ヴァチカン宮殿内の部屋「ラファエロの間」と呼ばれる4つの部屋のうち、「署名の間」に描かれている『アテナイの学堂』は、1508年から1509年にかけて、教皇ユリウス2世から依頼を受けたラファエロが制作した一連の壁画作品の1つです。
ラファエロ(1483-1520)はルネサンスを代表する画家でレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロと並ぶルネサンス時代の巨匠です。2人と同じ時代を生きましたが、彼らと違うのは37歳という若さで亡くなってしまったことです。しかし、その短い生涯の中で圧倒的な傑作をいくつも残しました。「ベルヴェデーレの聖母」や「システィーナの聖母」など「聖母の画家」と称されるラファエロならではの慈愛に満ちた聖母子像は多くの人々を魅了します。また、肖像画では時の権力者を描いた「ユリウス二世の肖像」や「レオ十世の肖像」など、その内面をも写し出す描写力が特徴的です。
ここには、古代ギリシャの哲学者プラトンやアリストテレス、ペルシアの宗教家ゾロアスター、古代マケドニアのアレクサンドロス大王まで、時代も場所も全く異なる様々な偉人が描かれています。
では、なぜ異なる時代、異なる場所の人が同じ絵の中に描かれているのでしょうか?あれ、よく見ると少し見覚えのある登場人物がいないでしょうか?むむむ、画面中央の2人は何を話しているのでしょうか?
なぜ、異なる時代の偉人が描かれているのか?それは。ラファエロがユリウス2世の「人類の智と徳の一切を描いた壁画を描いてほしい」という希望を請け、それぞれの時代を代表する賢人たちを一同に会する絵を描いたと言われています。
なぜ、見覚えのある登場人物がいるのか?絵の中央にいる赤いローブを纏っているのは…よく見たら有名な芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチではありませんか!?そうなのです。ラファエロは、ギリシアの賢者たちのことを同時代を生きたルネサンス芸術家の姿を借りて表現したのです。絵の右端にいる人物はラファエロ本人であり、階段の下でひじをついているのがミケランジェロなのです。
そして、絵の真ん中でひときわ目立つ2人は何を話しているのか?この2人は「プラトン」と「アリストテレス」を描いたと言われています。プラトンは指を天に向け、アリストテレスは手のひらを地面に向けていますよね?もしかしたらこれは、アリストテレスが「地面に足がついていないとダメなのです」と言ったのに対してプラトンが「いや、天を見よ。天上界にイデアがあるのだ。この世はその模像である」というような会話をしていたのかもしれませんね。
それでは、以下に主な登場人物について簡単に紹介していきます。登場人物には諸説あることもありますので、ここで紹介するのはそのうちの1つだとご理解ください。
1.プラトン
ソクラテスの弟子でもあった古代ギリシアの哲学者プラトンは師を刑死させるに至った民主政治や三十人政権への失望から、アカデメイアという学園を創設して弟子たちと哲学の探求を進めました。プラトン思想の中心的な概念「イデア論」とは理想の世界において不変で永遠のイデアが存在しており具体的な事物や現象はイデアの模倣にすぎないという考え方です。「洞窟の比喩」というたとえ話の中で洞窟の壁にうつる影しか見ることのできない囚人は影を世界の真実だと思いこんでしまうのです。しかし囚人の1人が洞窟を出るとそこには洞窟の人は比べられないほどまぶしい太陽が世界を照らしていたのです。プラトンはこの比喩において自分の世界が限定的であると知ることや太陽を善のイデアとしてそこに近づくことを重視したのです。プラトンの提唱した「魂の三分説」では人間の魂を「理想」「気概」「欲望」の三つの部分に分けこれらを磨くことでそれぞれに対応する「徳」(知恵・勇気・節制・正義)を持つことができるようになるとされています。理想国家の君主は善のイデアに到達した哲学者こそが最も物事を知り知恵ある善き統治者たりうるとして哲学者を王とする哲人王の思想を展開しました
しかし、理想の国家は、名誉支配制、寡頭制、民主制、僭主制(独裁制)の順に堕落していくとも述べました。
2.アリストテレス
プラトンの弟子でもあったアリストテレスはアレクサンダー大王の家庭教師を務めるなどあらゆる学問に精通したことから「万学の祖」と呼ばれています。アリストテレスはリュケイオンという学園を創設して庭園(ペリパトス)を散策しながら講義をしていたことから彼の学派はペリパトス派(逍遥学派)と呼ばれています。アリストテレスは、師であるプラトンのイデア論を否定してものの本質はそのものの中にこそあると考えました。そして個別のものに内在する「形相(エイドス)」と「質量(ヒュレー)」の概念を提唱しました。形相にはさらに運動と目的がふくまれておりこれらを合わせて「四原因説」といいます。アリストテレスが創始した倫理学では人々が仲良く暮らすために道徳規範が必要とされています。そして人間の行為にはすべて目的がありそれらの目的の最上位にある「幸福」こそ最高善であるとしたのです。幸福は美徳に基づいていると考えられ美徳は「中庸」の徳であり極端な行動や感情を避けることの大切さを強調しているのです。
3.ソクラテス
古代ギリシアの哲学者ソクラテスは「ソクラテスより賢い者はいない」という信託を受けソフィストたちと対話を重ねます。問答法によって相手の無知をあばき「知っていると思い込んでいる人々より、知らないことを自覚している私の方が少しだけ賢い」という無知の知の真理に到達しました。しかし「アテナイが信じる神々とは異なる神々を信じ若者を堕落させた」罪によって死刑を言い渡されて毒人参の盃を飲むことになるのです。ソクラテスの「知徳合一」とは、「知」=善悪の判断ができること、「徳」=人間の魂の良さのことです。そして、人間の徳は「魂の配慮」であるとしました。つまり、善悪の「知」を実現すれば魂は優れたものになり徳は実現されると考えたのです。死刑判決が言い渡された時に「ただ生きるのではなく、善く生きよ」という自分自身の主張を曲げることなく判決を受け入れたと言われています。キリスト、釈迦、孔子と並ぶ四聖人の1人とされますが、ソクラテスにはクサンティッペという世界三大悪妻に数えられる妻がいました。まわりの人に「あなたの奥さんにはかないませんね」と言われた時には「結婚しなさい。良い妻を持てば幸せになるだろう。悪い妻を持てば哲学者になるだろう」と言ったそうです。
4.アンティステネス
アンティステネスは古代ギリシアの哲学者です。禁欲的で質素な生活をするキュニコス派の創始者とされており弟子はディオゲネスです。アテナイ郊外のキュノサルゲスを学園として自らの思想を説いていました。ソクラテスに大きな影響を受けておりアテナイ市街へと毎日のように通ったそうです。清貧を重んじるためみすぼらしい恰好をしていたのですが、あまりにこれ見よがしだったのでソクラテスからは「私には外套の隙間から君のうぬぼれが見える」と揶揄されることもあったそうです。ただしストア派を信条としたローマ皇帝マルクス・アウレリウスは『自省録』の中で、「善をなしながら粗末に生きることは素晴らしい」と評価していました。
5.アレクサンダー大王
アレクサンダー大王はマケドニア王国の王であり家庭教師は哲学者アリストテレスでした。父フィリッポス2世が暗殺されたことにより王位に即位して、コリントス同盟を結んだ全ギリシア連合軍を用いて東方遠征を行いました。そして、アケメネス朝ペルシアを滅ぼしてインド西部にまたがる大帝国を築いたのです。呼称はギリシア語でアレクサンドロス、アラビア語などではイスカンダルとされています。アレクサンダー大王はグラニコスの戦いやイッソスの戦いなどを経て、インダス川流域まで支配地域を拡大させますが多くの武将による反対もあり、進路を西へ返した後にバビロンにて熱病にかかり32歳の若さで没することになりました。
大王の死後ディアドゴイ(後継者)による覇権争いが始まりヘレニズム三国が誕生します。それがプトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリアです。いずれもギリシア人の王朝でギリシア人は自らをヘレネの子孫と称していたことから、この時代をヘレニズム時代(ヘレネスの時代)と呼ぶことになるのです。各地を侵攻するする過程で自らの名前にちなんだ都市を建設していきました。その中でも最も有名なのが文化の中心となったエジプトのアレクサンドリアです。アテネなどから学者を招いて「ムセイオン」(博物館)を建設し、さらに図書館でエジプト産のパピルス紙に多くの文献を試写させました。そのため、アレクサンドリアは特に自然科学の面でエウクレイデスやエラトステネス、そしてアルキメデスなど多くの科学者を輩出しました。
6.ゼノン
ゼノンはキプロス島出身で禁欲による幸福を追求するストア哲学の創始者とされています。ストアとはポリスの彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で講義を行ったことが由来であり、ストイック(自分を厳しく律する、禁欲的)の語源となりました。ゼノンの哲学は理性(ロゴス)によって感情(パトス)を制して不動心(アパティア)に達することを理想とする確固たる自己の確立をめざしました。そのため頭で考えるだけではなく4つの徳「知恵」「勇気」「正義」「節制」をもって、持続的な実践や鍛錬をつむことこそがストア派哲学の本質だといえます。その後ストア派の哲学はローマ帝国に伝えられ、エピクテトスやセネカ、そしてマルクス・アウレリウス(五賢帝の一人)などが代表的な哲学者として有名です。もう1つのストア派哲のキーワードはコスモポリタン思想です。全人類が兄弟愛をもって生き互いに助け合うべきという考え方はキュニコス派ディオゲネスの影響を強く受けていることがうかがえます。ゼノンの言葉では「我々は耳を二つ持っているのに口は一つしか持たないのは、 より多くのことを聞いて話す方はより少なくするためなのだ」というものが有名です。
7.エピクロス
サモス島出身でヘレニズム時代の哲学者エピクロスはデモクリトスの原子論に影響を受け人間の生命も原子であり死を恐れたり不安に思ったりすることは無意味であると考えた「快楽主義」の哲学者です。快楽とは心の平静と苦痛がない状態のことでありいかがわしい肉体的快楽という意味ではありません。しかし、エピキュリアン=快楽主義者という言葉があるように誤解された意味に転化して定着してしまいました。エピクロス派の思想では快楽こそが善であり人生の目的であるとして人間の欲望を次の3つ①自然で必要な欲望(友情、健康、食事、住居など)、②自然で不必要な欲望(大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活など)、そして③不自然で不要(名声、権力)に分けて、自然で必要な欲望のみを追求して苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが幸福であると考えました。このような状態を「心の平静(アタラクシア)」と言います。エピクロスは「隠れて生きよ」と言って世の中から忘れられて生きたほうが幸せであり、誘惑から離れて、田園の中で友達との友情を大切にしながら静かに暮らすことを提唱しました。そして「エピクロスの園」という庭園学園をつくり、郊外の庭園つきの小さな家で弟子たちと共同生活を送りながら哲学の探求を続けました。エピクロスの言葉には「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」「われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」などがあります。
8.イブン=ルシュド
12世紀のコルドバ(現スペイン)で活躍したイスラム教の哲学者がイブン=ルシュドです。ラテン名のアヴェロエスとしてもヨーロッパに広く知られており、アリストテレスの哲学を紹介してスコラ哲学にも大きな影響を与えたとされています。アリストテレス哲学のアラビア語への翻訳運動は国家プロジェクトでした。しかしキリスト教勢力によるレコンキスタの結果その著書は発禁扱いになったのです その後ラテン語に翻訳されることでキリスト教世界へ受け継がれていったのです。
9.ピタゴラス
サモス島出身の数学者で「サモスの賢人」とよばれたのがピタゴラスです。哲学を意味するギリシア語フィロソフィアはピタゴラスがつくったといわれています。ピタゴラスと言えば「三平方の定理」が有名ですよね。ピタゴラスはあらゆる事象には数が内在していると考えました。そして宇宙のすべては人間の主観ではなく数の法則に従うのであり、数字と計算によって解明できるという思想を確立したのです。和音の構成から惑星の軌道まで多くの現象に数の裏付けがあることに気づくことで、宇宙の全ては数から成り立つと宣言したのです。この思想にもとづいて創始されたのがピタゴラス教団であり、ピタゴラスは数の性質を研究することによって宇宙の真理を追究しようとしたのです。ピタゴラス教団では10を完全な数と考えて、10個の点を三角形の形に配置したテトラクテュスを紋章として活動していました。
絵の中でピタゴラスの足元に見える黒板にはテトラクテュスと4本の線が描かれています。これは音と音の関係が示されているのですがピタゴラスは音楽にも、ある日ピタゴラスが散歩をしていた時のことです。鍛冶職人たちが金属をハンマーで叩くときの「カーン」という音が聞こえてきました。その時ピタゴラスは「美しく響き合う音」と「そうでない音」があることに気づいたのです。不思議に思っていろいろな種類のハンマーを叩いてみたところ、美しく響き合うハンマー同士の重さには単純な整数の比が成立することを発見したのです。特に2つのハンマーの重さの比が2:1の場合と3:2の場合に美しい響きになりました。「ドレミファソラシド」の低いドから高いドまでの音程の幅を1オクターブといいます。そして1オクターブ離れた2つの音を同時に響かせると高さの違う同じ音に感じられて濁りなく美しく調和することを発見したのです。こうしてピタゴラスは「ドレミファソラシド」の音階を数字であらわすことができたのです。
10.パルメニデス
古代ギリシア時代のイタリアの都市エレア出身の哲学者がパルメニデスです。パルメニデスは論理哲学的、超越思想的な学派であるエレア派の始祖とされています。初期のギリシア哲学においてもっとも深遠で難解な思想家であり、自然学や形而上学の発展に決定的な影響を与えたとされています。例えばデモクリトスはエレア派の存在論への応答として原子論を提唱したとされています。自然を構成する分割不可能な最小単位として原子が存在すると考えましたが、原子はエレア派の「あるもの」を小さく分割したものとする見解があるのです。またプラトンの著書『パルメニデス』には若きソクラテスを指導する姿が描かれています。プラトンのイデア論はパルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させようとした試みであるとも言われています。このようにプラトンはパルメニデスのことを高く評価していたことがうかがえます。
11.ヘラクレイトス
古代ギリシアの自然哲学者の1人ヘラクレイトスは「万物は流転する」と唱えた哲学者です。友人がエフェソスの民衆により追放されたことに怒りエフェソスの人が法の制定をヘラクレイトスに委託した時にエフェソスの民主制を悪しきものとみて拒否しました。この時アルテミス神殿に退いて子供たちとサイコロ遊びに興じているのを人々が不審に思い理由を尋ねると「おまえたちと政治に携わるよりこの方がましだ」と答え「エフェソスのやつらなど成人はみな首をくくってしまえ」と暴言を吐いたとも言われています。このような厭世観と著作物のあまりの難解さから「暗い哲学者」と呼ばれました。「万物は流転する」(ギリシア語で「パンタ・レイ」)とは自然界が常に変化していることを言い当てた言葉である一方で変化と闘争を万物の根源とし「火」をその象徴としました。「戦争は万物の父」として戦争と平和、健康と病気など正反対に見える要素が対立することで変化が生まれ、しかし反対方向に引っ張り合いながらも全体としては調和を保っていると考えました。「同じ川に二度入ることはできない」というヘラクレイトスの言葉には「川はいつも変わらず存在しているように見えるが水は常に上から下へと流れており実際には絶えず変化している」という彼の思想がこめられています。作中ではミケランジェロ・ブオナルローティをモデルに描かれています。
12.ディオゲネス
犬儒学派(キュニコス派)のディオゲネスは古代ギリシアのアテナイにおいて樽の中で生活した哲学者です。ディオゲネスの思想は物質的なものに縛られることなく真の幸福は自由で自律的な生活にあると説いていたので外見を気にすることなく粗末な上着のみを着て樽の中で乞食のような生活をしていたのです。そして道ばたで公然と自慰行為に及び「こするだけで満足できてしかも金もかからない。食欲もこんなふうに簡単に満たされたらよいのに。」と言いました。ある日アレクサンダー大王がディオゲネスの元を訪れて「私はアレクサンダー大王である。お主は誰だ?」と聞かれて「私は犬のディオゲネスです」と答え「何か望みはあるか?」と聞かれて「日が遮られるからそこをどいてください」と言ったそうです。帰路につくアレクサンダー大王は「大王でなかったらディオゲネスになりたい」と言ったとされます。ディオゲネスは「徳を身に付けることが人間の真のあり方である」と考え徳を積んだ立派な善人こそ最優先に目指すべき姿だと諭しています。そのため昼間からランプに明かりを灯して「私は人間を探している(しかし徳のある人間はどこにもいない)」と風刺しながら街を歩き回ったそうです。
海賊に襲われ奴隷として売り出された時には「どこから来たのか?」と問われて「私は世界市民(コスモポリタン)である」と答えたそうです。これが、国家や民族に囚われないという「コスモポリタニズム(世界市民主義)」という考えを世界で初めて唱えた瞬間とされています。
13.エウクレイデス
ヘレニズム時代の数学者でユークリッド幾何学を大成したのがエウクレイデスです。エウクレイデスはギリシア語の読み方でユークリッドは英語の読み方です。アレクサンドリアのムセイオンで学び『幾何学原論』を表しました。ここに書かれていることの多くはもっと以前の数学者の成果としてえられたものですが、それらを1つにまとめて提示して一貫した論理的枠組みを構築して厳密な数学的証明を行っている点にエウクレイデスの功績があるとされています。エジプト王プトレマイオス1世に幾何学を学ぶ簡単な道はないかと尋ねられて、「幾何学に王道はございません」と王を叱ったという逸話が残されています。絵画の中ではサン=ピエトロ大聖堂を設計したブラマンテをモデルに描かれています
14.プトレマイオス
古代ローマ時代にエジプトのアレクサンドリアで活躍した天文学者がプトレマイオスです。プトレマイオスは地球を中心とした太陽・月・惑星の運行を計算して体系づけました。これが「天動説」(プトレマイオスモデル)です。「天動説」は各地域の常識となってその後1500年間にわたる不動の定説となったのです。そのため古代のコペルニクスとよばれるアリスタルコスの地動説は忘れ去られました。しかしこの「天動説」を覆すきっかけとなったのがポーランドの天文学者コペルニクスです。コペルニクスは『天球の回転について』の中で太陽中心説―「地動説」を唱えたのです。そのため物事の見方を180度かえるような発想は「コペルニクス的転回」と表現されます。その後「地動説」はガリレオ=ガリレイが観測したことによって実証されました。そのため現在では「地動説」を誰もが当たり前のこととして理解しているのです。プトレマイオスは地理学ではじめて地球上を経度緯度にわけて世界地図を作製しました。その範囲は現在のスペインからインドにまで及んでいるが誤っている点も多かった。しかし、プトレマイオスの地図は科学的な最初の世界地図と言うことができるのです。
15.アベレス
アベレスは古代ギリシアで活躍した画家ですが詳細はあまりわかっていない人物です。その理由は現存する作品はなく大プリニウスが著した『博物誌』の内容に限られるためです。アレクサンドロス大王の肖像を描いたとされており、アテナイの学堂の絵画ではラファエルロ自身の姿で描かれています
16.ゾロアスター
ゾロアスター教の開祖とされているのがゾロアスター(ツァラトゥストラ)です。生没年不詳ですが紀元前1200年から600年頃ではないかといわれています。火を重視したことから拝火教とも呼ばれるゾロアスター教は善悪二元論に立って、この世界を善の神アフラ=マズダと悪の神アーリマンの対立と捉えていました。紀元前6世紀に成立したアケメネス朝ペルシアの諸王によって篤く尊崇されました。さらに3世紀のササン朝ペルシアでは国教とされ聖典「アヴェスター」も編纂されました。最後の審判などの教義はユダヤ教をへてキリスト教にも影響を与えたとされています。またササン朝の時代に派生したマニ教は教父アウグスティヌスも信仰していたものです。また18世紀に「アヴェスター」がヨーロッパで翻訳されるようになると、モンテスキューやヴォルテールはゾロアスター教を脱協会のシンボルとしていました。さらにモーツァルトは歌劇『魔笛』で夜の女王の敵役としてザラストロを登場させました。哲学者のニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』という著作を遺しています。そしてリヒャルト=シュトラウスは交響詩『ツァラトゥストラかく語りき』を作曲して、その音楽はスタンリー=キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』のオープニングに使われて広く知られることになりました
17.プロティノス
プロティノスは古代ローマ時代のエジプトの哲学者です。現代の学者らからはネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者とされている人物です。新プラトン主義とは「一なるもの」(ト・ヘン)を重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。万物は無限の存在である「一者」から流出したヌース(理性)の働きによるものである。一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。
また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。[エネアデスVI 9の第11節] ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである。プロティノス自身は生涯に4度ばかり体験したという。また高弟ポルフュリオスは『プロティノスの一生と彼の著作の順序について』(『プロティノス伝』と称される)の中で、自らは一度体験したと書き残している。プロティノスはプラトンのイデア論を徹底して万物は一者から流出したものと捉えました。プラトンの正しい解釈として考えられたものであるが、実際に構築された哲学体系はプラトンのオリジナルのものとはかけ離れたものとなっている。プロティノスという名前もプラトンの徒―プラトーニコスをもじって自らつけたものです。
まとめ
ラファエロは「アテナイの学堂」において安定した構図と遠近法を駆使することで、ルネサンス芸術の頂点ともいわれる作品を残しました。描かれた内容は古代ギリシャの哲学者や科学者、幾何学から宇宙論、そしてキリスト教と古代思想を融合させる新プラトン主義を視覚化したものとなっています。
「アテナイの学堂」が描かれた「署名の間」はそれぞれ「神学・哲学・詩学・法学」を象徴しており、ローマ教皇の権力と聡明さをアピールするという狙いもあったとされています。ラファエロの技術力、構想力、そして素晴らしい創造力によって見事に描かれたことから「アテナイの学堂」はルネサンス芸術の最高傑作の1つといわれているのです。