今回は、哲学初心者のわたしと一緒に「人間関係の悩みを解決する哲学」を探求する旅に出かけましょう。哲学って、少し難しそうに感じるかもしれませんが、実は日常生活の中にも深く関わっているのですよ。一緒に考え、問いに答え、新しい視点を見つけることで、哲学は驚くほど身近に感じられるようになるのです。この旅が終わる頃には、現代社会にはびこる生き辛さの正体を知るためのヒントをきっと見つけることができるでしょう。
ベストセラーになった『嫌われる勇気』という本を知っていますよね?ここで紹介されるアルフレッド・アドラーは「すべての悩みは対人関係」と言っています。これは現代を生きる私たちに限らず大昔の人々も同じだったのです。古バビロニアの遺跡から出土した粘土板には詐欺にあったことに対する愚痴が、古代エジプトの遺跡から出土したパピルスには真面目に仕事をしない部下と口うるさい上司の板挟みにあって不眠になやまされた記録などが残されていました。
紀元前に生きていた人々も現代人である私たちも、人間はいつの時代であっても同じような悩みをもっていたことがわかります。このような悩みに真っ向から挑み思考することによって、その解決の糸口を見出してきたのが哲学者たちなのです。だからこそ哲学者たちがその答えに至ったプロセスを知ることで新しいものの見方や考え方をもつことができるようになるはずです。この記事を読み終わる頃には「哲学っておもしろい」「哲学で悩みが解決された」と哲学に興味をもってくれるようになることでしょう。
1 断れない
本当は嫌なのに八方美人な性分のためについやりたくない仕事を安請け合いしたり、行きたくもない食事会にいつもいやいや参加しなければいけなかったりする時「断れない」と思うことがありますよね?そんな時はぜひアドラー心理学のアルフレッド・アドラーの哲学を学んでみてください。アドラーはオーストリア出身でフロイト・ユングと並ぶ心理学の三大巨頭の1人です。フロイトやユングと比較して知名度はそこまで高くなかったのですが、先に紹介した岸見一郎『嫌われる勇気』によって一気にその名を知られることになりました。センセーショナルなタイトルの通りその内容はとても刺激的で「あなたの不幸はあなたが選んだもの」「劣等感は主観的な思い込み」のように、一見するだけでは受け容れがたい主張が数多く見られることから本書の中でも「アドラーの教えは常識へのアンチテーゼ」と述べられています。しかし世界的ベストセラー『人を動かす』の著者デール・カーネギーが「一生を費やして人間とその潜在能力を研究した偉大な心理学者」だと紹介したり、同じくベストセラーとなったスティーブン・コヴィーの著書『7つの習慣』においてもアドラーの思想に近い内容が多く語られているのです。今回はその中でも「承認欲求」について考えてみたいと思います。
まず前提としてアドラーは「承認欲求」を否定しています。なぜなら私たちは他人の期待を満たすために生きているわけではないからです。わたしたちは他人からの承認を求め他人からの評価ばかりを気にしているといずれ自分ではなく他人の人生を生きることになってしまうのです。では相手のことなど考えずわがままに身勝手な行動をとればよいのでしょうか?そうではなく「課題の分離」をすることが必要なのです。
たとえば「このスキルを身につけたら仕事に役立つよ」と言われたとします。この時「スキルを身につける」ことが誰の課題なのかを明確にする必要があるのです。もしそのスキルを身につけなかったとして最終的に責任を負うのはあなたですよね?それが行きたくない食事会への誘いであったとしても同じです。もし食事会を断ったとしてもあなたが困らないのであれば何の問題もありません。上司や友人は「あなたのため」という言葉をつかいますが、それはその人の目的(それは世間体や支配欲かもしれません)を満たす行為にすぎません。あなたがどんな行動をして相手があなたに対してどんな評価を下そうとも、それは相手の課題であってあなたの課題ではないのです。それなのになぜあなたは承認されることを求めたり評価ばかり気にしたりしまうのか?その答えはまさに「課題の分離」ができていないからなのです。大切なことは「他人の課題には介入せず自分の課題には誰も介入させない」ということです。これはつまり「自由」についての問題なのです。
あなたがいつまでも他人からの承認や評価を気にして生きている以上それは自由な人生とはおおよそ程遠いものとなってしまうことでしょう。たしかに他人の期待を満たす生き方はある意味でとても楽な生き方です。親の敷いたレールに乗ったり上司の命令に従ったりする間は道に迷うことはありません。しかしそのような人生は本当にあなたの望む自由で豊かな人生だと言えるのでしょうか?他人の視線を気にして他人の顔色を窺いながら生きることほど不自由な人生はないのです。そのような生き方とはすなわち自分だけでなく周囲にも嘘をつき続ける生き方なのです。
では自由に生きるにはどうすればいいのでしょうか?それこそが本書のタイトルでもある「自由とは他者から嫌われること」なのです。これについて「嫌われる勇気」という言葉だけが独り歩きをしてわざわざ嫌われなさい、という意味に思われがちですがこれは「嫌われることをおそれるな」という意味なのです。たしかに誰だってわざわざ他人から嫌われたくはありません。しかし嫌われたくないと思うことは自分の課題ですが、相手が自分のことを嫌いになるかどうかは他人の課題なのです。どんなに努力をしたとしてもあなたのことを嫌いになる人は必ず存在します。でもそれは他人の課題でありあなたはそこに介入することはできないのです。あなたにできることはただ嫌われることをおそれないようにすることだけなのです。もし「あらゆる人に好かれる人生」と「嫌われることもある人生」を選べるならばあなたはどちらの人生を選びますか?あなたが自由な生き方を望むのであればどちらを選ぶべきかもうわかりますよね?嫌われない人生(他人の期待を満たす生き方)を選ぶ以上それは不自由な人生であり、あなたは嫌われる(承認されない可能性)コストを払わないかぎりいつまでたっても自分の生き方を貫く自由な人生を送ることはできないのです。だからこそ「嫌われる勇気」をもって今日からその一歩を踏み出してみて下さい!。
2 マウント野郎
やたら自分のことをこれ見よがしに自慢してきたり、聞いてもいないうんちくを延々と話されたりする時「マウント野郎」と思うことがありませんか?そんな時はぜひ古代ギリシアの哲学者ソクラテスの哲学を学んでみてください。ソクラテスは紀元前5世紀にアテナイで活躍した哲学者で釈迦・キリスト・孔子と並ぶ四聖人に数えられる偉大な哲学者です。
当時のアテナイでは民主政治が行われおりそこでは知識や議論が重視されていました。そのためソフィストと呼ばれる弁論術を駆使する知識人たちが登場したのです。彼らは主観的な意見や価値観の多様性を強調して絶対的な真理や価値が存在しないとする「相対主義」の立場をとる哲学者でした。その代表的な哲学者が「人間は万物の尺度である」と唱えたプロタゴラスです。ここでいう人間とは個人個人の感覚のことであり尺度とは判断基準のことです。つまり何が善であるかはすべて個人個人の感覚が判断基準であるということです。しかしソフィストは真理の探究よりも相手を論破することに注力していました。そんなソフィストたちとの対話を通して絶対的な真理を探究したのがソクラテスなのです。
ソクラテスはある日デルフォイのアポロン神殿において「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という信託を受けます。それを確かめるためソフィストたちと対話を重ねていくことにしました。ソクラテスの対話は「問答法」と呼ばれ相手の意見を引き出しその説明をさせ続け、最終的に論理を破綻させることで相手にその無知を告白させるという方法でした。つまり相手が「正義が大切である」と言えば「正義ってなんですか?」と問い返し、「正しいことである」と言えば「正しいって何ですか?」と問い返していくのです。これを続けていけばいつか相手は答えに行き詰まるというわけです。ソクラテスはこのようなやりとりを重ねる中で「無知の知」の真理に至ったのです。無知の知とは「知らないことを知っていると思いこんでいる人々よりも、知らないことを自覚している自分の方が賢い」ということです。
しかしソクラテスに言い負かされた人々は彼のことを疎ましく思うようになります。そしてとうとうソクラテスは「アテナイが信じる神々とは異なる神々を信じ若者を堕落させた罪」によって死刑判決を受けることになるのです。弟子たちはソクラテスに逃げるよう諭しますが「ただ生きるのではなく善く生きよ」という自分の意思を貫いてソクラテスは毒をあおって刑死するのです。もし同僚や上司があなたに対してマウントをとるために「増税メガネは財務省の言いなりで経済のこと全くわかってないよな?」とか知識をひけらかしてきたら「財務省と経済の関係?」と聞き返してみてください。きっと「財務省が金利をあげないから」「インフレを抑えないと円高が進む」とか言うと思いますので「金利って?」「円高は悪いの?」と聞き返していきましょう。その人は中途半端な持論を述べているだけなのでいずれ答えに矛盾が出てくるはずです。相手が「もう会議の時間だからこの話はまた今度な」とか言って逃げ出そうとしたら「知らないことを知っていると思い込んでいるあなたがいかにバカなのかわかりました」と言ってやりましょう。あなたは確実に嫌われること間違いなしですが「嫌われる勇気」があれば問題ありません。注)自己責任でお願いします。
ソクラテスは決して自分が正しいということを主張したかったわけではありません。ただ「善く生きる」ための真理を探究していただけなのです。あなたもわざわざ相手を論破してバカの相手をする必要はありませんが、上から目線でものを言ってくる人にはソクラテスの対話法がきっと役に立つと思いますよ。ソクラテスについてもっと詳しく知りたいと思ったらぜひこちらの記事をご覧ください。
3 裏切られた
信じていた友達に騙されたり恋人に浮気をされたりした時「裏切られた」と思うことがありませんか?そんな時はぜひ「赦し」の哲学者ハンナ・アーレントの哲学を学んでみてください。ハンナ・アーレントはドイツ出身のユダヤ系哲学者であり、生涯を通して全体主義に抗い全体主義に飲み込まれることがないように理想的な政治や公共性をどのように実現していけばよいのかを探究した思想家です。マールブルグ大学でハイデガーに出会い初めての情事と表現されるほど哲学に没頭します。この時期ハイデガーとは生徒と教師を超えた関係にあったといわれています。
アーレントは人間の行動を重視した上で「労働」「仕事」「活動」の3つに分類しました。「労働」とは生存のための行為であり「仕事」とは目的達成のための行為のことです。アーレントはこの2つは私的領域であり「活動」は公的領域であると区別しました。これは公共的・利他的であり自発性に基づいた他者との関係を築く行為のことです。そして「活動」は人間と人間が関わり合い言葉などを通して自己表現をする最も高度な『人間の条件』であると考えたのです。
しかし人間と人間の関係であるからこそ何が起きるのかは予測できません。もしかしたらコミュニケーションの過程で相手を傷つけてしまうこともあるでしょう。しかも相手を傷つけてしまった場合それをなかったことにも元にもどすこともできません。このように「活動」には不可予言性と不可逆性という特性が付随してしまいます。もし「活動」の結果として相手を傷つけて(傷つけられて)しまったとしても、それにいつまでも囚われてしまうのであれば私たちの心は永遠に解放されません。それは結果的に私たちの自由を大きく損なうことになってしまうのです。だからこそ「活動」には「赦し」と「約束」という2つの救済が残されているとしました。たしかに不可予言性のせいで思わぬ結果を引き起こしてしまうこともあるでしょう。しかしそれは目の前にいる人がかけがえのない人間であるからなのです。たとえどんな結果になろうともそれを「赦す」ということが、目の前の人をかけがえのない存在として受け入れることになるのです。
同時にどんな結果がおこるかわからないからこそ目の前の人と連帯する時には自分の未来と目の前の人を尊重することを「約束」することが大切でもあるのです。そうすることで全体主義とは正反対の公共的な空間をつくりだせると考えたのです。もし私たちが「復讐」の鎖に縛られてしまえばいつまでたっても次へ進めないどころか、復讐が復讐をよぶという際限のない負の連鎖を断ち切ることもできません。しかし「赦し」は復讐の連鎖を断ち切り赦す者と赦される者の双方を自由にします。もちろん「赦し」は我慢や忍耐といった理性を必要とするため簡単なことではありません。だからこそアーレントは赦しが復讐の対極にある理性的で高貴な行為であるとしたのです。
ただしアーレントはその哲学とは正反対の「赦さない」という決断をしたこともありました。それが『エルサレムのアイヒマン』を発表するに至ったアイヒマン裁判です。ナチスの親衛隊だったアドルフ・アイヒマンは数百万人のユダヤ人を強制収容所に移送する仕事をしていました。戦後イスラエルの諜報機関にとらえられエルサレムで裁判をうけることになったのですが、彼は「私は命令に従っただけです」と一貫して無罪を主張したのです。アーレントは「アイヒマンは悪人ではなく仕事をこなしていただけの役人だ」と言いました。それでもこの裁判においてアイヒマンは死刑判決を受けるのです。このことについてアーレント自身も「赦しはアイヒマンには与えられない」と発言します。「きみがユダヤ民族およびいくつかの国民たちとこの地球上に生きることを拒み(中略)きみと共にこの地球上で生きたいと願うことは期待しえないと思う。これこそがきみが死刑になる唯一の理由である」(『エルサレムのアイヒマン』より)
アーレントの「赦し」の哲学はホロコーストという巨悪を許すことができなかったように、理論と現実の間に大きな隔たりをもつ決して万能なものとは言えない側面がありました。みなさんが抱える悩みについてもホロコーストほどではないにしても「頭ではわかっていてもなかなか赦せない」と感じることがありますよね?それでも「赦そうと思い立つことはやはり大切なことだ」とアーレントは言います。なぜなら「赦し」こそが復讐の連鎖を断ち切り赦す者と赦される者の双方を自由にすることにかわりはないからです。
ポスト構造主義の哲学者ジャック・デリダはアーレントの「赦し」について「赦しというものは赦しえないものを赦すために存在する」とまで言い切っています。フランスの啓蒙思想家ヴォルテールも理性と寛容の精神をもって「赦す」ことを説きました。判断をまちがえることは人間の宿命であるという前提のもと我々の愚かさを赦しあうべきであるということこそが自然の第一の掟であるとしたのです。たしかにアーレントはアイヒマンを赦すことはできませんでした。しかし「ユダヤ人の中にもナチスに加担した者はいた」「誰もが悪になりうる」と言って多方面から非難されようともその主張を曲げることをしなかった点を忘れてはいけません。アーレントは誰よりも赦すことを検討して極限まで双方にフェアな態度を貫いたのです。「赦す」ことはたしかに簡単なことではないかもしれません。ぜひあなたにとって「赦し」とはどのようなものかもう一度考えてみて下さい。
4 1人になりたい
結局すべての悩みは人間関係だっていうならいっそのこと「1人になりたい」と思うことがありませんか?そんな時はぜひ他者論の哲学者エマニュエル・レヴィナスの哲学を学んでみてください。レヴィナスはユダヤ人の両親のもとリトアニアで生まれた哲学者です。レヴィナスは故郷の人々や近親者をナチスに虐殺されるという経験をもち、その非人道的な行為と親類を失ってもなお回り続ける世界に対して恐怖を感じるのです。そしてレヴィナスは「イリヤ」こそが人間の恐怖を生み出すものであると考えました。イリヤとは無の闇と沈黙の中にある自己を中心に築かれた世界のことであり、私という主体がないままにあるだけの永遠の暗闇が広がっているような状態のことです。
レヴィナスはこれまでの哲学(主にカントの哲学)が全て自己の中で完結することに終始してしまっていると指摘しました。そして自己の中で全てに意味付けを行う哲学を「全体性の形而上学」として批判して、このようなエゴイズムこそがイリヤを生み出す原因であると考えたのです。あなたのまわりにも同じように自分の正当性だけを主張する人はいますよね?そのような人は自分でも気づかないままにイリヤに囚われてしまっているのです。
ではどうすればこのイリヤから抜け出すことができるのでしょうか?第二次世界大戦をおえてあらゆるものを失ったレヴィナスはイリヤの中にいました。そんな彼をイリヤから救い出してくれたものこそが「他者」だったのです。「他者」とは私には理解できない何かのことでありそれは他人に限りません。そして「他者」とは自己の意識の外にいるため理解もコントロールもできない存在なのです。なぜなら自己の中でどれだけ論理的に他者を意味づけしたとしてもそれを否定する別の他者が自己の意識の外側のどこかに必ず存在するからです。(この考え方を否定するということ自体が他者の存在を肯定しているとも言えます)。そのためレヴィナスは他者のことを「無限の存在」と表現しました。レヴィナスの「他者論」では否定することのできない絶対的な真理など存在しないのです。ということは「他者」とは真理への到達を阻む自分にとって不都合極まりない存在であり、ソクラテスが命をかけて探究した絶対的な真理への旅は他者の前に敗北をしたのです。
それなのになぜレヴィナスは迷惑な存在であるはずの他者こそがイリヤから私たちを救い出してくれるものと言ったのでしょうか?たしかに他者は私たちを悩ませることになる困った存在です。しかしこんなふうに他者のことを考えることもできるのです。「他者とは私という存在を自己完結のひとりぼっちから救い出してくれる唯一の希望であり無限の可能性である」とレヴィナスは言いました。あなたが他者の存在しない世界で絶対的な真理に到達できたと想像してみてください。全ての問題を即座に解決することができて、全ての反論を無効にする完璧な理論をもつことができたとします。それはあなたにとって理想の世界のように思えますが…本当にそうでしょうか?きっとそこにあるのはただの独りよがりな自己完結であり、何の楽しみもない永遠の虚無が続く退屈な世界のはずです。しかし幸運なことに現実には必ずあなたの目の前には他者がいるのです。他者はあなたにとって理解もできなければあなたのことを否定してくる不愉快な存在です。でも他者がいるからこそあなたは対話すること問いかけ続けることができるのです。理解できないわからないものがあるからこそ「本当は?」と問いかけることができるのです。それゆえ私たちは他者を殺すことなく他者と向き合い続けなければいけないのです。
他者の顔は常に「汝殺すなかれ」と訴えているとレヴィナスは言いました。これは物理的な殺害に限らず相手を無視することや排除することも含みます。だからこそ私たちは他者の顔と対話する時には倫理的な抵抗力によって、他者に対して無視するでも排除するでもない無限の責任をもつことになるのです。私たちは他者によって生かされており他者の存在こそが私を倫理的にしてくれるのです。それこそがイリヤという自己完結のエゴイズムから抜け出す唯一の方法なのです。
この世にたった1つ絶対的な真理があるとすればそれは「必ず私のことを否定する他者が存在する」ということなのかもしれません。そして他者とは私が理解することもコントロールすることもできない不愉快な存在です。しかしだからこそ「本当は?」と問いかけることができる唯一の存在でもあるのです。そうすることで他者の中に新しい価値観や無限の可能性を見出すことができるのです。なぜ私たちが不愉快で不都合で迷惑な存在であるはずの他者との関係をもつのかといえば、それは私たちが「本当は?」という真理を探究しようとする情熱をもつからに他なりません。私たちが真理を探究しようとする限り他者との関係は続いていくのです。結局どこまでいっても人間関係は続くのか…と不安に思いましたか?でも大丈夫です。あなたはもうそのための武器「嫌われる勇気」「対話法」「赦し」を備えているのですから。エマニュエル・レヴィナスについてもっと詳しく知りたいと思ったらぜひこちらの記事をご覧ください。
5 まとめ
いつの時代でも私たちは生きていくうえで同じような悩みを抱えています。だからこそ今よりも一歩でも豊かな人生を歩んでいけるようにこれからも哲学を一緒に学んでいきましょう。
「断れない」という悩みにはアドラー心理学のアドラーの哲学が、「マウント野郎」という悩みには古代ギリシアのソクラテスの哲学が、「裏切られた」という悩みにはハンナ・アーレントの哲学が、そして「1人になりたい」という悩みには現象学のレヴィナスの哲学があなたの悩みを解決してくれるヒントになるかもしれません。「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。
「人間は思考することはやめてしまえば誰もがナチスのような巨悪になりうる」ハンナ・アーレントはこのように言いました。悩みという「他者」がいるからこそあなたは新しい一歩を踏み出せるのです。これからも哲学の実践的な活用方法について紹介していく予定ですので、ぜひご期待ください 本日の旅はここまでですありがとうございました。
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