〇〇主義とは何か?(『君たちはどの主義で生きるか?』より)

哲学入門

今回は「〇〇主義とは何か?」を探求する旅に出かけましょう。哲学って、少し難しそうに感じるかもしれませんが、実は日常生活の中にも深く関わっているのですよ。一緒に考え、問いに答え、新しい視点を見つけることで、哲学は驚くほど身近に感じられるようになるのです。この旅が終わる頃には、現代社会にはびこる生き辛さの正体を知るためのヒントをきっと見つけることができるでしょう。

【君たちはどの主義で生きるか?】いろいろな主義を理解できれば世界が見え方が変わる!?

私たちが参加させられている令和の人生ゲームはハードモードしか選ぶことはできません。橘玲さんも著書『無理ゲー社会』の中で「社会的・経済的に成功し評判と性愛を獲得する」という困難なゲーム(無理ゲー)をたった1人で攻略しなければならないと指摘しています。

まさに才能あるものにとってはユートピアであっても、それ以外にとってはディストピアという状況を攻略するための必須アイテムこそが2500年ものあいだ思考し続けてきた哲学者たちが残した「主義」や「思想」なのです。紀元前の人たちも「どのように生きるべきか」という私たちと同じ悩みをかかえていました。この記事を最後までごらん頂ければあなたがどんな「主義」や「思想」を選べばいいのか?またどんな「主義」や「思想」を選んではいけないのか?がきっとわかると思います。

1 相対主義と絶対主義

今からおよそ2500年前の古代ギリシアにおいて2つの哲学思想が誕生しました。それが「相対主義」と「絶対主義」です。まず相対主義とは「価値観は人それぞれ」という考え方のことであり、その代表的な哲学者プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言いました。つぎに絶対主義とは「絶対的に正しいものが存在する」という考え方のことであり、その代表的な哲学者こそがかの有名なソクラテスなのです。当時のギリシアでは「みんなそれぞれだよね」という相対主義が流行していたのですが、そこでソクラテスは「絶対的な正しさは必ずある」として「善く生きよ」と説いたのです。哲学の歴史ではこの2つを交互に行ったり来たりしながら発展していくのですが、ある時から絶対主義の思想は見られなくなり現代では相対主義の思想が隆盛を極めています。その理由はいくつかありますが「絶対」を求めた結果こそが凄惨な歴史の数々なのです。あの宗教を信じるものとあの宗教を信じるものによる争いも、あの正義を信じる国とあの正義を信じる国による争いも「我こそが絶対」の結果なのです。現代社会では宗教や価値観もさまざまなのでさいごは「どっちもいいよね」となるのです。まさに金子みすゞさんの「みんなちがって、みんないい」です。ちなみにこの詩は小学校3年生の国語の教科書に載っているので、小学生はそうと知らずして相対主義を学んでいることになるんですよね。

では相対主義こそが理想の主義であるといえるかといえば…そうとも限りません。古代ギリシアでも相対主義に振れすぎた結果として倫理が崩壊してしまったのです。「みんなちがって、みんないい」からと言ってなんでもありというわけではないのです。たとえば「人類も巨人もみんなちがってみんないい」「海賊も世界政府も天竜人もみんなちがってみんないい」と言ってみんなが仲良くしているだけの物語だったら誰も興味ありませんよね?またビジネスの場面で「あの企業とコラボしたいんですけど…」となった時に「あの企業もあの企業もみんなちがってみんないい」と言っていたら倒産してしまいます。もちろん「正しさ」を決めることは簡単ではありませんが、「正しい」と思えることを決断しなければいけない場面も必ずあるはずです。現実の世界では相対主義にもとづいてできる限り対立したり干渉したりすることなく、自分が「正しい」と思えるような生き方を選べるようにしていきたいですね。

2 資本主義と共産主義

資本主義とは「誰でも土地や工場や機械や人材などの生産手段(資本)をつかって誰でも自由に商売(お金もうけ)をすることが許されている制度」のことです。自由に競争することが許されているのでお互いに切磋琢磨することで、結果として(淘汰されるものが出たとしても)全体が発展していくことが期待できます。イギリスの哲学者アダム・スミスは著書『国富論』の中で「各個人が自己の利益を追求すれば結果として社会全体に適切な資源配分がなされる」と言って自由放任主義(レッセ・フェール)を重視しました。市場において自由な競争の結果として需要と供給が自然とある地点におさまることを「神の見えざる手」がはたらいていると表現しました。

このような資本主義に断固として反対したのがドイツの哲学者カール・マルクスであり「資本家は利益のために労働者を酷使させる悪の存在である」と考えていました。そして「万国の労働者よ、団結せよ」と言い共産主義の思想を提唱しました。共産主義と似た意味の言葉に社会主義があります。まず共産主義は資本や財産をみんなで共有する平等な社会体制のことです。一方で社会主義は資本を国が管理して平等にする社会体制のことです。つまり社会主義は共産主義を実現するための前段階という考え方のことであり、共産主義とは社会主義の理想形と捉えることができると思います。ここではどちらも同じ意味のこととして解釈して以後は共産主義に統一することにします。

共産主義のかかげる正義は「平等」です。「万学の祖」といわれる古代ギリシアのアリストテレスも

「正義とは平等が実現されている状態のことである」と言っています。ドラえもんは秘密道具をつかってのび太の友人関係に平等をはかろうとしています。水戸黄門は悪徳商人や代官などの特権階級に印籠をつかって懲らしめるようにしています。私たちは子どもの頃から「平等」の大切さを実感してきたことでしょう。(のび太だけ秘密道具を持っている黄門様が良い家柄に生まれたという不平等は無視…)

資本主義は自由競争の結果として貧富の差が拡大して勝ち組と負け組が明確になります。労働者はいつまでも搾取され続ける状態から抜け出すことはできないことから、マルクスの共産主義の思想は一気に世界中に広がりました。しかし世の中を見渡してみると今ではほとんど共産主義を信じる国は見当たりません。それは共産主義には大きな問題点があったからです。たとえばスポーツチームに共産主義の思想を採用した場合を例に考えてみましょう。メンバーは誰もが平等に試合に出ることができることを約束されているのです。誰もが試合に出ることができるのでライバルのことを妬むことがなくなりますし、監督やコーチから「試合に出られないぞ」と脅されるようなこともなくなるでしょう。またあのアイドルグループに共産主義のシステムを採用していたらどうなるでしょうか?曲や出演番組によって全メンバーをローテーションさせるようにするのです。人気投票のようなシステムがなくなればグループ内の格差はなくなりますし、センターの重圧に耐えられず心を病んでしまうような事例もなくなることでしょう。このように考えると共産主義のシステムはみんなが幸せになれる最良の手段に思えます。だからこそある時期に社会主義革命の嵐が一気に世界中に広がったのです。

しかしそのあとどんなことが起こったのかも想像してみてください。スポーツチームでは誰もが試合に出られるので真剣に努力する人はいなくなります。アイドルグループでも「選抜に入る」というモチベーションが失われていきます。なぜなら「やってもやらなくても結果が同じ」だからです。人間はこのような状態になると必ず手を抜くようになり、集団の中にいると無意識に力をセーブすることを「社会的手抜き」と言います。その理由は①全体の成果に大きく影響するわけではないから、②集団として評価されるならば自分だけが努力しても期待される報酬が得られない、③他者の存在を意識することで集中力などがにぶくなる、④傍観者効果によって一人一人の責任感がうすれていくなどの要因が考えられます。果として先の例であるスポーツチームもアイドルグループもパフォーマンスはどんどん下がっていき、いずれは敗退もしくは解散ということになるのは明らかです。共産主義は資本主義を排除することで理想の世の中を実現できると考えたのですが、実はその資本主義こそが社会を大きく発展させる原動力となっていたのです。

もちろん資本主義にも大きな問題点はあります。トマ・ピケティは著書『21世紀の資本』において「r>g」という不等式を示しました。rは資本収益率のことでありgは経済成長率のことです。つまり労働でえる賃金よりも株式などに投資をしてえる収入の方が大きいということです。そのため「資本主義の富の不均衡は放置していても解決せず格差は拡大する」と言いました。

世界の超富裕層1%が占める資産の割合は全体の約40%であり、世界の貧苦層50%が占める資産の割合はなんとたったの2%しかないのです。さすがにこのような不平等が本当に認められるとは誰も思わないですよね?資本主義と共産主義がそれぞれ標榜する正義は「自由」と「平等」です。自由を正義とするのが「自由主義」であり平等を正義とするのが「功利主義」です。つまり資本主義と共産主義は「自由の正義」と「平等の正義」による対立でもあるのです。これについてはこちらの記事で詳しく解説していますのでぜひご覧ください。

3 民主主義とポピュリズム

民主主義とは「民を主とする政治の仕組み」のことです。つまり何かを決めるときに王や一部の支配者が独断で決めるのではなく、みんなで考えて決めることができる権利がみんなに等しく保障されているのです。その起源は「相対主義」が登場した2500年前の古代ギリシアまでさかのぼります。そもそも古代ギリシアで民主主義が発達したことがきっかけで、討論のための技術となる相対主義も発展したという経緯があります。現代ではあの国やあの国のような共産主義(独裁国家)をのぞけば、ほとんどの国家が民主主義を採用しているのでこれこそが最善のシステムと思いますよね。しかし民主主義には大きな問題点がふくまれているのです。

イギリスの首相をつとめたウインストン・チャーチルは次のように言いました。「民主主義は最悪の政治システムである。ただし他のあらゆる方法を除けばだが」。また万学の祖と言われたアリストテレスも「民主制は国を退廃させる制度である」と言いました。余談ですがチャーチルの民主主義の言葉を最高の誉め言葉と解釈して好きな人に対して「お前は最悪の女性(男性)だ!ただしほかのすべての女性(男性)を除けばだが」なんて言ってみた日には確実に喧嘩になること間違いなしですのでやめておきましょう。

民主主義の問題点は「多数決」という特性から「ポピュリズム」に陥ってしまうことです。アリストテレスは「君主制や貴族政治の方がいい」と露骨に言っていますし、師匠であるプラトンは「哲人王が政治をすることが理想」とも述べています。たとえばノーベル賞や芥川賞などを選ぶ時に民主制で決める方がいいと思いますか?ノーベル賞はスウェーデンの王立科学アカデミーで専門家が協議をして決めています。芥川賞も歴代の選考委員は川端康成や村上龍さんのような大作家が務めています。つまり選ぶ側がその業界に精通している人たちだからこそ適切な選考ができているのです。ところが政治に関してはほぼすべての人たちが政治の素人であり、「政治について素人の投票によって代表者を決める」ということになっているのです。ノーベル賞や芥川賞を決める時に読者の評価レビューで決めたらどうなるでしょうか?それならそれで一応は関係者による投票なのでまだマシと言えるかもしれませんが、政治に関してはそれよりもっとひどい状況だとも言えます。なぜなら今の日本の政治に関してはノーベル賞で論文の内容を全く理解しておらず、芥川賞でその本を読んだこともないような人が適当に選んでいるのと変わらないからです。有権者の中に立候補者の適否を吟味して投票している人がどれだけいるでしょうか?そもそも投票に行かない人が半分もいて本当に有効なシステムだと言えるのでしょうか?たとえば自民党の得票率は20%くらいなので5人に1人しか賛同している人はいません。それでも彼らは「民意をえた」と言って日本の国政を長年にわたって担ってきました。その結果が増税メガネなんですけどね…。たとえ5人に1人でも選挙でえらばれることに意味があるというのであれば、あのナチスについても肯定するという結論になってしまいます。実はナチスのヒトラーは民主主義における選挙で選ばれたということを知っていますか?「わたしたちが苦しんでいるのはあの民族のせいだ」と言って虐殺しようとしている人を「なんか話し方が上手いよね」「みんなが投票しているからいいかな」くらいの気持ちで選ぶのが多くの国民でありそれが起きてしまうのが民主主義なのです。こんなことがあるのでアリストテレスは「民主主義はいずれ衆愚政治になる」と言いました。衆愚とは「愚かな民衆が政治を担当してとんでもないことになる」という意味です。イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは次のように言っています。「一般労働者の政治に関する知的水準は低いので選挙権を与えるのは危険である」。ちなみにミルは「太った豚よりもやせたソクラテスであれ」の言葉が有名であり「経済力のないものに結婚させるな」「教育をおこたった親には罰金をはらわせろ」のようなかなり上から目線な発言が多い功利主義の哲学者です。

チャーチルもアリストテレスもミルも「庶民には政治的な能力がない」と言っているのです。おいしいレストランの評価をお客さんの評価で判断するのはまだいいかもしれません。でもそのレストランで食べたこともない人たちが評価をしていたらどう思いますか?民主主義で行われている政治というのはまさにこういう状況なのです。だから庶民は「イケメン」「美人」「やさしそう」「握手をした」で投票しちゃうんです。その結果として選挙がただの人気投票のイベントになり政治はポピュリズムに陥るのです。ポピュリズムとは「大衆迎合主義」のことであり大衆の評判を基準に政策を決める思想です。「あれ?この政策はちょっとダメだった?ごめん撤回するわ!」ということです。みなさんもコロナ禍のことを思い出してみれば思いあたる事例がいくつもありますよね?

ちなみにこれは日本の国家予算の割合ですがこれを見て何か気づくことはありませんか?教育に割り当てる予算と比べて福祉に割り当てられる予算があまりに大きすぎるのです。理由はなぜだかわかりますか?答えは日本がどこの国よりも高齢者の多い国だからですただでさえ少ない若者は選挙に行かず多数を占める高麗者が選挙に行く国において選挙で勝ちたいと思ったらどういう政策をすればいいのか…もうわかりますよね?そりゃあアメリカで准教授をしているあの方も「あんなこと」を言っちゃうわけです。

では何かよい方法はないのでしょうか?先ほど紹介したミルはこう言っています。「有能な者には多くの権利を与えたり投票者の能力に応じて票数を変えたりするべき」と。つまり運転免許やTOEICと同じように「選挙権をえるための試験」を行うのです。政治の仕組みや社会情勢(もちろん哲学の素養も?)などについての問題を出題して点数に応じて投票権を付与するようにするのです(もちろん更新制度ありです)。2章で社共産義はやってもやらなくても変わらないから堕落するとお話をしました。選挙権も同じで誰でも平等にあたえられているから選挙制度も形骸化してしまうのです。もし「選挙権」が「TOEICで〇〇点」のようにある種の社会的ステータスになれば、もっとみんなが政治についてがんばって勉強しようと思うはずですよね?中学や高校の公民(政治・経済・倫理)の授業に対するモチベーションもあがるはずです。このようにして「一定以上の政治的な常識をもった民」主主義であれば、この国の政治はもっとよくなるはずであり増税メガネが首相になることもないでしょう。本書の面白いところはこんな炎上しそうな話題が軽妙な語り口調で語られている所です。もちろん日本ではきっと実現不可能な話かもしれませんが「哲学」ってこうやって徹底的に考えるということだと思うのですがどうでしょうか?

4 経験主義と合理主義

わたしたちはものをどのように認識しているのでしょうか?これについて「頭で考えればわかることだ」とする考え方を合理主義といい「ものごとを経験したからわかるのだ」とする考え方を経験主義といいます。合理主義の祖は「我思うゆえに我あり」で有名なフランスのルネ・デカルトです。デカルトは理性による思考でなら確実な知識に至ることができるはずだと考えて「ボン・サンス(良識)はこの世で最も公平に分配されたもの」と言いました。このような「生まれながらの理性や知性をもっている」ことを「生得観念」といいます。いっぽう経験主義では「すべての知性や理性は経験して学ぶもの」と考えたのです。イギリスの哲学者ジョン・ロックは「人間は生まれた時は生得観念をもってないタブラ・ラサ(真っ白な状態)」と言いました。合理主義の主張が正しいとするならば赤ちゃんも理性をもっていることになります。とはいえ経験主義が正しいとするならば「経験以外は何も信じない」となってしまいます。

ロックの後に出てきた哲学者ジョージ・バークリーは「存在とは知覚である」と言って、目の前に見えていなければそれは存在していないのと同じであると考えたのです。またデイビッド・ヒュームは「火にさわると熱いけど次も熱いとは限らない」と言い、「人間は知覚の束である」として因果関係を徹底的に否定しました。では私たちが認識できないものについては存在していないと言えるのでしょうか?行ったことがない国や私たちが死んだ後の世界のことなどは存在していると思いますか?あるかどうかわからないものだけど存在しているといえるのか、あるかどうかわからないならそれは存在しないのと同じなのか?ということです。

これはスピリチュアルなものやオカルトを信じるかどうかにもつながる考え方です。スピリチュアリズムは「心霊の存在」を信じることであり、オカルティズムは「超自然的な力」を信じることです。宗教は死生観や生き方を説く事が多いのでどちらかといえばオカルティズムだと言えます。日本では宗教に対して少しネガティブな印象をもつ方も多いかもしれません。しかし日本でも世の中の事象を神話や超自然的な力と結び付けて考えることがありました。世界各地では生活のあらゆる場面で宗教的なものの存在を感じる場面があります。それが人々の心のよりどころになったり行動の規範となったりしてきたのです。ところが科学が発展したことによって雲の上に神様なんておらず、宇宙のどこにも天国なんてものは存在しないことがわかってしまいました。これまでは「きっと神様が救ってくれる」と信じていれば救われていた人々は心のよりどころを失ってしまい行動の指針をもつことができなくなってしまったのです。ところが近年オカルティズムなものが話題になることが増えてきたという見方もできます。何もむずかしく考える必要はなくあの劇場に通っている人たちだって同じなのです。そこには「神7」という神様がいて偶像(アイドル)を信仰・崇拝することによって弱肉強食の資本主義社会によってボロボロになった心の傷を癒しているのです(多分)。

日本では信教の自由は保障されているので何を信仰してもよいのですが、大切なことは「自分の意志」でそれを信じているかどうかということです。「世界はもうすぐ終末をむかえるけどこれを信じれば救われるよ」「あなたは前世でよくない行いをしたからお布施をしなければ幸福に離れない」このような恐怖説得などで相手をマインドコントロールすることもできてしまうのです。経験主義の話からそれてしまったように感じるかもしれませんがここが大切なところです。経験主義では「存在すること」と「認識すること」が同じだと言いましたよね。つまり「世界の終末」も「前世の行い」もその「存在」を信じて「認識」してしまえば、その人の中にはたしかに「世界の終末」や「前世の行い」が存在するようになるのです。これについては有名なプラシーボ効果によって証明されています。同じ成分の薬でも「高価な薬」と言われたグループの方が2倍の効果があったそうです。コロナ禍によって私たちはマスクをしていないことに対して以前よりも過敏になりました。それまでマスクをしていなくても気にならなかった飛沫やウイルスがコロナ禍によって「認識」されたことが私たちの中にそれらを「存在」させているのです。この世界にはまだまだ私たちの知らない世界がどこまでも広がっています。はたしてそれらは「認識」できなければ「存在」していないといえるのでしょうか?

ちなみに合理主義のようにものごとを考える方法を「演繹法」といい、経験主義のようにものごとを考える方法を「帰納法」といいます。そしてその後のドイツ観念論を完成させたヘーゲルの哲学では「弁証法」がつかわれます。これら3つの思考方法については現代ビジネスにおける必須スキルともいえる

「ロジカルシンキング」のもとにもなっているのでぜひこちらの記事もご覧ください。

5 実存主義と構造主義

18世紀英国でワットが蒸気機関を実用化したことがきっかけで産業革命がおこります。そして大量生産・大量消費を是とする大衆社会が到来したことで、1人1人の人間は機械化・平均化された存在(人間疎外)になっていきました。そのような中で個としての人間の立場を強調して孤独・不安・絶望・苦悩の中に生きる現実の存在である私にとっての真理を探究する思想、今ここにいる私が幸せに生きるためにはどうすればよいのかを考える哲学が現れるのです。これを「実存主義」といいます。

実存とは現「実」に存「在」する本来の私の在り方という意味であり。その代表的な哲学者がジャン=ポール・サルトルです。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言いました。たとえばナイフには切るという本質があってそのために存在しています(即自存在)。しかし人間はまず存在していてそこから何者かになっていくのであり、自分の本質(役割)は自分で自由に決めることができるのです(対自存在)。つまりサルトルは「人間は自由である」と考えたのですが、人間は自由であるがゆえに孤独であり責任をもたなくてはいけないとも考えました。このことをサルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言ったのです。サルトルの考える責任とは積極的に社会に参加すること(アンガージュマン)のことであり、人間はあたえられた状況において主体的に社会に参加していくべきであると考えたのです。サルトルの哲学は大きな脚光をあびて生きる希望を失った人々の背中を押し続けました。

しかしそんな実存主義に終止符を打ったのが構造主義の哲学者レヴィ=ストロースです。構造主義とは「人間は何らかの社会構造に支配されており、決して自由に物事を判断しているわけではない」という考え方のことです。つまり「人間がどう考えるかはその人が生きる社会のシステムによって無意識に形づくられてしまっている」ということなのです。レヴィ=ストロースはサルトルの「自由の刑に処されている」という考え方を否定しました。サルトルの考える歴史とは西洋文明を中心とした歴史のことであり、それは他の文明のことを無視する偏見と傲慢な価値観の押しつけであると断じたのです。さらに「本当に人間は自由なのか?人間の思考や行動は社会や文化的な構造に支配されているのではないか?」と指摘しました。西洋的な歴史の進展は合理的・論理的に進んでいくことを是とするものであるけれど、その結果が戦争や環境破壊でもあるとしたのです。それに対して未開人には西洋的な歴史というものがまず存在しません。その日その場にあるものによって毎日をすごしているのです。これを「プリコラージュ」といいます。西洋的な価値観では未開人のことを「おくれている」と捉えることになりますが、その民族にとって民族が生存していくうえでは合理的で論理的な選択をしているとも考えられます。事実その生活をしていく中では大きな戦争や環境破壊は存在していないのです。このような未開人の思考を西洋的な思考(科学的思考)に対して「野生の思考」といいます。こうしてレヴィ=ストロースはそれぞれの社会の対立や差異を考えることによって、それまで見えていなかった構造を発見するという「構造主義」の哲学を打ち立てたのです。

あなたはサルトルの言うように「私たちは自由に人生を生き抜くべきである」と考えますか?それともレヴィ=ストロースのように「私たちの選択は構造に縛られている」と考えますか?実存主義の哲学はたしかに構造主義によって衰退の一途をたどることになりました。しかしだからといって意味がないというわけではありません。近年ニーチェという哲学者が脚光をあびることがあり名前くらいはご存じかと思いますが、実はニーチェも実存主義の代表的な哲学者なのです。ニーチェはこの世界に意味や目的などなく虚無なる生が永遠に繰り返されると考えました。しかし永遠に繰り返されるならもう一度歩みたいと思えるような人生を送ること、意味や目的がなくてもそれを受け入れて力強く生きることこそが大切であるとしたのです。否定的な現実をありのままに引き受けて(運命愛)「これでよい!」と自己肯定することで主体的になることができるのです。記事の冒頭で絶対主義の思想がある時から現れなくなるといいましたが、まさにニーチェが「神は死んだ」と言って理性をこえたものの存在が否定されたのです。構造主義ではこのように考えることこそが社会の構造に縛られていると指摘するのですが、それでも実存主義と構造主義の次の哲学を見つけ出すのは今を生きる私たちです。本書のタイトルの通り『君たちはどの主義で生きるか?」を考えてみてください。

6 まとめ

今回は「〇〇主義とは何か?」について考えてきました。絶対主義と相対主義、資本主義と共産主義、民主主義とポピュリズム、経験論と合理論、そして実存主義と構造主義に至るあらゆる主義や思想が哲学者たちの思考の結晶なのです。「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。「人間は思考することはやめてしまえば誰もがナチスのような巨悪になりうる」ハンナ・アーレントはこのように言いました。ぜひあなたにとっての「主義」をもう一度考え直してみてください。これからも哲学の実践的な活用方法について紹介していく予定ですのでぜひご期待ください。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。

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