【世界は贈与でできている】ウィトゲンシュタイン哲学で考えるお金で買えないものの正体とは?

哲学×悩み

今回は「贈与-お金では買えないもの-」について哲学の教養をもとに考えていきましょう。参考文献は『世界は贈与でできている』(著者:近内悠太さん)です。

【世界は贈与でできている】ウィトゲンシュタイン哲学で考えるお金で買えないものの正体とは?

突然ですが、みなさんはお金では買えないものについて考えたことがありますか?ある国で核廃棄物の処理場として小さな村が候補地に選ばれました。賛否のアンケートをした結果、51%の住民が処理場を受け入れると答えたそうです。しかし「全住民に多額の補償金を払います」という前提を加えてアンケートをした場合は、なんと賛成すると答えた住民が25%に半減してしまうことになったのです。なぜ多額の補償金(見返り)を受け取れるとなったら反対する人が増えたのでしょうか?実は既に住民には「原子力に依存している以上は処理場が必要」という認識があったのです。

つまり国民は原子力の恩恵を「すでに受け取っている」のだから、誰かがそれを負担するべきであるという「公共心」を持っていたということなのです。これまで受け取っていたものがあるからこそ、処理場を受け入れましょうということです。しかしこのような無償の善意を「補償金」で買い取ろうとされた途端に賄賂に思えた―このような貢献は「お金では買えないもの」だったということです。

お金では買えないものとは一体どのようなものなのでしょうか?それが何であり、どのように発生し、どのような効果をもたらすのか私たちは知りません。本書では、このような必要であるのにお金で買うことができないもの、および、その移動のことを「贈与」という言葉で表現しています。今回の動画を視聴していただくと「贈与」についての理解を深めることができます。贈与についての理解はそのまま、大切な人との関係性への理解にもつながります。そして「生きる意味」「仕事のやりがい」などのお金では買えない大切なものを、どうすれば手に入れることができるのかも見つけることができるはずです。まずは「贈与」を正しく語る言葉を見つけるところから始めましょう。本書ではウィトゲンシュタインの哲学を用いて贈与の原理を説明されています。やはり面白い本を理解するためには哲学の教養が必要なのだと実感する今日この頃です。きっと明日からの人生に役立つヒントがつまっているのでぜひ最後までご視聴ください。

1 本書の概要

なぜ私たちは他者と協力したり助け合ったりするのでしょうか?そのきっかけは進化の過程で直立二足歩行を選択してしまったからだと考えられます。直立二足歩行をするためには骨盤を細めることが必要になるため、赤ちゃんは大きな脳を抱えながら狭くなった産道を通って生まれなければいけないのです。進化の選択はこの問題を「赤ちゃんが未熟な状態で産む」ことで解決するというものでした。その結果、私たちは子どもを育てるためには仲間が力を合わせなければいけないのです。つまり、進化は強い社会的な絆を結べるものを優遇したのです(サピエンス全史)

骨盤を大きくするなど体系を変化させるのではなく社会的能力を選択したのです。まさに私たちは「他者からの贈与」「他者への贈与」を前提として生きていく運命なのです。

1-1 お金で買えないものの正体

本書ではマルクスの言葉を贈与に置き換えて「贈与は、贈与を生まなければ無力である」と紹介されています。贈与とは市場における商品やサービスの金銭的交換とは全くちがうものです。贈与の1つの例としてプレゼントについて考えてみましょう。

実はプレゼントはプレゼントされた瞬間にモノがモノでなくなる性質をもっています。親しい人からもらったものは世界にただ1つの特別な存在(交換不可能)なものとなります。「本当に大切なもの」とは他者から贈与されることでしか手にすることができないのです。(自分へのご褒美がどこか空虚なものに感じる理由はここにあるようです)。実はプレゼントはもらう方よりもプレゼントをする方がうれしいという側面があります。なぜなら受け取りを拒否するとは、つまり関係性を拒否するということになるからです。贈与を受けてくれることで自分との関係性(つながり)を受けてくれたことになるのです。贈与と似たものに「偽善」「自己犠牲」などがあります。「偽善」は相手からの返礼を求めるボランティアのような行為のことです。目先の利益のために媚を売る行為なども偽善の1つの形であるといえるでしょう。

また「自己犠牲」は贈与を受けたという実感をもたないものとして紹介されています。実はこのような贈与は本人を疲弊させ、いずれ悲劇を生んでしまうとされています。「誰かのために献身的になるのは美徳なのか自己犠牲なのか?」という議論は贈与を受け取った実感があるのかないのかによって理解することができます。なぜならすでに贈与を受け取ったことへの返礼であれば自己犠牲にはならないからです。贈与とは、贈与を受け取ることでしか始まらないのです(贈与とは返礼である)。そして贈与は受取人にとっては過去の中にあり、差出人にとっては未来にあるものです。そこには想像力、つまり差出人には「倫理」を、受取人には「知性」が要求されるのです。「私はすでに贈与を受け取っていた」と想像することのできる人だけが、未来に向かって贈与を差し出すことができるということです。私にすでに「届いていた手紙」を読むことができた人だけが、未来に向けて「届かないかもしれない手紙」を出せるのです。私たちは必ずすでに贈与を受け取っています(受け取ってしまっているはずなのです)。私たちにできることは「手紙を読み返すこと」だけなのです。

1-2 アンサング・ヒーロー

ここに2つのボールが宙に浮いて止まっていたとします。これらのボールは力学的に考えれば「つり合い」という合力0の状態だといえます。しかし「つり合い」には2種類―「安定」と「不安定」のつり合いがあるのです。実はこれらのボールはイラストのような状態で静止していたことがわかりました。静止しているという点ではどちらも同じなのですが外力がはたらいた時にちがいが出ます。「安定」のボールは外力を受けても復元力によって勝手に元の位置にもどります。

しかし「不安定」のボールは外力を受けたら二度と元の位置にもどることはありません。私たちの世界(日常や社会)もこのボールにたとえることができます。私たちの世界では停電が起こっても復旧したり病気になっても病院で治したりできます。もし私たちの世界(ボール)は安定状態である(すぐ復元する)と思っているのであれば、「感謝」という重要な感情を忘れてしまうことになります。だから安定を当然であると思うからこそ、そうでないことに苛立ちを覚えてしまうのです。しかしこの世界が不安定な―丘の上のボールだとしたらどうなるでしょうか?そうであるならば、ぎりぎりの均衡を保つために何らかの外力がはたらいているはずです。この外力にきづくことができるのはボールが転落した時にはじめてわかります。奈落の底に落ちた時に初めてボールが落ちないようにする力がはたらいて「いた」のだ、と。「何も起こらなかったこと」こそが1つの達成であると気づくこと、私たちは何も起こらない日常をすでに享受できているという事実に気づくこと。この外力を担保している存在が「アンサング・ヒーロー」なのです。その功績が顕彰されない陰の功労者であり、歌われざる英雄(unsung hero)のことです。だからアンサング・ヒーローは想像力をもった人にしか見ることができません。この世界には無数のアンサング・ヒーローがいた―と想像することができる人だけです。アンサング・ヒーローは誰にも知られることなく未然に災厄を防いでくれています。そのため報酬が渡されることもなければ「ありがとう」と感謝されることもないのです。もちろんアンサング・ヒーローにならなくても誰かに責められることはありませんが、「自分がやらなければいけない」と思った人だけがアンサング・ヒーローになるのです。

もうおわかりですよね?これが「贈与」なのです。アンサング・ヒーローはその贈与が気づかれなくても構わないと思っています。それどころか気づかれないことを望んでさえいるかもしれません。私たちの世界はアンサング・ヒーローがいたことに気づくことができた人、贈与を受け取っていたと気づくことができた人だけが贈与を送ることができるのです。

贈与の可能性は受取人が差出人に生命力を与えることができる点にあります。「贈与を受け取ってくれてありがとう」「私のことを頼ってくれてありがとう」これらは差出人であるにも関わらず与えられたと感じるからこそ言える言葉なのです。贈与の受取人はそこに存在すること自体が贈与の差出人に生命力を与えてくれます。まさに贈与は与え合うと同時に受け取りあうという性質をもっているものだといえます。教養とは贈与に気づくことができる素養のことです。すでに受け取っている贈与、この世界にあふれるアンサング・ヒーローに気づける人、そのような人のことを「教養がある人」というのかもしれません。「仕事のやりがい」も「生きる意味」も贈与の結果として偶然に返ってくるものです。これらは目的ではなく結果です(目的とはあくまでパスをつなぐことなのですから)。そのような贈与によって世界の「すきま」を埋めることができてはじめて、私たちは健全な資本主義、手触りの良い温かい資本主義を生きることができるのです。以上とても簡単に本書の概要をご紹介しました。次章からは本書にも登場する哲学者たちについて紹介したいと思います。

2 言語ゲーム -ウィトゲンシュタイン-

ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインはオーストリアの哲学者です。1914年に第一次世界大戦が始まると、ウィトゲンシュタインは志願兵となって従軍しましたがイタリア戦線で捕虜となります。従軍しながら執筆した著書『論理哲学論考』は命題とその注釈によって構成されています。その中でも最も有名な命題がかの有名な「語りえぬものについては沈黙せねばならない」です。

ウィトゲンシュタイン哲学は「語りえるものの限界を明確にしようとした」ことにあります。演繹法においては前提が真でルール(論理式)を守れば結論も真となります。この論理式はアリストテレスによって明晰なものとなっています。だからウィトゲンシュタインは前提についても明晰にしなければならないと考えたのです。そこで「言語」について考えるのです。ウィトゲンシュタインの哲学は前期と後期で全くちがったものとなっていて、前期は言語とは世界を写し出す像であるという「写像理論」を提唱しました。写像理論においては1つの事実と1つの言語が対応しており、このような言語を「科学の言語」とよびました。しかし科学の言語は「日常言語」から派生したものではないかと考えたのです。そのため科学の言語を理解するためには日常言語を理解する必要があると指摘したのです。そして日常言語の中には1つの事実と1つの言語が、必ずしも対応しているわけではないものがあることに気づくのです。

たとえば「雨がふる」という文があったとします。もし日照りが続いた農家の人がこの文を言えば、「雨がふる(からうれしい)」という意味になります。しかし遠足に行く子どもがこの文を言えば、「雨がふる(からかなしい)」という意味になるでしょう。このように日常言語は会話の中からその文章(「雨がふる」)だけを取り出しても、それが何を意味するのか特定することはできないのです。

後期のウィトゲンシュタインは言語の使用はゲームにたとえることができ、日常において言語の意味がわかれていくことを「言語ゲーム」といいました。トランプのジョーカーがゲームによって役割が変わるように、あらゆる言語は言語ゲームの中で使用されることではじめて意味がわかると考えたのです。しかし日常言語を理解するためには言語ゲームのルールを理解する必要があり、そのためには自分もそのゲームに参加する必要があるとしたのです。ウィトゲンシュタインの哲学はその後「分析哲学」として継承され、イギリスやアメリカで発展をとげて現在の哲学の主流となっているのです。

その中の1人で本書にも登場するトーマス・クーンは『科学革命の構造』において、時代の思考を決める大きな枠組みのことを「パラダイム」といいました。そして科学の発展は断続的なパラダイムシフトの歴史であると指摘したのです。パラダイムシフトとはただ新しい事実が発見されたという意味ではなく、天動説から地動説へと変わったように人間の世界観が根本的に変化することをいいます。

本書では贈与論=コミュニケーション論であるとしたうえで、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を援用して議論を展開しています。特に他者を理解できないことを「その人の言語ゲームが見えていない」という点は注目です。他者を理解するために私たちができることはいっしょにゲームに参加することなのです。つまり他者と共に生きるということは言語ゲームをいっしょにつくっていくことなのです。

3 不条理の哲学 -アルベール=カミュ-

実存主義の作家アルベール・カミュは「この世は不条理だ」と考えました。私たちはたまたまこの世界に投げ出されて同じ毎日を過ごすことを強制されています。カミュはこの終わりの見えない苦痛のような状況を「不条理」と言いました。その上でこの不条理を「それでいい!」と受け止めることが必要であり、毎日をひたすらに生きていくことこそが幸福であるとしたのです。『シーシュポスの神話』におけるシーシュポスが永遠に岩を山頂まで運ぶ労苦を課されてもなおそれを受け止めたように、『異邦人』における主人公ムルソーが不条理な世界からはじき出されてもなお、自分に正直に生き抜くことで幸福感を感じながら最後を迎えたように生きていくのです。

これまで哲学の世界においては「人生の意味」について幾多の考察が重ねられてきました。しかし意味のない人生に無理やり意味を見出すことこそが理性の放棄なのです。人生の意味というものは生き続けた先にしか見出せないのです。たしかにカミュの言うようにこの世は不条理なものなのかもしれません。だからこそ「これでよし」「それでいい」と受け止めて生き続けることが大切なのです。アンサング・ヒーローの項目でボールが落ちていく不安定つり合いの話をしました。この現象こそがまさにシーシュポスの神話の状況そのものだと考えらえます。落ちていく岩をひたすらに(誰に知られることなく)防ぎ続けている贈与者、シーシュポスは「自己の存在のおかれた立場」を理解することになったのです。だからこそ「すべて、よし」と思うことができたのではないでしょうか?

4 まとめ

今回は「贈与-お金では買えないもの-」について考えてきました。動画の中では紹介することができなかったこともまだまだありますので、ぜひ本書を手に取って資本主義のすきまを埋める倫理学のヒントをGETしてください。この動画をみてくれたあなたが「贈与」の差出人になってくれたら―そんな人が1人また1人と増えていくことでこの社会は少しずつよくなっていくはずです。この動画を作成したわたしはある意味では「差出人」の立場になりますので、それが皆さんのもとにきちんと届くかどうかはわかりません。しかしこのチャンネルを通してあなたが贈与を受け取っていたことに気づくことができる、そんな動画をこれからも制作していきたいと思います。

「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。これからも「哲学の補助線」を活かしていろいろな本を紹介していきますので、ぜひゼロから一緒に学んでいきましょう。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。

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