21世紀を生きる現代人のための哲学入門20

哲学×悩み

今回は「現代人のモヤモヤを解決する哲学」について考えていきましょう。参考文献は『21世紀を生きる現代人のための哲学入門20』(著者:富増章成さん)です。

【21世紀を生きる現代人のための哲学入門20】現代人の抱えるモヤモヤを哲学者とディベートしたらどうなる?

哲学とは「本当にこれが正しいのか?」「正しいことはあるのか?」のように、常識という思い込みを破壊して新しい概念をつくりあげる学問です。だからこそフランスの高校生が昔から哲学を必修科目として学んでいるだけでなく、世界のビジネスエリートたちが「哲学」を教養として身につけようとしているのです。

本書の特徴は現代人の抱えるモヤモヤを歴史上の哲人たちにディベートでぶつけることで

「哲学を知る」だけでなく「哲学をする」ことができるようになっているところです。

「さとり世代のように人生そこそこで行きたい」

「恋愛なんてコスパの悪いことしたくない」

「親ガチャで人生は決まる」

このような現代人ならだれもが気になる疑問を哲人たちとディベートしたらどのような答えにたどりつくことができるでしょうか?後半ではあのひろゆきさんも登場してディベートをしますので最後までお楽しみください。

そもそも哲学とディベートにはどのような関係があるのでしょうか?実は知(ソフィア)を愛する(フィロス)という意味のフィロソフィー、つまり「哲学」の命名者こそが有名なソクラテスであり哲学の手法を確立した人物なのです。ソクラテスは知らないことを知っているという意味の「無知の知」にもとづいて問答法を通して相手と対話することでものごとの真理を明らかにしようとしました。この問答法こそがまさに今日のディベートのようなものであったのです。

またテレビ番組で有名なマイケル・サンデル教授の講義もディベートを採用しています。あるテーマについて肯定・否定の立場から意見を述べ途中その立場をいれかえることで、双方の立場から考えることを通して新たな発見をえることができるのです。本書を読み進めていく中でいろいろな考え方を知ることを通して哲学が生きるヒントをえるきっかけになることに気づいてもらえると思います。

1 さとり世代 対 ニーチェ

現代の若者たちのことをさとり世代というように表現することがあります。これは夢や希望をもたなくても今が安定していればいいと考える世代のことです。もしさとり世代が「そこそこで生きていけばいいじゃないか」と言ったら実存主義の哲学者ニーチェはどのように答えるのでしょうか?

実はニーチェも「絶対的な価値観はない」というところはさとり世代と同じなのです。ニーチェは「神は死んだ」という言葉で「世界には神という最高の価値がある」という西洋のキリスト教文化を破壊しようとしました。このように絶対的な存在は世界に存在せず、人生の答えもないという考え方を「ニヒリズム」といいます。ニヒリズムの思想をもつさとり世代は「なにかを期待しても叶わないのであれば

そこそこで生きていく方がマシ」と思うわけですよね?しかし「もしも永遠に同じ人生をくりかえすのだとしてもそこそこがいいのか?」ニーチェはこのように「永劫回帰」する人生の是非を尋ねるのです。だれもが生まれ変われるなら今よりもよい人生を望むのではないでしょうか?もしその時に今よりも良いと思える人生を送りたいと願うならば、それは今の人生がベストではないということを自覚していることになりますよね。

実はニヒリズムには「消極的ニヒリズム」と「積極的ニヒリズム」があるのです。さとり世代のように無意味な人生だと投げやりに思うことは「消極的ニヒリズム」、それに対して無意味な人生を肯定的に受け入れる考え方が「積極的ニヒリズム」なのです。ニーチェは人間にはよりよい者になりたいという「力への意志」が備わっていると言います。しかし現実的には挫折してしまうことも多いので「〇〇が悪い」と正当化してしまうのです。このような感情をルサンチマン(怨恨感情)と言います。ニーチェはキリスト教が「貧しい者は幸せである」「苦しむ者は天国へ行ける」のように道徳を捻じ曲げて善悪の基準に利用していることを奴隷道徳であると指摘しました。つまりさとり世代のようにそこそこの生き方を望むこともまたルサンチマンなのです。

ニーチェはどうせ無意味な人生であるならばむしろ全力で生きるべきであると言います。がんばって失敗することも期待して裏切られることもふくめて「これが自分の人生だ」、「いろいろあったけどもう一度やり直すのも悪くない」と思える生き方を提案するのです。実はニーチェ自身も存命中は親友の音楽家であるワーグナーと絶交したり、妹とのけんかや恋人との別れなど人間関係にはめぐまれなかったりするだけでなく、当時は書籍が全く売れずにさいごは発狂して死んでしまうという壮絶な人生を送りました。それでもニーチェにはもう語るべきことはすべて語りつくしたという思いがあったのです。だれもが失敗や挫折を経験しますがそれでも「今この瞬間を肯定すること」が大切であるとニーチェは言います。年齢を重ねるにつれて失敗や人の目をきにするようになってしまいますが、「それでもいい」と思ってすべてを肯定することを求めるのです。

「神は死んだ」以上は新しい価値をわたしたち自身が創造していかなければいけません。ニーチェはそのような未来に出現する存在のことを「超人」と表現しました。わたしたちは「超人」を理想としながらも逆境を肯定して力強く生きるべきだと言いました。作家アルベール・カミュも「この世は不条理だ」と考えました。私たちはたまたまこの世界に投げ出されて同じような毎日を過ごしていくことを強制されています。この終わりの見えない苦痛のような状況を「不条理」と言ったのです。カミュはこの不条理を「それでいい!」と受け止めることが必要であり、毎日をひたすらに生きていくことこそが幸福であるとしたのです。

『シーシュポスの神話』におけるシーシュポスが永遠に岩を山頂まで運ぶ労苦を課されてもなおそれを受け止めたように、『異邦人』における主人公ムルソーが不条理な世界からはじき出されてもなお自分に正直に生き抜くことで幸福感を感じながら最後を迎えたように生きていくのです。

これまで哲学の世界においては「人生の意味」について幾多の考察が重ねられてきました。しかし意味のない人生に無理やり意味を見出すことこそが理性の放棄なのです。人生の意味というものは生き続けた先にしか見出せないのです。もしかしたらニーチェの言うように永劫回帰される人生に意味などないのかもしれません。たしかにカミュの言うようにこの世は不条理なものなのかもしれません。だからこそ「これでよし」「それでいい」と受け止めて生き続けることが大切なのです。

「世界にはきみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのかと問うてはならない。ひたすら進め」というニーチェの言葉をぜひ覚えておいてください。ニーチェについてさらに詳しく知りたい方はこちらの記事をごらんください。

2 草食系男子 対 プラトン

「恋愛にあまり興味がありません」という声をよく聞くようになりました。現代は娯楽の種類も豊富で1人でも楽しく生きていくことができるようになりました。結婚ともなればお金も労力もかかるコスパの悪いことだと思う人も多いはずです。これに対して古代ギリシアの哲学者プラトンは、「恋愛は娯楽ではなく必要な修行だ」と言っています。プラトンの著書『饗宴』には大いに恋愛をして魂を高めていくべきであると書かれています。『饗宴』はアテナイの悲劇作家アガトンの邸宅を舞台にした対話篇のことであり、プラトンの師匠であるソクラテスと友人たちが食後に恋愛について語るものです。

恋愛をコスパで考える人にとっては修行というほど高尚なものではないと思えますよね。ある調査結果では結婚した人としていない人の幸福度は、金銭をどれだけ持っているかによって決定するそうなのです。増税めがねのせいで生活も苦しく収入も少ないままでは結婚=幸せになれるとは限らず、わざわざ恋愛して結婚するメリットはないと考える人たちが多くなってきているのです。またお金があって誰にも気をつかうことなく自由に過ごすことができれば、それこそが幸福であると考える人もきっといるでしょう。

しかし「恋愛を快楽として捉えているからメリットやリスクが気になる」プラトンはこのように反論するのです。そして恋愛は快楽ではなくそもそも「修行」であるというのです。たとえば「告白をする」というのは楽ですか?それとも苦ですか?さらにデートをするためのプランを考えることは楽ですか?それとも苦ですか?相手が楽しんでいるのか気をつかうことは楽ですか?それとも苦ですか?もちろんそれが楽しいという人もいることはまちがいないと思います。しかし告白してふられる可能性もあればデートが失敗するかもしれない…。あれこれと気をつかったにもかかわらずお金と労力が全て無駄になることもよくあります。わざわざこんなことにチャレンジするのはまさに「苦しみ」以外のなにものでもありません。だからこそ恋愛というのは「真実の愛」をえるための修行であると主張するのです。

「真実の愛」に到達できれば愛し合っている者同士が必然的にお互いを見て喜んだり好意的に話し合ったりすることができるようになります。恋愛とはこのような「真実の愛」を学ぶための修行なのです。でも実際には欲望や快楽に動かされて恋愛をしている人がほとんどだと思いますよね。プラトンは欲望から始まる恋愛を「魂への愛」に高めていくことが恋愛道だと言います。なぜなら恋愛も結婚も魂が高まり合う過程だからです。結婚して子どもができてその子がまた成長して結婚をしていく…このように人類は続いてきたのでありわたしたちの存在そのものが先人たちの「真実の愛」を追求した恋愛の結果でもあるのです。

ギリシア語には「エロース」という言葉がありプラトンはこれを「究極の理想に憧れてそれを捉えようとする哲学的な衝動」という意味で用いました。人間は恋愛を通して最終的に究極の善や美の認識に至るとプラトンは考えたのです。究極の善や美のことを「イデア」といいこれこそが現実を越えたところにあるすべてのものごとの理想的な在り方を示すもののことです。つまり現実を超越したところに世界を生み出している本体があるということです。たとえばこの図形は三角形なのですが「完全な三角形」ではないのです。画面を拡大してみればわかりますが実はそれぞれの辺は角がぼこぼこしているはずです。線とはほんらい幅をもたないものであり点とはそもそも面積をもたないものなのです。このように現実世界には完全な三角形は存在しないのですが、わたしたちがそれを三角形だと認識することができるのは三角形のイデアがあるからであるとプラトンは考えたのです。このイデアへの憧れをエロースとよび恋愛を通して物質としての肉体の欲求からやがて精神的な恋愛を学びイデアへの認識へとつながるというのです。

わたしたちはいずれ年を重ねることで肉体的な美は失われていきます。しかしイデアを理解すれば永遠に精神的なつながりを保ち続けることができるのです。これが「恋愛は(イデアを認識するための)修行」という意味なのです。プラトンの師匠ソクラテスの妻クサンティッペは世界三大悪妻の1人に認定されています。ソクラテスは友人に「悪い妻をもてば哲学者になれる」と言っていたそうです。哲学者になるためにわざわざとんでもない人を選ぶ必要はないと思いますが、ぜひ恋愛を通してイデアの追及をしてみてはいかがでしょうか。ちなみにプラトニック・ラブという言葉をよく耳にすることもあるかと思いますが、これはプラトン的なという意味から派生して現代では純潔の愛のように使われています。ソクラテスやプラトンについてさらに詳しく知りたい方はこちらの記事をごらんください。

3 パリピ 対 ゼノン

「楽しいことだけしていればいい」というパリピな人がまわりにいますよね。これに対してヘレニズム時代のストア派の哲学者ゼノンは「欲望に振り回されないように生きる」ことが大切であると考えました。ゼノンを始祖とするストア派というは現代のストイックの語源にもなっています。ストア派の哲学では「理性の力で欲望をおさえる」という禁欲主義が唱えられました。パリピの皆さんは「人生なんて楽しければそれでいい」と思っている人がほとんどですよね。しかしゼノンは「楽な方へ流れてばかりでは困難な状況に耐えられなくなる」と言いました。たとえば楽しいことばかりを求めていると、それが満たされないときに病んでしまうことがないでしょうか。歳をとれば健康に支障が出て好きなことができなくなったり友達がへったりしまよね?そうなったときにそれでも「楽しければいい」と本気で思えるでしょうか?欲望のまま生きることはその欲望によって人生が振り回されてしまうことと同じなのです。

そこでストア派では欲望などの情念から解放された状態である「心の平静(アパテイア)」に到達することを目指すのです。でも苦しいことをがまんしても結局そのままだとするなら苦しいだけ損だと思いますよね。それはただの心配性なだけであり深刻に考えてばかりいることの方がむしろストレスであり不健康だと考えることもできるはずです。ゼノンはネガティブに生きるべきであると言いたいわけではないのです。そうではなく「欲望のままに生きる」ことをやめるべきであると言ったのです。欲望があるからこそ苦しいこともがんばれるという考え方もあるかもしれませんが、欲望を心の拠り所にするとそれが満たされるかどうかで精神状態が決まってしまいます。だからこそわたしたちは「魂のよさ」だけを気にしていればよいのです。それ以外のあらゆる欲望(富や名声など)は無視するようにするのです。

そんなの全然おもしろくない人生だとパリピの人は言うでしょう。しかしゼノンは「自然にしたがって生きる」ことで苦しみをなくすことができるといいます。ここでいう「自然とは宇宙の原理のことでありそれは「理性」と言い換えることができます。つまり理性によって欲望を抑えることでアパテイアに到達しようとするのです。理性で欲望をおさえるなんていうとパリピでなくてもちょっと難しそうな気がします。しかしこんな状態をちょっと想像してみてください。お金持ちであるとかモテるとか名誉があるとか…そんなことに一切振り回されない状態、これこそがある意味でもっとも充実した状態であると考えることはできないでしょうか?

実はドイツ観念論の哲学者カントも同じようなことを主張していました。カントは欲望に任せて好き勝手に行動するのではなく、理性のはたらきによって道徳法則に従って生きることこそが自由であると考えたのです。カントは人間には傾向性(習慣的な感覚的欲望)があると考えました。満たされないものがあるためにいけないとわかっていることに興味をもってしまうことは誰にでもありそれは傾向性のなせることだといえます。しかしそれがよくないことだとわかって踏みとどまることができる人がいるように、理性によって自分の行動を決定することもまた人間にはできるのです。それは人間が自分の中にある良心の声(道徳法則)を聞き取ることができる存在であり、一時の傾向性に流されたとしても理性によって行動を改めることもまたできる存在である。カントはこのように考えたのです。あなたが良心に従い道徳法則を守ることでえられる尊さは、欲望に流されてえられる一時の快楽(と後ろめたさ)をきっと上回るものであり、これこそが人間としての尊厳であるという曇りなき清々しさなのです。

ゼノンの哲学もカントの哲学も誰にでもできることではないことはたしかです。本書の中でもゼノンとパリピのディベート対決の結果は「引き分け」になっていました。だから最後に功利主義のJ・S・ミルの言葉もここにそえておきます。ミルは「人間は低級な人間と高級な人間の2種類がいる」と主張したうえで「低級な人間は低級な快楽しか選ばないが、高級な人間は両方の快楽を理解したうえで必ず高級な快楽を選ぶ」と指摘したのです。つまり頭のいい人はバカになろうと思わないし良心的な人は利己的にはならないのです。またミルの有名な言葉として「満足した豚であるよりも不満足な人間の方がよく

満足した愚か者であるよりも不満足なソクラテスの方がよい」というものもあります。あなたが「太った豚であるよりも痩せたソクラテス」であることを望むのであれば、ぜひゼノンの哲学を少しでも実践してみることをおすすめします。ゼノンについてさらに詳しく知りたい方はこちらの記事をごらんください。

4 親ガチャ 対 サルトル

スマホゲームの流行と重なるように「親ガチャ」という言葉が流行り出しました。これは子ども側から「親ガチャに外れた」のように使われることが多く「遺伝的要因(生まれ)」だけでなく「環境的要因(育ち)」についても語られています。「親ガチャ」に当たれば子どもの頃から学力格差や体験格差で有利になることができ、東京の私立大学に通ってそのまま一流企業へ就職することもできるいっぽうで「親ガチャ」に外れたら人生が詰んでしまう状況の人もいることが問題になっています。結局わたしたちの人生は「親ガチャ」ですべてが決まってしまうのでしょうか?

これに対して実存主義の哲学者サルトルは「人間はみんなそれぞれ独自の生き方を選ぶことができる」と主張します。現代では貧困家庭ほど進学率が下がっていくというデータも出ています。仮に努力をして大学に進学することができたとしてもそこにも格差は続いています。授業料を払うためにバイトに明け暮れなければならなかったり、卒業しても奨学金の返済に苦しみ続けるというニュースをたくさん目にします。これでは「親ガチャ」の当たり外れで人生が決まってしまうと考えるのも無理ないように思えます。しかしサルトルは「実存は本質に先立つ」と言って、人間は自己の主体的な選択と決断によって生きるべきであると考えました。

たとえばナイフには切るという本質があってそのために存在しています(即自存在)。しかし人間はまず存在していてそこから何者かになっていくのであり、自分の本質(役割)は自分で自由に決めることができるのです(対自存在)。ということは生まれてこの世界に投げ出された瞬間はまだ何者でもない「無」であり、それはつまり何に対しても「自由」であるということなのです。サルトルはその状態からいろいろな「責任」が課せられるのが人生なのですが、それにどのように向き合っていくのかを自分で決めることが大切だと考えました。もし「親ガチャ」に外れることでスタートから遅れることがあったとしても、その後の「学校ガチャ」「友だちガチャ」などもすべてガチャだと考えることができます。「親ガチャ」に当たったとしても「自然災害ガチャ」に外れてしまうこともあれば、「親ガチャ」に外れたとしても「友だちガチャ」に恵まれることもあるはずです。このように考えると人生のあらゆる出来事はすべてガチャであり、全てのガチャに当たり続けなければ人生を幸福に送ることができないと思うこと自体がそもそも不幸の原因なのではないでしょうか?たしかに社会問題としての格差を是正することは必要だと思います。しかしあなた個人がどのように考えどのように生きるのかはあなた自身の問題です。

サルトルの有名な言葉に「人間は自由の刑に処されている」というものがあります。これは人間が自由であるがゆえに孤独であり、自由であるがゆえに責任をもたなくてはいけないという意味です。サルトルの考える責任とは積極的に社会に参加すること(アンガージュマン)のことです。人間はどんな状況でも主体的に社会参加して社会を作っていくべきであると考えたのです。ちなみにサルトル自身も生まれた時点では多くのガチャに外れた人生を送りました。生まれて間もなくして父親を病気でなくし3歳で右目をほぼ失明することにもなりました。背が低くギョロ目でおまけに強度の斜視という外見的コンプレックスも抱えていました。にもかかわらず「モテたい」という思いだけは誰よりも強く、学内で美少女に告白するも幾度となく拒絶される経験を重ねたと言われています。それでもサルトルは次のように言います「持って生まれたものなんてどうでもいい」「これからなろうとするがまだなれていないものになりうるということだけが重要なのだ」。そして外見的コンプレックスを抱えるモテない少年ではなく、フランス哲学界をリードする知的エリートとして生まれ変わることができたのです。さらに大学内でも美人と評判のポーヴォワールという女性と契約結婚をしたり、晩年には多くの愛人にも恵まれる生活を謳歌したりすることができたのです。

たしかに「親ガチャ」の影響は大きくその後の人生を決めるほどのインパクトもあります。しかし「親ガチャ」に限らず人生は毎日がいろいろなガチャの連続です。社会の中で生きていく以上は自由だけを手にして責任を放棄することはできません。ニーチェのように無意味だからこそ「これでよし」と受け止めて、プラトンのように「魂の修行」を通して究極の善を認識することやゼノンのようにアパテイアに到達することを目的にしてみるのはいかがでしょうか?哲学はちょっとがんばろうとするあなたの背中を押してくれるきっかけになってくれます。サルトルについてさらに詳しく知りたい方はぜひこちらの記事をごらんください。

5 ひろゆき 対 哲学者

本書のさいごには協力者のひろゆきさん本人が登場して哲学者とディベート対決をします。お題は「論破することはいけないこと?」です。論破といえばひろゆきさんのことを論破王と思う人も多いのではないですか?実は本人は論破王と自称したこともなければ「はい、論破」と言ったこともないそうです。しかし実際に相手を論破する様子が話題になってそのようなイメージがついたようです。

ところで相手を論破するためには個人の感想よりもデータが重視される傾向になります。うっかり感想を述べようものなら「それってあなたの…」と言われてしまうことも(ちなみに「それってあなたの…」も1回しか言ったことはないそうですが)。しかし「個人の感想」が大切な場面だってあるのではないでしょうか?「労働者の給料をあげてほしい」と言ってもデータを示して難しいで終わってしまう。現実にその仕事をしていて生活に苦しんでいる人がいるにもかかわらず…です。これに対してひろゆきさんは「感想のあとにデータも示せばよい」と言います。この職業ではこういう原因で給料をあげることは難しいと言っても、「その仕事を軽視しているのか?」と怒り出しちゃう人がいるから困るんですよね。これではいつまでたっても問題を解決する話し合いが進まなくなっちゃうのです。だからといって論破ばかりすることを目的にすると口がうまいだけの人が出てきます。

古代ギリシアでもソフィストたちが相手を論破することばかり説いて回っていて、その結果として社会が退廃してしまったともいわれているのです。現代でも相手を論破ばかりしている人とはちょっと関わりたくないんじゃありませんか?しかし意外にもひろゆきさんは実生活でわざわざ論破なんてするもんじゃないと言います。ではどういう時に論破するテクニックが必要なのかといえば、「筋違いなことを延々と話す人」や「ウソをついてだまそうとする人」の場合です。この人が会議で話すと時間のムダと感じる時や、ウソつきにだまされないようにするためにはやはり相手を論破する必要があるのです。

ちなみにひろゆきさんはここで「優秀なセラピストはどんな人?」と質問します。その回答は「お客さんが気づかないうちに処置がおわっていて、はじめから問題など何もなかったかのように思わせることができる人」なのだそうです。つまり議論も同じで自分がもっていきたい方に情報や判断基準をこっそり提示するのです。そしてあたかも相手が自分でその結論に気づいたと思わせることが一流といえるのです。その意味ではわざわざ論破しようとするのは二流のすることと意外にも言っています。ひろゆきさんと哲学者のディベートはもう少し続くのですが、その結論はぜひ本書を手に取ってご確認ください。

6 まとめ

今回は「現代人のモヤモヤを解決する哲学」について考えてきました。動画の中では紹介することができなかったこともまだまだありますので、ぜひ本書を手に取って教養としての哲学をふかめていってください。

「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。「人間は思考することをやめてしまえば誰もがナチスのような巨悪になりうる」、公共哲学の哲学者ハンナ・アーレントはこのように言いました。これからも「哲学」のおもしろさを発信していきますので、ぜひゼロから一緒に学んでいきましょう。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。

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