【自分とか、ないから。-教養としての東洋哲学-】東大卒こじらせニートが超訳する東洋哲学者たちの悟りの境地!

哲学×悩み

今回は「人生が楽になる教養としての東洋哲学」をテーマにして考えていきましょう。参考文献は『自分とか、ないから』(著者:しんめいPさん)です。

【自分とか、ないから。-教養としての東洋哲学-】東大卒こじらせニートが超訳する生きづらさが楽になる7人の東洋哲学者たちの悟りの境地!

これまでの記事では主に「西洋哲学」を紹介してきましたが、前回の記事で東洋哲学を扱ったらとても面白かったので今回はこの本を紹介します。著者のしんめいPさんは東大に合格して就職・結婚したものの、その後「職」「家」「嫁」を失って実家でひきこもる生活をしていたそうです。圧倒的な「虚無感」を前にして自己啓発書を読もうとしたものの挫折、西洋哲学にも手を出したものの西洋の哲学者が生き方に興味がないことを知り挫折、そんな中「虚無感」を哲学しているニーチェと出会い希望を見出すのですが…なんとニーチェの晩年10年間は発狂して布団に入ったまま死んだことを知り絶望。そして最後にたどりついたのが「東洋哲学」だったのです。

「東洋哲学」のいいところは「どう生きればいいのか」をテーマにしているところです。そしてきちんと「答え」が用意されているのです。哲学には「答え」はないと考える方も多いかと思いますが「東洋哲学」にはあるのです。「東洋哲学」はとにかく楽になるための哲学なのです。ただし東洋哲学はどこか宗教的な色合いが強くなんとなく怪しいものだと思われがちです。家の本棚にカントの『純粋理性批判』などが置いてあればすごい気がしてきますが、『ブッダの教え』的な本がずらずら並んでいたら友だちに白い目で見られそうですよね?しかし著者は東洋哲学に出会ったことがきっかけで、全てを失って家に引きこもるという虚無感から脱出することができたのです。今回は「東洋哲学」を代表する7人の哲学者を紹介させていただきます。しんめいPさんがどのように虚無感を克服していったのかについてもご期待ください。仕事のストレスや人間関係のしがらみなどに疲れ果てているあなたも、最後までご覧になって頂ければ明日からの人生がこれまでより少し楽になるはずですよ。

1 ブッダの哲学 -自分なんてない-

ブッダは現在のインド国境付近の小さな国シャーキヤ国の王子として生まれました。本名はガウタマ・シッダールタですが「目覚めた人」という意味のブッダとよばれます。仏教の開祖として有名ないわゆる「お釈迦さん」のことです。

実はブッダも「虚無感」に悩む1人のインドの人間だったのです。実家は「王家」で職業は「王子」という誰もがうらやましがるほどの生活なのに、めちゃくちゃ虚無感に苦しんでいたといわれています。やることがなくてぼうだいな時間があると人間はたいてい哲学的なことを考えるのです。ブッダも同じように「人生の意味」や「本当の自分」について考え始めました。ただしその本気度が人並外れていたせいかある日とつぜん出家をしてしまうのです。ブッダ29歳の夜にひっそりと家出をして自分探しの旅に出ていったのです。王族で妻と生まれたばかりの子どもがいるにもかかわらず…。

当時インドにはすでに自分探しのプロがそこらへんにたくさんいたそうです。その時の流行は「めっちゃ身体を痛めつけたら本当の自分がわかる」ということでした。ブッダも流行に乗って6年間の苦行を続けてみたのですがピンときませんでした。そしてある日「こんなことしても意味がない」ということに気づいてしまうのです。ところが修行の方向転換をしたくても苦行の結果すでに体力が残っていなかったのです。ブッダが力尽きようとしたその瞬間ある人物との奇跡の出会いを果たすのです。なんと近所のギャルがブッダのもとにおかゆをもってきてくれたのです。このギャルの名前はスジャータ(日本の食品メーカーの名前の由来になったそうです)。

ブッダは悩みました「おかゆを食べるべきか?断るべきか?」。ここでおかゆを食べたらこれまでの苦行がすべて無駄になるかもしれません。しかしブッダはおかゆを食べることで見えるかもしれない新しい景色に賭けたのです。ブッダはおかゆを食べて元気になった勢いで菩提樹の木の下で瞑想するようになります。そこで「悟り」を開くことになったのです!

ブッダが悟った答えこそが「無我」すなわち「自分とか、ない」ということなのです。自分とはただの「妄想」であってこの世界は全部つながっているのです。わたしたちの身体は細胞からできていてそれらは常に入れ替わっています。3か月もすればだいたい入れ替わっているので物質的には完全に別物だということです。そもそもわたしたちの身体は自分ではないもの(食べ物)によってできているのです

では心はどうなのでしょうか?心の中で考えている思考のことを「自分」だと思っていますよね。たとえば「カレーが食べたい」という思考があったとしてそれはどこから来たのでしょう。「カレーが食べたいと思うぞ」と考えてから「カレーが食べたい」という人はいませんよね。「カレーが食べたい」という思考もどこからか勝手にわきあがってきただけなのです。身体も心もすべて宇宙のつながりの中でたまたまこうして存在しているだけであって、身体も心も常に入れ替わって常に変化し続けているのです。

ブッダは瞑想をすることで「自分」などどこにもない(無我)ことに気づいたのです。そしてブッダは人間の苦しみの原因こそ「自分」であると考えました。つまり、すべてが変わっていくこの世界の中で変わらない「自分」をつくろうとすること、それこそがわたしたちを苦しめている根本的な原因だったのです。

「おれがいるのだ、という慢心をおさえよ。これこそ最上の安楽」とブッダは言いました。どこにもあるはずのない「自分」を探して「自分」かくあるべきと思うから苦しいのです。だからこそすべてを捨てて涅槃(ニルヴァーナ)の境地へたどりつくことを求めるのです。ちなみにブッダは人間であるので80歳の時に食中毒でふつうになくなっています。その後ブッダの教えを伝えるため弟子たちが文章で記録して整理するようになりました。これが「お経」となってブッダの教えは「仏教」として後世まで伝わっていくのです。しかしブッダの説いた「無我」の教えがあまりにも難解すぎたので、その解釈をめぐって弟子たちのグループがどんどん分裂してしまったのです。そのため仏教の教えは民衆には理解できないものとなって存続の危機に陥りました。しかし700年の時を経てとんでもない1人の天才「龍樹」があらわれたのです。

2 龍樹の哲学 -この世はフィクション-

龍樹はインドにいる全ての学者を論破しちゃうくらいの最強の破壊者です。そんな龍樹にはとんでもない黒歴史が残されているのです。若くして天才の名をほしいままにして親友とつるんでいた龍樹少年たち、彼らはあまりに優秀であったので調子に乗ってまわりの人たちを見下していたそうです。ただし残念ながらまったくモテなかったので性欲が大暴走してしまうのです。なんと透明人間の術をつかって国王のハーレムに侵入するのです。そこであんなことやこんなことをしてしまうのですがその存在がバレてしまうのです。ほかの3人の親友はその場で切り殺されてしまうのですが龍樹だけは助かります(なんと王様のとなりに隠れることで見つからずにすんだとか…)。そして文字通り「死ぬほど調子に乗った」ことを後悔して仏教の道に進むのです。

当時の仏教はブッダ没後700年がたちものすごく複雑な状況になっていました。龍樹はこの700年間の議論のすべてを「くだらない言葉遊びである」と論破するのです。そして200巻にもおよぶブッダの教えをまとめた論争をたった1文字で表現しました。それがこの世界はすべて「空」であるということです。龍樹のおかげで仏教は再びシンプルな教えとなり誰でも大丈夫なものになりました。誰でもだいじょうぶな仏教…すなわち「大乗仏教」です。

「この世のすべてはただ心のみであって、あたかも幻の姿のように存在している」すべては「幻(フィクション)」である、龍樹はこのように言ったのです。つまりこの世界はディズニーランドみたいなものだよということなのです。なぜなら「この世界は言葉の虚構から生じている」からです。龍樹が言うには「彼氏」や「彼女」すらも幻だというのです。なぜなら「依存関係による生起を本性とする幻の世界を歩みゆく」からです。つまり「彼氏」と「彼女」はおたがいに依存することから生まれた幻だということです。たとえば「彼女」でもない人に「彼氏」ですという人がいたらかなり怖いですよね?「彼氏」は「彼女」がいてはじめて成立する存在であるのでこれらは心の中の幻なのです。幻であるからこそわたしたちの存在はたえまなく変化していきます。ある時は「友だち」でありある時は「兄弟」でありある時は「他人」になるのです。これらはすべて幻であるのでそれが消えてしまえばそれはもはや何もない「空」なのです。これはあらゆる人間関係にあてはめることができます。「兄」は「弟」がいてはじめて「兄」になるのです。「家族」は知らない他人同士が演技をすることによって「家族」になるのです。(しんめいPさんはその家族をうまく演じることができなかったので離婚したそうです)。

同じように考えれば会社や国も幻であり「空」であると考えることができます。またモノさえもフィクションにすぎないのです。たとえばコップは陶芸をしたことがある人ならわかると思いますが元々は土です。その土がたまたまコップの形をしていたらコップになっただけであり、もしそこに花がさしてあれば花瓶にもなってしまうのです。これは「まち」の写真ですがこれだってただのフィクションにすぎません。なぜなら1つ1つのビルはコンクリート(土)からできているのですから。このようにありとあらゆるものがすべてフィクション、つまり「空」なのです。そして全てが空でありすべての幻が消えてしまったらどうなるのかといえば…この世界はすべてがつながっているということになるのです(縁起)。そもそもこの世界はすべてつながっているのだからどこにも境界線などないのです。この写真を見て「山」はどこから「山」であるということはできますか?わたしたちが勝手に「ここまでが山」という幻の境界線をひいているだけなのです。国と国だって勝手に国境という幻の境界線をひいているだけで元々はつながっています。わたしも国も宇宙もすべてがつながっているということなのです。どこかのお金持ちが「宇宙旅行に行く」と言っていましたがおかしな話なのです。だってそもそもここだって宇宙なのですから!すべては「空」なのです。

では「空」を悟った人の目にこの世界はどのようにうつっているのでしょうか?龍樹の後輩チャンドラキールティさんが空の世界の風景を伝えてくれています。「一によって全てを見る」と。たとえば1粒の米粒を見たときに悟った人はそこにも宇宙を見ることができるのです。米粒ひとつぶに全宇宙のつながり(一によって全て)を見るということです。数式にあらわせば「1=無限、無限=1」ということです。米粒もコップも自分さえも「宇宙」という1つのものとつながっているのです。「空」の哲学を極めると「全ての悩みは成立しない」ことに気づくことができます。わたしたちは「自分」のことを弱いとか悪いとか変わらないものとして考えがちです。しかし「空」の哲学においてはそんな変わらない本質のような自分は存在しません。善悪も強弱もすべてがただのフィクションであり幻にすぎないのです。「彼女がほしい」という悩みも「彼女がいる」ことを考えるから生まれる悩みなのです。「お金がない」という悩みも「お金がある」ことを考えるから生まれる悩みなのです。「ぼくは〇〇だから△△できない」という悩みもすべてフィクションなのです。「ぼくは〇〇」という前提がそもそもフィクションなのです。兄がいないのに弟です、彼氏じゃない人に彼女ですというようなものなのです。龍樹はこのようなまちがった思考を「戯論」(しょうもない考え)と喝破しました。私たちは勝手にしょうもない考えの中に入り込んで出られなくなっているだけなのです。インドの論破王である龍樹の人生そのものが「空」なのです。若いときはとんでもないことをしたにもかかわらず仏教の道で菩薩になっているのです。だからこそすべての悩みは成立しないのだから大丈夫だよと龍樹は伝えてくれるのです。

すべてを失って実家にひきこもっていたしんめいPさんを救ってくれたのも「空」でした。何をやってもうまくいかない「からっぽ」の自分を受け入れることができない日々、そこから救い出してくれたのが「自分とはそもそもからっぽ」という「空」の哲学です。「からっぽ」だからこそ最高なのだ、と。すべてを失って「家族」「会社」「社会」というフィクションが崩壊したその瞬間、すべては1つにつながっている「空」に気づくことができたのです。たしかにすぐに社会復帰したわけでもなく布団の中に引きこもったままかもしれません。でも「それでもいい」と思えるようになるのが「空」の哲学なのです。

3 老子・荘子の哲学 -ありのままが最強-

ブッダ・龍樹とインドの哲学を紹介してきましたがここからは中国の哲学です。実はインドと中国の哲学はとても似ています。インドでは「空」の哲学が生まれたように中国では「道」の哲学が生まれました。「道」もまた「空」と同じように「この世界はフィクション」という哲学なのです。ただしインドと中国の哲学には「ゴールが正反対」という大きなちがいがあります。インドのゴールは「この世界はクソだ」からもう二度と生まれ変わらない「解脱」です。しかし中国では「この世界は最高だ」から長生きして楽しむのがゴールとなるのです。そのため「道」の哲学では「どうすれば人生がうまくいくのか」を見つけることができます。

インドでブッダが登場したころ中国でも「老子」というとんでもない哲学者が登場しました。伝説すぎて本当にいたのかわからないという伝説が残っているすごい哲学者です。もちろん「いる」も「いない」も気にしないのが東洋哲学だからいいのです。老子は「無為自然」すなわち「ありのままでいい」という生き方を説きました。ディズニーのあの人は女王で宝石ドレスをまとって「ありのまま♪」っていうけど、老子は見ての通り本当に「ありのまま」を体現していることがわかります。

その老子よりも100年くらい後の人物が荘子です。老子とちがって存在したことは確認されていますが東洋哲学なので気にしません。荘子は人生のほとんどを無職として過ごしました。それにもかかわらず老子と並んで「老荘思想」と称されるほどの偉大な人物なのです。この2人が説いた「道」とはひとことでいうと「宇宙を生み出す根源の力」です。老子は「道」について次のように述べています。「道の道とすべきは常の道にあらず」…道って言葉にしたらもう真の道ではない、「これを視れども見えず」…道は視ようとしても見えない、「これを聴けども聞けず」…道は聴こうとしても聞こえない、「名あるは万物の母なり」…名前があるとき道は万物の母である、などなど。このように「道」はつかみどころがないものなのです。

荘子は「道」の哲学を発展させて「胡蝶の夢」という寓話を考えました。あるとき荘子が蝶になった夢を見て目が覚めたら自分が荘子であることに気がついて、「荘子が蝶になったのか蝶が荘子になったのかわからない」というお話です。つまりすべての母である「道」の前では「現実」も「夢」も同じようなものなのです。この世界を「夢」とみる「道」とこの世界は「幻」とみる「空」は似ています。しかし「空」は現実世界のあらゆる価値を否定するのに対して、「道」は現実世界でどうすれば勝てるのかを教えてくれるのです!「無事を以て天下を取る」…変なことをしないでありのままでいれば天下をとれる、「天下の至柔は天下の至堅を馳騁す」…最も柔らかいものが最も堅いものを支配する、そして老子はもっとも強いものとして「海」をあげています。海は何もせず、ただ一番低いところにいながら全てを受け止めています。海は誰とも争わないし誰も海を敵とも思っていません(それになくなったら困ります)。そもそも争うことがないので敵がいないのです(だから「無敵」なのです)。

「道」の哲学はとてもスケールが大きく次元のちがう答えを導き出してくれます。本書には道の哲学を生かすことで「婚活」や「転職」に勝つ方法も記されています。そして何より著者のしんめいPさんが道の哲学と出会って救われたのです。無職になって離婚もされて「からっぽ」になることを恐れていたしんめいPさんですが「からっぽ」になったことで孤立するどころかむしろ自然な人間関係を築けたそうです。そのようにつながることができた人間関係はなくなってしまう怖さもありません。たとえ何年も関わることがなかったとしてもいつでもつながっている感じ…「からっぽ」になることでむしろ満たされることができたのです。「やりたいこと」を探して自分探しの旅をして「からっぽ」になって時にはじめて、「やりたいこと」がむこうからやってきたのです(そして東洋哲学の本を出版)。では道の境地にはどうすれば到達することができるのでしょうか?そのヒントは次章で明らかになります。

4 達磨の哲学 -言葉はいらねえ-

ここまで紹介してきた「空」や「道」という言葉をこえた境地にどうすれば到達できるのか、その答えこそが中国で生まれた仏教の1つ「禅」にあるのです。中国を代表する哲人(鉄人)ブルース・リーは「考えるな、感じろ」と言いました。実はインドが「論理」を重視するのに対して中国では「経験」を重視するのです。そして言葉をこえる境地に達するために「言葉をすてた」のです(不立文字)。禅の教義とは「言葉をすてる」ということなのです。そんな禅の仏教の始祖こそがかの有名なダルマ人形のモデルとなった達磨大使なのです。

達磨はインド人でブッダから約1000年後に登場しました。「言葉をすてる」ことで悟りの境地に到達して中国に仏教を広めるためにやってきました。ダルマ人形が幸運の象徴であるように達磨は幸運にも仏教好きな皇帝に面会できました。しかしそこでの皇帝との会話がまさに伝説となっているのです

皇帝「私は寺をいっぱい建てたから御利益いっぱいあるよね?」

達磨「ない!」

まわりがざわつくものの皇帝は次の質問をします。

皇帝「仏教でいちばん大切なことって何ですか?」

達磨「そんなものは、ない!」

皇帝「それではあなたは誰なのですか?」

達磨「知らん」

反抗期の中学生が親に言うようなセリフを皇帝にしてしまったのです。せっかく仏教を中国に広める大チャンスだったのに自らぶち壊す暴挙…。しかし禅の哲学は「言葉をすてる」ことなのですから達磨は言葉にできなかったのです。お寺を建てようが仏教の大切なことだろうが「言葉にできない」のです。達磨はそれを皇帝に伝えようとしていたのですが…伝わるわけありませんよね(汗)。皇帝の元を去った達磨はなんとそのまま洞窟にこもって壁の前で9年も座り続けます。その姿を見た中国のある僧侶(慧可)が達磨に弟子入りを志願するのです。仏教を広めるための千載一遇のラストチャンスが到来しました!にもかかわらず達磨はその願いを断ってしまうのです(仏教を広める気あるのかな?)。何度も弟子入りを志願するものの断られるのでとうとう慧可は腕を切り落としました。それを見て達磨は慧可の弟子入りを受け入れたのでした。

身体の一部を切り落とすとか完全にヤクザの世界です(見た目は完全にヤクザですが…)。ちなみに達磨も老子と同じで実在したのかは不明だそうです(東洋哲学なので以下略)。では「禅」とはどのようなものなのでしょうか?「言葉をすてる」ことをどうやって視聴者の皆さんにお伝えすればいいのか?どうでしょうか?真っ白な画面からは何が伝わりましたか?実際に本書では白紙のページが続き「白紙の本には何が見える?」とされています。

このような意味不明な問いこそが「禅問答」です。実際の禅問答にも「片手の音」というものがあります。「両手でたたけば音がなるが、片手でたたけばどんな音がなる?」です。禅の哲学では「言葉をすてる」ことが求められるのであれこれ考えてはいけないのです。禅問答をしていく中でふと言葉をすてて白紙になる瞬間を感じるのです。言葉の世界をぬけたところにある全てが1つの世界(空であり道である瞬間)、そこに到達するためのプロセスこそが禅なのです。近年グローバル企業でも座禅や瞑想のようなマインドフルネスが注目されています。ぜひ問題に直面した時には「言葉をすてる」時間をつくってみてください。

5 親鸞の哲学 -ダメな奴ほど救われる-

インド、中国を経ていよいよ日本の哲学を紹介します。今から800年くらい前の平安・鎌倉時代に登場したのが「親鸞」というお坊さんです。実は仏教には「空」を目指すためのさまざまな宗派が存在しています。親鸞は日本で一番メジャーな「浄土真宗」という宗派をつくった人なのです。法事の時に「なむあみだぶつ~」と唱えていたらだいたい浄土真宗です。「浄土真宗」では誤解をおそれずに言えば「空」の方がこっちに来てくれるのです。「一休さん」として知られる禅の有名人である一休宗純は「襟巻の あたたかそうな 黒坊主 こやつが法は 天下一なり」という歌を詠んでいます。襟巻とか黒坊主とかちょっと親鸞のことをいじりつつも「法は天下一」と認めています。

親鸞はもともと9歳で仏教界の頂点である比叡山に入門したエリート僧侶でした。しかし当時の比叡山は政治権力と結びつき腐敗していました。そして平安時代末期の京都は日本の歴史の中でも最悪の時代の1つです。戦争・感染症・飢饉・地震・火事がぜんぶ起こって京都の街中は死臭に満ちていました。仏教は人々を救うためにあるはずなのにこのままでいいのかと親鸞は悩みます。そしてとうとう仏教の力で人々を救うために29歳で比叡山を下山しました。しかし今日を生きることで精いっぱいの人には哲学よりもご飯が必要だったのです。親鸞は自分の無力さに絶望しますがその先に「他力」という希望を見出すのです。

「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」これが親鸞の言葉でもっとも有名な一説です。意味は「善人でさえ救われるのだから、悪人はもちろん救われる」です。これを聞いて「え、反対でしょ?」と思いませんでしたか?親鸞は悟りの境地(空や道など)に到達しようとする行為を否定したのです。なぜなら「善い行為」をしようとすればするほど善い自分にとらわれてしまうからです。悟れると信じて自分にとらわれるのではなく自分にはなにもできないと認めること、つまり「からっぽ」になることで向こうからやってきてくれるのです。このように逆転の発想をした「他力」の哲学こそが親鸞の革命児たる所以なのです。

「他力」のすごいところは自分がダメであるほど悟りがやってきてくれるのです。親鸞は自分のダメなところをこれでもかというくらいに書き残しています。「外ではできるふりをしているけど、実際はダメな人間である」、「欲はすごいし、すぐ怒るし、めちゃ嫉妬もする」などなど。あげくのはてには「女性にふれてはいけない」というお坊さんのルールを無視して、「結婚」まで宣言する超ダメなお坊さんになってしまったのです!さらに逮捕されて流罪にあいお坊さんの資格まで剥奪されました。お坊さんでもなく犯罪者になってしまった親鸞は自らを愚禿(アホなハゲ)といいます。こうして親鸞はすべてを失って「ダメなやつほど救われる」を自ら体現していくのです。

ではどうすればいいのか?答えはただ「信じる」ことだけです。余計なことを考えず「南無阿弥陀仏」と言って手を合わせるだけでいいのです(念仏)。これによって「他力」の教えは一気に広がることになります。その結果ほぼ悟っている一般人(妙好人)を大量生産することに成功したのです。現代でも「妙好人を語る」という本が出版されているくらいたくさんいます。仏教とはそもそも言葉のフィクションというウソの世界にいることが前提です。だからこそ自分を「正直者」と思っている人は「嘘つき」であり、自分を「嘘つき」と思っている人こそが「正直者」と考えることもできます。自分には何もできない、何もないということを認める(他力)ことで救われるのです。しんめいPさんは昔から起業して成功して本を書いたみたいのように思っていたそうです。しかし実際は人生につまずいてすべてを失ってこの本を書くことになったのです。「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」おそるべしです。

6 空海の哲学 -欲があってもいい-

東洋哲学のラストにふさわしいものこそが「密教」(秘密の仏教)です。密教こそが時代を超えて進化してきた仏教の最終形態でありそれをまとめたのが空海です。実は空海は親鸞よりも400年ほど前の人物なのでこれが最後なのはおかしい気がします。しかし密教こそが仏教の最終形態であり究極の哲学なので最後に紹介されているようです。

空海は一言でいうと「天才」です。ノーベル賞を受賞した湯川秀樹さんは空海のことを「万能の天才」として名前をあげました。「万能の天才」といえばアリストテレスやレオナルド・ダ・ヴィンチが思いつきます。しかし湯川さんはその2人よりも幅広いと絶賛しているのです。空海は唐(中国)の青龍寺に留学して密教をたった3か月でマスターしました。そして密教の正式な後継者として指名されてしまったのです。中国のエリート中のエリートが集まる青龍寺で日本の留学僧が指名されることのすごさ!空海は密教の教えをオリジナルの哲学として1つの巨大な理論にまとめあげたのです。芸術家としてもすばらしく空海は歴史の中でも最高の書道家でもあります(弘法大使)。また事業家としてもダムを設計してアーチ形の堤防をつくりました(現存しています)。まさに「万能の天才」のなせるワザです。

そして空海は天才としてあろうことかまさかの「陽キャ」だったのです。東洋哲学といえば、ブッダは「教室のはしっこで窓の外を見つめているタイプ」、龍樹は「クラスメイトや先生をどんどん論破する面倒なやつタイプ」、老子は「そもそも教室にいないで校庭で草と同化しているタイプ」、荘子は「学校に一度も来たことがない不登校タイプ」、達磨は「無言で壁に向かって座り続けるタイプ」、親鸞は「テストでわざと0点を取り続けて退学になるタイプ」のように陰キャばかりです。にもかかわらず空海はクラスの中心にいる人気者のタイプだったようです。

密教は秘密の仏教なのですがそれは「生命の秘密」すなわち生命を肯定する哲学なのです。つまり自分や世界といううそから抜け出して生命の秘密と一体化しようとするのです。禅と密教は同じ仏教でもまるで正反対なのです。「本当の自分」と聞かれたら禅なら「そんなものはない」と言って丸を書くでしょう。しかし密教における「本当の自分」はこのような曼荼羅なのです。空海は曼荼羅の世界を「秘中の秘、覚中の覚なり」と表現しています。つまり「秘密のなかの秘密であり悟りのなかの悟り」という意味です。まず曼荼羅の中心に描かれているのは「大日如来」です。これはブッダが世界のすべてとつながったという悟りに到達した状態を表しています。大日如来はすべてのつながりの象徴、悟りの世界がすべてつまった象徴なのです。そしてすべてがつながっているとすれば私たちも悟ればすべてとつながるはずですよね。ということはブッダも私たちも究極的には同じ存在ということになります。これこそが「密教の秘密」なのです。

自分とは宇宙であり、自分とは大日如来であることを悟ることが密教の目的なのです。そのために空海は大日如来と同じになることを求めるのです。大日如来と同じポーズ、同じ言葉づかい、同じ心をもつようにする、なりきることで大日如来そのものになることができると空海は言っているのです。そんなバカなと思うかもしれませんが大統領になりきることで本当になった人がいます。ウクライナのゼレンスキー大統領は芸人から選挙で本当に大統領に選ばれたのです。空海はなりきることで自分をつくる、大きい自分(大我)になると考えました。自分とはフィクションなのだからどんなものにでもなれてしまうのです。大日如来と同じポーズ、同じ言葉づかい、同じ心をもつようにすればいいのです。ちなみにこれを「三密」と言いますがコロナ対策で緑のたぬきも同じ言葉を使いました。空海の方が千年も早くSNSでは密教の僧侶がざわついていたとかいないとか…。三密のうち同じポーズと同じ言葉づかいはできますが同じ心はどうすればいいのか?実は密教の修業をする人にしか教えてもらえないようなのです。とりあえず一般人は大日如来のすがたを心に思いえがくことが大切らしいのですが、密教は秘密の仏教なので秘密にされていることがまだまだ多いのですが、ブッダにとっての「最上の安楽」(気もちよさ)の秘密を明らかにしたのかもしれません。

7 まとめ

今回は「人生が楽になる教養としての東洋哲学」について考えてきました。動画の中では紹介することができなかったこともまだまだありますので、ぜひ本書を手に取って教養としての東洋哲学をふかめていってください。

「自分とかない」「この世はフィクション」というインドの哲学

「ありのままが最強」「言葉はいらない」という中国の哲学

「ダメな奴ほど救われる」「欲があったもいい」という日本の哲学

どれが特に心に残ったかぜひコメント欄でも教えてください

「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。「人間は思考することをやめてしまえば誰もがナチスのような巨悪になりうる」公共哲学の哲学者ハンナ・アーレントはこのように言いました。これからも「哲学」のおもしろさを発信していきますので、ぜひゼロから一緒に学んでいきましょう。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。

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