今回は「ビジネスで結果をだすための哲学」について考えていきましょう。参考文献は『結果を出したい人は哲学を学びなさい』(編者:小川仁志さん)です。
近年のビジネス界では「哲学」を重視するムーブメントが起こっています。欧米では哲学者が大手企業のコンサルをすることもあり、Googleやアップルでは専属の哲学者をフルタイムで雇用しているそうです。
なぜ哲学や思想を学ぶ必要があるのでしょうか?それは固定観念を破るための方法を知ることができるからです。固定観念とはその時代の人にとってあまりに常識的なものとなっているので、それを信じている人には何が固定観念なのかも自覚できません。だからこそ哲学や思想を学ぶことで何が固定観念なのか?を見つけることができます。
そして固定観念を見破る方法とそれを解決するための新しい方法を提示できるのです。古代ギリシアのソクラテスは「哲学の目的はよりよく生きることである」と言いました。ものごとの本質がわかるようになればきっと正しい判断ができるようになります。本書の目的はそのような哲学的思考を身につけてもらうところにあります。ぜひ哲学的思考を活用して新しい価値を生み出すヒントを見つけてください。今回の動画では哲学思考を使って人生のさまざまな悩みを解決するヒントを紹介します。著者が実践されている哲学研修の方法については前回の動画を参考にしてください。
1 権利はどこまで主張できるか?
たとえば煙草について考えてみましょう。煙草のにおいが嫌いな人がいる場合に目の前で吸わないのは当たり前としても、ほかの場所で喫煙してついたにおいにまで拒否をする権利はあるのでしょうか?多くの人が認めるかどうかのように多数決で解決するべきという考え方もありますが、ルールを守っている以上は個人の自由であるとも考えられます。
まずは煙草に関する規制はもともと副流煙の害のような「他者危害」の原則が出発点です。他者危害の原則とはイギリスの哲学者J・S・ミルが提唱した考え方で、他者に危害を及ぼさない限りにおいて個人の自由は認められるという考え方です。他者危害の原則をもとに煙草の規制を考えた場合、公的空間では副流煙の害を及ぼしてしまうので喫煙を規制することは可能でしょう。しかし自宅での喫煙はその人の自由なのでそれを規制することはできないと考えられます。
いっぽう、オーストラリアの哲学者ロバート・グッディンは公的空間のみならず、詩的空間における喫煙も規制できると主張しています。喫煙者にインフォームドコンセントが成立してなければ不十分な情報だけで判断しており、喫煙によって生じる健康被害の責任は負えないと考えるのです。そのため喫煙者の権利制限になるとしても煙草を禁止する介入が認められうるといえます。
『正義の教室』という著書の中では他者に危害を加えなければ、麻薬を使用することも個人の自由と言えるかという議論が出てきます。たしかに自由を原則とするのであれば認めるべきだといえるでしょう。しかし他者の中に「未来の自分」を想定した場合はどうなるでしょうか?今の自分と未来の自分は別人であるという前提で考えた場合、未来の自分は今の自分が麻薬を使用して薬物中毒になることを拒むかもしれません。
このように考えてみると、他者に危害を加えなければ何をしてもよいことにはなりません。哲学者たちはまず議論の前提となる概念を創り出してきました。哲学思考を身につけることでものごとの本質を明らかにすることができるのです。
2 全体の利益と個人の利益はどちらが優先?
高齢ドライバーによる交通事故が社会問題となっています。そのため高齢者は自主的に免許を返納するべきであるという主張をよく見かけます。しかし運転をやめて移動手段がなくなった高齢者は運転をする高齢者と比べて、要介護状態になるリスクが約2倍になるという研究もあるそうです。社会の安全のためにも高齢者は自主的に免許を返納するべきなのでしょうか?それとも個人の健康を優先するべきであるといえるのでしょうか?このような場合は社会全体の幸福という視点でものごとを考えてみることが大切です。
イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムは最大多数の最大幸福という考え方を唱えました。ベンサムは幸福な世の中をつくるためには効用―すなわち制度の結果として生じる快楽が最大になるべきであると考えたのです。快楽と苦痛をもとに考えるベンサムの哲学は「功利主義」とよばれています。
この原則を採用すれば快楽が苦痛を上回るようにすればよいといえるのです。だからできる限り多くの人ができる限り多くの幸福をえられる状態が正しいとしたのです。現代社会はこの功利主義をもとにいろいろな制度が設計されているのです(たとえば医療現場におけるトリアージの原則がそれにあたります)。
今回の問題で考えるべきことは免許を返納した高齢者の不便さや健康悪化のリスク、事故を起こす可能性と事故によって受ける被害などを量的に計算してみればよいのです。(正確な数字は算出できないとしても判断の材料としてあげることは可能でしょう)
高齢者がまだ健康であり安全運転が可能であるならばそのままの方が幸福と考えられます。しかし運転技術や健康に不安が出てきた場合は自主的に返納することが望ましいでしょう。大切なことは「高齢者は免許を返納するべき」のように、全てを一括りにして一律にものごとを判断するべきではないということです。哲学思考をもとにどのような判断材料があるのかを考えられるようになってください
3 郷に入っては郷に従えは正しいのか?
外国人労働者などの移民問題を多く目にするようになりました。宗教や文化のちがいを考えて外国人の価値観にあった制度を考えるべきなのでしょうか。それとも日本で生活をする以上は日本のルールを守るべきであるといえるのでしょうか。
現在ヨーロッパではイスラム教の信者が増えているそうです。またアフリカではキリスト教の信者が増えているようです。このような変化は決していいことばかりとはいえず必ず大きな対立を生むことになります。スカーフをまとうことが教義とされる宗教の信者が、公的な場ではスカーフをとる文化のある国で生活する場合はどうするべきなのでしょうか。
ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは公共圏に関する議論を展開しました。ハーバーマスは宗教的市民と現地で生活する世俗的市民は、お互いに少しずつ妥協するべきであるという主張をしています。ハーバーマスの考え方を採用すれば日本の「郷に入っては郷に従え」のような考え―つまりここは日本なのだから全て日本式にするべきであるという考え方はできません。なぜなら、移民であろうと現地の人であろうと、そこが共に生活をする公共圏を形成する市民であると考える必要があるからです。
公共圏とは「各個人が他者とかかわりあい社会を形成する制度的な場」のことです。(私的でプライベートな領域である「親密圏」の対義語です)。ハーバーマスは公共圏における3つの原則を提示しています。
・競合する宗教と道理にかなったかたちでかかわること
・日常的知識に関する決定を制度としての科学にゆだねること
・人権という道徳律が定める平等主義の前提を宗教的信条と両立させること
簡単にいうと、他の宗教を合理的かつ科学的モノサシで理解して人権にも配慮せよです。科学的に考えてスカーフをとらなければ双方が危険であるという状況は考えられません。そのため公的空間においてもスカーフの着用は認められるべきだと考えることができます。しかし世俗的市民と宗教的市民の間にテロや暴力などの危険な対立が生じうる場合は、ルールを厳正にしてそもそもの衝突をさけるようにするべきだともいえます。スカーフのように危険でないことにはある程度の妥協と寛容が必要になるでしょう。
4 スマホを規制するべきなのか?
子どもにスマホをもたせるか迷っている親は多いと思います。現代社会ではスマホはもはや必需品なので積極的に活用するべきとも考えられます。しかし子どもがスマホをもとにしたトラブルにまきこまれるニュースもよく目にします。いつかはスマホをもつことになるとしても、最適な時期などあるのでしょうか?
テクノロジーの進歩は生活を大きく向上させるいっぽうさまざまな問題を引き起こします。テクノロジーの本質に警鐘を鳴らしたのがドイツの哲学者ハンス・ヨナスです。ハンス・ヨナスはテクノロジーの本質が近代以降に大きく変化したと指摘しています。近代以前はテクノロジーとは目的を実現するための道具のことを示していました。しかし近代以降はテクノロジーの目的がなくなってしまったというのです。近代以前にはくぎを打つという目的のためにハンマーが開発されていました。近代以降では本来の目的以外にも多彩な機能が搭載されていったのです。
スマホがもともと携帯電話であったことを考えたらその多機能性は明らかだと思います。たしかにスマホは便利なものであり多くの不便さを解決してくれるテクノロジーです。しかしその機能はどんどん進化していきそこには最終的な目的はもはや見つかりません。このようにテクノロジーはゴールのないままに永遠に発展し続けていることになるのです。
何が問題なのかといえばその過程において人々を不幸にすることがあるということです。(SNSは正しく使用されれば便利ですが最悪の場合は人の命を奪うことにもつながります)。ヨナスはこのような事態を回避するためには「未来への責任」が必要だと指摘しています。将来がどのようなものになるのかを見据えてテクノロジーを開発することで、テクノロジーによる無秩序な発展が悲劇をもたらすことを防げるようになるのです。
スマホの進化をとめることはもはやできないことかもしれません。しかしテクノロジーが悲劇を生むということをきちんと理解しておくことは大切です。それをふまえた上でいくつかの規制をすることは認められると考えられるでしょう。ヨナスが指摘したテクノロジーの本質を考えてその功罪両面を正しく理解することで、「便利だからよい、危険だからダメ」のような単純な判断に一石を投じることができます。
5 緊急時に正確に対処するには?
新型コロナウイルスによるパンデミックは私たちの生活にも大きな影響を及ぼしました。未知にして未曾有の状況では前例踏襲による解決策など通用するはずもありません。このような状況ではどんな対処をすることが正解なのかは誰にもわかりません。しかし私たちが生きていくこれからの社会はこのような側面をもったものになるでしょう。正確な対処法が分からない時にどのように行動すればよいのでしょうか?
フランスの作家であり哲学者でもあるアルベール・カミュの『ペスト』を見てみましょう。カミュと言えば「不条理」をテーマにした作品が有名です。しかし「世界は不条理だから受け入れるしかない」という単純なものではありません。むしろ『ペスト』のテーマはパンデミックという不条理をどう乗り越えるかだといえます。
『ペスト』の舞台となった町はペストによってロックダウンされるところから始まります。主人公の医師リウーは仲間たちと力を合わせてペストと闘うことになるのですが、そのための唯一の方法としてあげたことが「誠実さ」という言葉です。
パンデミックという異常事態において人々は異常な状態に陥ることもしばしばあります。新型コロナウイルスの流行時にはDVが増加していたという報告もありました。私たちがこのような心理状態になってしまうことは避けられないかもしれません。しかし、だからこそカミュは「誠実さ」が大切であると考えたのです。そんな時だからこそ正気を取り戻して誠実に自分の役割をこなさなければいけないのです。1人1人が誠実さをもって努力を続けていくからこそ、お互いに共感することができるようになって大きな連帯が生まれていくのです。
カミュの『ペスト』ではそのようなさまが見事に描かれています。世の中の不条理を感じた時にはぜひアルベール・カミュの作品と向き合ってみてください。おすすめは『ペスト』『異邦人』『シーシュポスの神話』などです。ちなみに『ペスト』はフィクションであるので実際のできごとではありません。しかしナチスをはじめとするファシズムの諷喩であるとする解釈もあるようです。
6 他者を尊重するより自分を尊重するべき?
アメリカ大統領選挙ではトランプ大統領が再選をはたしていよいよ就任式が行われました。世界各国ではアメリカのように自国優先主義を打ち出す風潮が大きくなっているようです。たしかに自国の利益を逸してまで相手国の利益になることをするのはおかしいことです。しかし自分のことさえよければ相手のことはどうなってもよいとまでいえるのでしょうか。
フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの倫理の考え方を参考にしてみましょう。レヴィナスは誰しもが他者に対する無限の責任をおっていると指摘しています。私が何1つ悪いことをしていなかったとしても他者への責任に報いる必要があるのです。
レヴィナスは自分と他者は対等な関係ではないと考えました。他者は常に自分に優越するため人間関係は必ず非対称的な関係になるのです。なぜなら他者とは無限の存在である―つまりある真理を考えた時に、それがどんなに正しいと思ったとしてもそれを否定する他者は必ず存在するからです。私たちは誰1人として自分の力だけでこの世に存在できているわけではありません。だからこそ今ここに生きているということにも他者に負うものがあるということです。
そのためにもレヴィナスは他者の「顔」を見なければいけないと言いました。顔は1人1人の個性を表すものであり喜びや悲しみ等の感情を訴えるものでもあります。顔を見ることができれば倫理的な抵抗によって無限の責任をもつことになるのです。他者の顔が見えていない時に相手を否定する手段として殺人が起きてしまいます。私たちにはもっと他者の顔と対話することが求められています。なぜなら他者の顔はいつでも「汝殺すなかれ」と訴えているからです。
7 まとめ
今回は「ビジネスで結果をだすための哲学」について紹介しました。動画の中では紹介することができなかったこともまだまだありますので、ぜひ本書を手に取ってあなただけの名言を見つけてみてください。「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。硬貨を捧げればパンを得られる、税を捧げれば権利を得られる、労働を捧げれば報酬を得られる、なら一体何を捧げればこの世の全てを知れる?『チ。-地球の運動について-』はこの言葉で始まりこの言葉で終わりを迎えます。ぜひその答えをこれからも一緒に探していきましょう。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。
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