仕事の悩みは哲学で!

哲学×悩み

今回は、哲学初心者のわたしと一緒に「仕事の悩みを解決する哲学」を探求する旅に出かけましょう。哲学って、少し難しそうに感じるかもしれませんが、実は日常生活の中にも深く関わっているのですよ。一緒に考え、問いに答え、新しい視点を見つけることで、哲学は驚くほど身近に感じられるようになるのです。この旅が終わる頃には、現代社会にはびこる生き辛さの正体を知るためのヒントをきっと見つけることができるでしょう。

【哲学×仕事の悩み】仕事の悩みは哲学者がすでに答えを出していた!?

実は今から約3800年前の古バビロニア時代に書かれた石板にはこんなことが書かれていたそうなのです。

「お店の人に良い銅の棒を渡すからと約束されてお金を払ったのに全然よくないものを渡されてしまったから文句を言いに行ったらほしいならあげるけどいらないなら帰ってくださいって言われた…あいつ他の客にもこんなひどいことしているのか!?」

歴史的に価値のある発見があるのかと思ったらなんと詐欺にあったことに対するただの愚痴だったのです。紀元前に生きていた人々も現代人である私たちも人間はいつの時代であっても同じような悩みをもっていたことがわかります。このような悩みに真っ向から挑み思考することによってその解決の糸口を見出してきたのが哲学者たちなのです。だからこそ哲学者たちがその答えに至ったプロセスを知ることで新しいものの見方や考え方をもつことができるようになるはずです。この記事を見終わる頃には「哲学っておもしろい」「哲学で悩みが解決された」と哲学に興味をもってくれるようになることでしょう。

1 評価に不満

仕事で大きな成果を出しているのに同僚や上司から「自分は正当な評価を受けていない」と思うことはありますよね?そんな時はぜひヘレニズム時代の哲学者エピクテトスの哲学を学んでみてください。

ヘレニズム時代の哲学者エピクテトスは奴隷出身でありながら心の中で真の自由を見出す方法を提唱したストア派の哲学者です。ストアというのはポリスの彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で講義を行ったことが由来でありストイック(自分を厳しく律するや禁欲的)の語源となりました。キティオン出身のゼノンが創始者と言われており「耳は二つ持っているのに口は一つしか持たないのはより多くのことを聞いて話す方はより少なくするためなのだ」という言葉が有名です。ストア派の哲学では「物事の本質とは我々の意志と態度にある」とされ理性によって情動を支配することで「心の平安(アパテイア)」を目指し苦痛から解放されるということを目的としました。

そこでエピクテトスはコントロールできるものとできないものを区別した上で外部の状況に左右されず心の自由を追求することが重要であるという考えのもと「物事自体ではなく物事に対する考え方が苦しむ原因である」と言いました。これは私たちの考え方において物事をどのように捉えるかこそがカギであり考え方を変えることで現実とより建設的に向き合い困難な状況を乗り越えることができるようになるという意味です。つまり「評価が低い」ことが問題なのではなく「評価が低いことが不満」と捉える考え方こそがあなたを苦しめている原因なのです。「評価が低い」ことを同僚や上司のせいにして責任転嫁したり妬んだりすることに無駄な時間を費やすくらいならば仕事に対してこれまで以上に真摯に向き合ってみることが大切なのかもしれません。

エピクテトスはこうも言っています。「出来事に対する積極的な考え方を通じて私たちは自分の人生に責任を持つことができ外部の出来事がどれほど変わろうとも心の自由は我々がどのように考え受け入れるかによって決まる」と。あなたに対する評価の仕方についてはコントロールできなくてもあなた自身の仕事の仕方についてはコントロールすることができるはずです。評価を気にして心を乱されながら仕事をするのではなく自分のやるべきことに責任をもって真っすぐに向き合うことができればおのずといつかあなたのことを正しく評価してくれる人が現れることでしょう。

①内面の平和(心を安定させて物事に対する穏やかな態度をもつこと)

②自己制御と主体性(コントロールできることに真っすぐに向き合うこと)

③柔軟性(人生の中で遭遇する様々な変化に適応すること)

④他者への理解(相手を理解して寛容することで豊かな人間関係を築くこと)

このようなエピクテトスの哲学を実践することができればきっと幸福な人生に近づくことができるでしょう。ヘレニズム時代の哲学についてもっと詳しく知りたいと思ったらぜひこちらの記事をご覧ください。

2 上司がウザい

心を乱されることなく仕事に真摯に取り組んでいたとしても職場の上司からセクハラ発言をされたり責任を押しつけられたりした時には「上司がウザい」と思うことがありますよね?そんな時はぜひ大陸合理論の哲学者バールーフ・デ・スピノザの哲学を学んでみてください。

スピノザはユダヤ人の商人の家に生まれたオランダの哲学者です。自由な宗教観を持ちユダヤ教の共同体から破門されることになり狂信的なユダヤ人からは暗殺されそうにもなりました。そんなスピノザは著書『エチカ』の中で徹底的な演繹の試みによる思索を重ねた哲学者なのです。そもそも大陸合理論の祖はフランスの哲学者ルネ・デカルトです。

デカルトは学問をするための「進め方」を再検証してそれまでの哲学をリセットしてもう一度0から考えてみることを提案しました。そしてそのためには考えるルールが必要であるとして数学的な考え方をもとに4つの原則を提示しました。

①明証 私が真理であると認めなければいかなる事柄も真と認めないこと

②分析 検証しようとする問題を理解するためにいくつかの部分に分割すること

③総合 最も単純なものから考え始めて複雑なものへと至ること

④枚挙 何1つ見落としていないか再検討すること

このように推論していく方法を演繹法といいます。演繹法とは1つの真実から複数の事実を導き出す推論方法であるためデカルトは4つの原則の中でも①を最も重視しました。なぜなら演繹法においては推論の段階で前提となる命題にあやまりがあった場合その後に提示される理論はすべてあやまりであることになってしまいます。そのため全ての始まりに当たる公理は誰もが真理であると認めることのできる

絶対的なものでなければいけません。そこで導き出されたのが哲学史上で最も有名な「我思う、故に我あり」という命題です。演繹法について詳しく知りたい方はこちらの記事もご覧ください。

同じようにスピノザが理性によって考え出した確実な真理は「すべてが神の意志によって神のうちに必然的におこっている」ことを認識するというものでした。これを「事物を“永遠の相のもとに”観想する」といいます。まず前提として「神は無限の存在である」ということを当時はみんなが信じていました。そして無限な存在であるならば有限ではない(なぜなら有限とは限界がある)ことになり、有限でないならばそれらをわけることはできないはずである(わけることができたら有限になってしまうため)と考えるのです。ということは「神である」ところと「神でない」ところをわけることはできないはずであるので神の外部というものは存在せず全ては神の内部にあり、神がすべてを包み込んでいるはずであるとスピノザは演繹的に考えたのです。つまり人も自然もすべてのものが神のあらわれであるということです。これを「神即自然」といいスピノザの思想を「汎神論」といいます。

そのうえでスピノザは「自由意志はない」として

①自由意志はないのだから何かあってもその行為の原因をその人に求めることはできない

②すべては神にとって必然性の一部であり全てを肯定して全てを赦すことしかできない

③すべてを肯定して全てを赦すことができたら人は神を愛することができ神からも愛されると考えたのです。

上司が自分の意志でセクハラ発言をしたり責任を押しつけたりしてくるとあなたは思いますか?

いいえ、そうではないのです。スピノザの言うように「すべては必然の一部」であることからそのような残念な上司がいることもまた必然の一部なのです。だからその原因をその人に求めることはできないのです。そこであなたにできることはただ1つ、全てを肯定して全てを赦すことだけなのです。どうでしょう?これまでとちょっとちがった目であなたは上司を見ることができるようになったのではありませんか?そんな無茶苦茶な…と思うかもしれませんがここにスピノザが「歴史上もっとも過激な思想家」といわれる所以があるのです。大陸合理論の哲学についてもっと詳しく知りたいと思ったらぜひこちらの記事をご覧ください。

3 働きたくない

そんな無能な上司のことも肯定しようと真摯に仕事に取り組んでいたある日自分が何のために働いているのかわからなくなった時には「もう働きたくない」と思うことがありますよね?そんな時はぜひ三大幸福論の哲学者アランの哲学を学んでみてください。

三大幸福論とは3つの『幸福論』の著者ヒルティ・アラン・ラッセルの3人が著したそれぞれの『幸福論』をあわせた総称のことです。ヒルティの幸福論は三大幸福論の中でも宗教色が強く文章が長いので敬遠されがちなものとなりますが幸福をえるためにはどうすればよいのかという問いを解決するための

さまざまな具体的方法を提示してくれる実践的な幸福論といえます。ラッセルの幸福論は三大幸福論の中でも論理的かつ現実的そして無神論的なものであるため私たちにとっても理解しやすいものとなっています。そして今回ご紹介するアランの幸福論は新聞社に寄稿していた「プロポ(哲学断章)」の中から「幸福」に関して言及されているものを再編したものです。そのため詩的なものとなっておりフランス散文の最高傑作と評されています。

アラン(1868年~1951年)はペンネームであり本名エミール=オーギュスト・シャルティエというフランスの哲学者です。アランはものごとを体系化することをきらっていたので理路整然としたものではない「断章」という形をとる表現にこだわったと言われています。アランはものごとを体系化することをきらっていたので理路整然としたものではない「断章」という形をとる表現にこだわったと言われています。古代ギリシアのソクラテスや東洋の釈迦なども同じでした。ソクラテスは理論が硬直化されることを避けるために対話の中で生まれる結論を大切にしました。釈迦はその思想を体系化するのではなく「悟り」に至る道筋をたとえ話などを用いて語るのみでした。アランの弟子である評論家アンドレ・モーロウは著作の中でアランのことを「現代のソクラテス」と評価しています。

アランの幸福論の前提には悲観主義つまり「人生とはもともとつらいものである」と考えたのです。しかし「人生はつらいものであるからこそ上機嫌に捉えることが大切である」と言いました。これは「苦痛な人生をどのように自分が捉えるのか」という心のもちよう次第だと主張したエピクテトスも同じことを唱えていた通りです。

アランは「悲観主義は気分であり楽観主義は意志」と説きました。私たちは気分(受動的な状態)で過ごしていると悲観主義になりそうするとどうしても不機嫌な気もちをもつようになってしまうのです。だからこそ意志(能動的な状態)をもって不機嫌から無関心でいることを重視したのです。アランの考える幸福になるための唯一の方法は無関心を保つための意志をもつことができるようになることなのです。アランはネガティブな状態(失敗・挫折・後悔・嫉妬など)を否定するのではなくそれらを肯定してもなおポジティブに生きられる意志こそが大切であるとしたのです。そうすることでネガティブな状態からもたらされる不機嫌に無関心でいられるのです。

このように考えた時アランは仕事の重要性を説きました。アランは人生が暇だと不機嫌に関心をもちやすく不幸になってしまうと考え人生はやりがいのある仕事に就いて忙しいくらいにしている方がよいとしたのです。人生を暇ではない状態にするための最も妥当な方法が「仕事」であると指摘したのです。

たしかに今は「もう働きたくない」と思うことがあるかもしれません。しかし人生が暇になれば結局そこでまた不機嫌に関心をもってしまうのです。仕事にやりがいを見出して不機嫌に対する無関心を貫く意志を手に入れてみてください。アランの最も有名な名言「人は幸せだから笑うのではない笑うから幸せなのだ」という言葉をぜひ覚えておいてください。三大幸福論についてもっと詳しく知りたいと思ったらぜひこちらの記事をご覧ください。

4 会社を辞めたい

今の会社にいてはいつまでたってもやりがいのある仕事につくことができないと思った時には「もう会社を辞めたい」と思うことがありますよね?そんな時はぜひポスト構造主義の哲学者ジル・ドゥルーズの哲学を学んでみてください。

構造主義とは「人間は何らかの社会構造に支配されており決して自由に物事を判断しているわけではない」という考え方のことです。つまり「人間がどう考えるかはその人が生きる社会のシステムによって

無意識に形づくられてしまっている」ということなのです。ポストというのは構造主義の「あとの」という意味であり「人間は構造に支配されている」という部分については同意していながらも構造主義を完全に乗り越えられていないという意味がこめられています。

ジル・ドゥルーズは「ノマド」という生き方を提唱したフランスの哲学者です精神分析家フェリックス・ガタリと共に「ドゥルーズ&ガタリ」としてもいくつかの著作を残しています。ドゥルーズは「ものごとの関係には体系的な仕組みが存在している」という西洋的な思考を批判してその体系から外れるものが排除されてしまう危険があると指摘したのです。ドゥルーズはそもそもものごとには明確な秩序など存在していないと考えました。西洋的な体系化された思考方法のことを「ツリー」といい、ドゥルーズのような思考方法を「リゾーム」といいます。

そのうえで「世界は欲望によって形成されている」と考えました。私たちも本来は欲望のままに生きていく存在であるはずなのですが構造に抑圧されることによって型におしこめられていると指摘したのです。この型のことを「アイデンティティ」とよび無意識に形作られたアイデンティティによって縛られながら生きることになってしまうのです。このような状態のことを「パラノイア(偏執症)」といいます。一方アイデンティティに縛られることなく欲望のままに生きる存在のことを「スキゾフレニア(分裂症)」といいます。スキゾフレニアはリゾーム的な思考のもとで自分の欲望のまま生きるだけではなく他者の価値観をも受け入れることができます。ドゥルーズはこのような生き方こそが大切であると考えスキゾ的な生き方の理想形を「ノマド(遊牧民)」としました。

ポスト構造主義にはドゥルーズの他にジャック・デリダという哲学者もいます。デリダの哲学は「脱構築」(≒解釈しなおすこと)です。それまでの哲学は二項対立によってものごとを考えていました。しかし「善と悪」「真と偽」「男と女」「精神と身体」「正常と異常」などの二項対立には必ず優劣や勝ち負けが決められており前者が優れており後者は劣っているというように考えられた結果ものごとが階層やヒエラルキーの中に位置づけられてしまうことで権力とむすびつきやすくなるという危険性をデリダは指摘しました。脱構築とは二項対立の前後をいれかえるという意味ではありません。二項対立の全てを否定するのではなく白か黒かに分類されないあいまいな部分についてもっとしっかり考えなければいけないという意味なのです。そのためデリダの哲学は「決定不可能性の哲学」ともいえます。時に真実が相手を傷つけてしまうこともあればやさしいウソが相手をなぐさめてくれるということがあるように二項対立による優劣をつける(=価値判断をする)のではなく判断を保留する(価値は絶対的でもなければ永続的なものでもない)ことが大切であるとデリダは考えたのです。

あなたがもし今の会社で働き続けることを義務のように感じているのではあれば「ノマド」的な生き方を模索してみてはどうでしょうか?「正社員と非正規」という二項対立のもと正社員が優れていて非正規が劣っているという価値判断を脱構築してみてください。西洋的な価値観のもとで無意識に形成されたアイデンティティに縛られるのではなくあなたは欲望のままに生きてみることだってできるのです。そんな自分勝手な生き方はよくない」と言われるかもしれません。しかしドゥルーズは「ノマドは定住地がないためあらゆる場所で偏見なくそれぞれの価値観を受け入れることができる」と言っています。新しい場所で新しい出会いによって自分のアイデンティティを取り戻してください。ポスト構造主義の哲学についてもっと詳しく知りたいと思ったらぜひこちらの記事をご覧ください。

5 まとめ

いつの時代でも私たちは生きていくうえで同じような悩みを抱えています。だからこそ今よりも一歩でも豊かな人生を歩んでいけるようにこれからも哲学を一緒に学んでいきましょう。「評価に不満」があるならばストア派のエピクテトスの哲学が、「上司がウザい」ならば大陸合理論のスピノザの哲学が、「働きたくない」ならば三大幸福論のアランの哲学が、そして「会社を辞めたい」ならばポスト構造主義のドゥルーズの哲学があなたの悩みを解決してくれるヒントになるかもしれません。

「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。これからも哲学の実践的な活用方法について紹介していく予定ですのでぜひご期待ください。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。

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