがあがるとかわいい口調で話すようになるのです。つまり私たちには「わかることとわからないことがある」ということなのです。大陸合理論の問題点は理性によってすべてを知ることができると考えたところです。だからこそカントは著書『純粋理性批判』の中で理性の限界を示したのです。そしてカントは理性では答えられないもの(二律背反)があると指摘したのです。ゲームをしていてわかることはゲームの中で経験できることに限定されているのです。このようにしてカントは世界を認識するためには合理論と経験論のどちらも不可欠であると考えて「コペルニクス的転回」を起こすのです。これまでは対象を認識する時には対象が先に存在していて、それを見ることによって認識している(認識は対象に従う)と考えられてきました。しかしカントは見る(感性)ことによって理性(悟性)が受け取った結果として対象が認識される(対象は認識に従う)と考えたのです。つまりあらかじめそこに存在している「もの自体」を認識することはできないのです。ややこしいのですが「ときメモ」というもともとのディスクを「もの自体」、それを再生していろいろな女の子とのデートを体験させてくれるゲーム機が「理性」、そして実際に目の前にあらわれた映像が「現象」だと考えてみてください。私たちはもの自体(ときメモのプログラム)をプレイ中に見ることはできませんが、誰もが共通の悟性(ゲーム機)を有してプレイしているので同じプログラムを同じゲーム機で再生していると考えればそれは夢ではない現実なのです。

またカントは著書『実践理性批判』において道徳の問題にも言及しています。「2人の女の子とデートしてもいいのか?」「ときメモに熱中することは問題なのか?」このような人生の根幹に関わる問いについても考えていきましょう。たとえば「出世できるならば、社長令嬢の女の子と付き合う」ことを選択したとします。このような「~ならば~する」という行動を「仮言命法」といいますが、カントはこのように欲望に任せて好き勝手に行動するのではなく理性のはたらきによって道徳法則に従って生きることこそが自由であると考えたのです。つまり「~すべきである」という無条件の行動こそが大切であり、このような意志決定のことを「定言命法」とカントはいいます。そして「~ならば~である」という因果法則にしばられない生き方こそが自由であり、定言命法に従うことこそが人間の尊厳であると考えたのです。ゲームの中には入学式の日に主人公に一目ぼれをする純愛キャラの女の子がいます。卒業式の日に誰からも告白されなかった主人公のもとに「因果法則」をこえた確率で出現するというカントの自由を体現したようなキャラです。「ときメモ」をプレイするということはまさにこの定言命法に従う行動といえるでしょう。何回プレイしようが現実には何の見返りもないにも関わらず、来る日も来る日もデートに誘いプレゼントを渡すメモラーこそが道徳的主体なのです。

カントはこの尊さについて『実践理性批判』において次のように述べています。「繰り返し反省すればするほど常に新たにそして高まりくる感動と尊敬の念をもって心を満たすものが2つある我が上なる星の輝く空よ我が内なる道徳律とや」ちなみに今さらですがカントは生涯独身をつらぬいた超がつくほどの真面目な人です。もしあの時代にときメモがあったとしてもカントは絶対に手を出さなかったはずです…。現実の恋愛の悩みにも答えてくれるカントについて詳しく知りたい方はぜひこちらの記事をご覧ください。

3 ポケモンでヘーゲルがわかる!?

「エヴァ」も「ときメモ」もちょっとオタクのにおいが感じられる部分がありましたが国民的人気ゲームである「ポケモン」は誰もが知っていることでしょう。主人公のサトシは相棒のピカチュウを連れて旅をする中で多くのポケモンをゲットして、ポケモン同士を戦わせながら最終的にポケモンマスターになることを目指すお話です。実はここにドイツ観念論を完成させたヘーゲルの哲学を見出すことができるのです!?

これまで「エヴァ」で「大陸合理論」の哲学を、「ときメモ」で「イギリス経験論」と「カント」の哲学を学んできました。しかし「カント」の哲学では認識することのできない「もの自体」がよくわかりません。そこで登場したのがドイツの哲学者ゲオルグ・ヘーゲルなのです。カントが理性には限界があってすべてを知ることはできないと言ったのに対して、ヘーゲルは世界のすべてをいつかは知ることができるようになると言いました。これはカントが「モンスターボールを持てるのは6個まで」と制限したのに対して「新しいポケモンに取り替えていけばポケモンマスターになれる」と言っているのです。

そもそもカントは主観(自分)が客観(相手)を正しく捉えることはできないと言いました。なぜなら客観(相手)に意味をあたえているものは主観(自分)だからです。サトシが「キャタピー」だと思っていても実は「トランセル」になっているかもしれません。世界にはいくつもの主観が存在していてそれぞれが客観に意味をあたえているので当然のようにそこには誤解や対立が生じることになるのです。しかしポケモンマスター…じゃなくて哲学マスターであるヘーゲルは両者の対立・分裂を前提としてそれを克服する過程で統一されていくと考えたのです。これはすなわち「キャタピー」という状態(正)から対立が生じた(反)ことによって、進化してトランセルになる(合)という「弁証法」のプロセスを意味しているのです。「トランセル」は同じようにしてさらに進化すると「バタフリー」になります。つまり対立や矛盾があるからわからないのではなく、対立や矛盾があるからこそさらにわかるようになっていくことができるということです。

さらにポケモンをゲットしてモンスターボールに収納するという行為についてはヘーゲル哲学の「承認をめぐる闘争」を見出すこともできます。ヘーゲルの考える「承認」は自分だけなく相手もまた同じ主観をもった存在であるので、それぞれが相手を自由で独立した存在であることを尊重するべきであるということです。サトシとピカチュウも最初の出会いは最悪でとても仲が悪いところから旅が始まります。しかし対立や矛盾を乗り越えることで今では誰もが認める最高のパートナーとなりました。このように考えればヒトカゲが尻尾の消えると死んでしまうように、わたしたちにとっても対立や矛盾がなければ死んでしまうということなのです。近代の哲学者エマニュエル・レヴィナスも「他者こそがイリヤの絶望から救ってくれる」と言っています。こうしてヘーゲルは弁証法のプロセスをたどればいつかは絶対精神(カントの言うもの自体)にたどりつけると考えたのです。

そしてサトシがポケットモンスターを目指す生き方こそが「歴史」であるといえます。歴史もまた弁証法のプロセスによって進化(絶対王政から民主制)してきました。私たちの歴史は自由を実現するために展開されてきたと考えることができます。サトシも同じようにポケモンマスター(=自由)を実現するために旅をしているのです。主題歌の中にある「あ~あこがれの~ポケモンマスターに」の後に注目してみてください。「なりたいな~」「ならなくちゃ~」「ぜったいなってやる~」の部分です。「なりたいな」は自己の内部に目的を見出している段階といえます。「ならなくちゃ」は自己の内部に矛盾を感じて目的へと進む義務が生じた段階といえます。そして「なってやる」は「なりたいな」と「ならなくちゃ」という対立をこえて止揚(アウフヘーベン)して自由を実現した段階を表現していたといえるのです!もちろん「いつもいつでもうまくいくなんて保証はどこにもないけど」ということです。弁証法のプロセスは限りなく永遠に続きます。みなさんもぜひこのチャンネルの動画を何度も何度も視聴してみてください。これまで理解できなかった賢者の知恵(とチャンネルの再生回数)が進化していきますよ。カントやヘーゲルの哲学「ドイツ観念論」についてはぜひこちらの記事をご覧ください。

4 ガンダムでニーチェがわかる!?

劇場版の最新作「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」を見ましたか?約20年の時をへて公開された物語はそれだけでいろいろな哲学的な解釈ができそうです。日本のアニメの中でガンダムほど哲学の示唆に富んだ作品はほかにないと思います。今回は「機動戦士ガンダム」「機動戦士ガンダム-逆襲のシャア-」を中心に解お話をします。最後はミノフスキー粒子がかなり濃い内容となっていますので接近戦を覚悟してください。

ガンダムほど「善と悪」について考えさせられる作品はありません。みなさんは「地球連邦」と「ジオン公国」のどちらが正義か判断することができますか?たしかに物語の主人公アムロは地球連邦のパイロットなのですが、そもそもジオン公国を誕生させるきっかけをつくったのは地球連邦とも考えられます。さらにジオン公国のザビ家に復讐しようとしていたはずのシャアもなぜか戦っていたのは地球連邦のアムロなのです。アムロとシャアのどちらに正義があるのか?そもそも何が善で何が悪であるのか?「正義」についてはぜひこちらの記事をご覧になってみてください。

ここではヘーゲルの後に登場した実存主義の中心的な哲学者ニーチェを紹介します。ニーチェは著書『善悪の彼岸』において「道徳的現象などはまったく存在しない」「あるのは諸現象の道徳的な解釈だけにすぎない」と言っています。つまり「しなければならない」という絶対的に正しい道徳的な基準は存在しない、そうではなくなぜ我々は「道徳的な正しさ」を求めてしまうのかこそが重要であるのです。誰もが「正しい」と信じたい気持ちをもっていることに気づかなければいけないのです。ニーチェは著書『力への意志』の中で次のように述べています。「私たちの知性に権力と安全をもっとも多く与える仮説がその知性によってもっとも優遇され、尊重され、したがって真と表示されるのではないか?」つまり私たちは論理的に考えて「正しい」を決めているのではなく、自分にとって都合のいい「正しさ」を選んでいるだけだというのです。映画『逆襲のシャア』の中でシャアはさけびます。「人類は自分の手で自分をさばいて、自然に対して地球に対して贖罪しなければならん」「アムロ、なんでこれがわからん!」シャアにとっては隕石を地球に落とすことこそが「正しい」のです。「わかってないのはシャアの方だろ!」と思った方もいるかもしれませんが。それも「あなたが正しくてシャアが正しくない」と思っている時点でおあいこです。

ニーチェは道徳の起源について「弱者が強者に対して抱くルサンチマン」だと指摘しました。ルサンチマンとは怨みのことであり弱者が価値を逆転させることで満足する心のことです。道徳的には「人間の価値は外見で決まるわけではなく内面こそが大切だよね?」でも「おれもイケメンになって女の子にモテたい」と思うことがルサンチマンなのです。ニーチェはキリスト教こそがこの構造のもっているとして「奴隷道徳」と批判しました。さらにカントの「もの自体」やヘーゲルの「絶対精神」など超越的な何かのすべてを否定して「神は死んだ」と言ったのです。では「神は死んだ」のであれば私たちは何を目指して生きていけばよいのでしょうか?そこでニーチェはニュータイプになるべきであると言ったのです…。まちがえました「超人」になるべきであると言ったのです。オールドタイプの人たちは地球の重力に心を引かれているのかルサンチマンを抱きます。そしてニュータイプをひきずりおろすことで平均化しようとしてしまうのです。ニーチェにとっては歴史の進展よりも超人の誕生こそが何よりも重要であったのです。これを誤って解釈したのがナチスのヒトラーであり、ガンダムの中では「ヒトラーの尻尾」と呼ばれたギレン・ザビなのです。思い返してみればジオン公国の軍服やヘルメットがそもそもナチスっぽくもあり「ジーク・ジオン」と連呼する様はまさに「ハイール・ヒトラー」と同じです。ニーチェはギレン・ザビのような「優勢人類生存説」を唱えたわけではありません。ニーチェの言う「超人」とはお互いの力への意志を理解しあうことができるので、他人を尊重しながら運命を愛して生きていくことができる存在なのです。

ニーチェはこの世界に意味や目的などなく虚無なる生が永遠に繰り返されると考えました。これを「永劫回帰」といいます。意味も目的もない時間が永遠に繰り返されることの苦しみを想像したことがありますか?ララァも「意識が永遠に生き続けたら拷問よ」と言っています。しかし永遠に繰り返されるならもう一度歩みたいと思えるような人生を送ること、意味や目的がなくてもそれを受け入れ力強く生きることこそが大切であると言ったのです。否定的な現実をありのままに引き受けて(これを運命愛と言います)「これでよい!」と自己肯定することで主体的になることができるのです。そして「力への意志」でニヒリズムを克服するべきであると考えました。人生の意味というものは生き続けた先にしか見出せないのです。もしかしたらニーチェの言うように永劫回帰される人生に意味などないのかもしれません。だからこそ「これでよし」「それでいい」と受け止めて生き続けることが大切なのです。「世界にはきみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある、その道はどこに行き着くのかと問うてはならない、ひたすら進め」というニーチェの言葉を覚えておいてほしいのですがむずかしいようであれば

さいごにアムロがブライトに「なんで戦っているんですか?」と聞いた時の返答を贈ります。「今はそんな哲学など語っている暇はない、立てよおい!」みなさんがニュータイプとしての一歩を踏み出せたことを願っています。ニーチェをはじめとする「実存主義」の哲学についてはぜひこちらの記事をご覧ください。

5 まとめ

今回は「アニメの解釈を哲学で!」について考えてきました。むずかしいと思われがちな哲学もアニメを通して考えることで身近に思えましたよね?「エヴァンゲリオン」でデカルトが、「ときめきメモリアル」でカントが、「ポケモン」でヘーゲルが、「ガンダム」でニーチェのことがこれまでよりもうんと理解できたはずです。「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。

「人間は思考することをやめてしまえば誰もがナチスのような巨悪になりうる」ハンナ・アーレントはこのように言いました。ぜひあなたの好きなアニメにも「哲学」を当てはめて考えてみてください。これからも哲学の実践的な活用方法について紹介していく予定ですのでぜひご期待ください。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。

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