【運を哲学する】人生の不運に哲学で抗う!運に左右されない人生を送るためのヒント♪

哲学×悩み

今回は「運に左右されない人生」について考えていきましょう。参考文献は『運を哲学する』(著者:小川仁志さん)です。

【運を哲学する】人生の不運に哲学で抗う!運に左右されない人生を送るためのヒント♪

人生とはいうまでもなく「不平等」なものです。親、生まれた国、時代、人間関係…ほとんど全てが「運」で決まるのです。多くの人は運に左右されて「こんなはずじゃなかった」という人生を送ることになります。しかし哲学という教養があれば考え方と行動をかえるきっかけを見つけることができます。

もちろん哲学そのものがお金を生み出して悩みを解決してくれるわけではありません。しかし哲学を学ぶことで幸せに生きていくための「考え方」を見つけることができます。哲学とはまさに「ものの考え方を変えるためのツール」なのです。

自分が選択できない問題の最たる例こそが「運」ではないでしょうか?こんな状況にあるのは運が悪かったからだ」という嘆きや不満を抱く人は多くいます。今回はそんな人たちが運に左右されずに幸せに生きていくためのヒントを紹介します。哲学というと難しいと感じてしまう人も多いかと思いますが、本書は誰もが知っている子どもの遊びとマンガやアニメを組み合わせて構成されています。そして運のパターンを次の5つに分類して紹介しています。

  • ガチャガチャパターン…一発勝負で運命が決まり交換不可能
  • 駄菓子屋のくじパターン…あたりをひいたつもりでもはずれることがある
  • アトラクションパターン…一部の該当者のみ絶対にNG
  • カードゲームパターン…持ち札は選べないけど交換可能
  • 花いちもんめパターン…選ばれなくてもアピール次第で起死回生

思い起こせば私たちは子どもの頃からずいぶん運に左右されるあそびをしてきました。私たちはあそびの中から運に抗う方法を自然と学んでいたことになるのです。だからこそ同じように運に左右されずに幸せに生きる方法を見つけることができるのです。「進撃の巨人」「花より男子」など誰もが知っているマンガで面白く学んでください。今回の動画は「哲学を始めてみたい」という方にピッタリの内容になっています。ぜひ哲学の面白さを実感して頂けるはずですので最後までごらんください。

1 「ガチャガチャ」パターンの不運

ガチャガチャといえば昭和のカプセルから現代のソシャゲまである馴染みのゲームです。その特徴は一発勝負であり交換不可能であるというところです。にぎりしめた100円をお目当てのものをGETできた時の喜びは今も忘れられません。同時にはずれた時のがっかり感はわかっていても悲しいものです。

近年いろいろなものを「ガチャ」にたとえる風潮が散見されるようになりました。「親ガチャ」「上司ガチャ」「学校ガチャ」「容姿ガチャ」などなど、ガチャの結果は全くの運であることから何が出ようと自分に責任はありません。

では同じように親などもガチャの結果であり自分に責任はないといえるでしょうか?たしかに親や時代を選ぶことはできないという点ではガチャと同じなのかもしれません。しかしだからといって人生を諦めてしまってもいいのかといえば…ちがいますよね。なぜならガチャは運によってすべてが決まりますが人生は必ずしもそうではないからです。第1章ではガチャをテーマに不運や不幸とどのように向き合えばよいのかを紹介します。

九鬼周造×天才バカボン

親ガチャという言葉をよく目にするようになりました。親をガチャにたとえるなんてとんでもないと思う人もいるのはたしかですが、それ以上に世の中の不条理を受け入れて諦めともいえる状態で生きることを余儀なくされた若者の心中はいかばかりかでしょうか。

親ガチャに苦しんだ日本の哲学者といえば九鬼周造です。九鬼はいい家柄に生まれましたが九鬼を妊娠中だった母親が、父親の部下であった美術家の岡倉天心と駆け落ちをしてしまったのです。そのことから九鬼は「偶然性」について深く考えるようになりました。九鬼は「偶然性とは必然性の対極にある概念である」と考えました。そして偶然が起きることにはどのような意味があるのかを考えようとしたのです。

九鬼は無数の可能性の中から自分が生まれてきたということに目を向けて、ここに生きているという偶然性に運命愛を見出そうとしたのです。これは親ガチャという変えることのできない運命に苦しむのではなく、生まれてきたことそのものを肯定的にとらえることが大切だということです。

ここでバカボンのパパについて考えてみましょう。バカボンのパパは破天荒で常識をかくだけでなく嘘をつき暴力もふるいます。親ガチャとしてはダメな方だと思いますがそれでもバカボンはパパが大好きですよね。またバカボンの弟のハジメちゃんはまじめで天才なのですが、パパと一緒になってバカなことをする兄は完全に兄弟ガチャのはずれです。

たしかにはずれといえるような血縁者を愛することはできないかもしれません。しかし自分の存在だけは―自分の運命だけは愛してあげてもいいのではないでしょうか。不思議なことに自分を大切に―愛することができる人は周囲の人も大切にできるそうです。誰かを憎んでいては心が落ち着かずものごとに集中することもできなくなります。

もしかしたら、それは赦すという行為に近いのかもしれません。親ガチャの結果を変えることはできませんが自分の運命を選ぶことはまだできます。まずはこの言葉からはじめてみてください。

「これでいいのだ!」

アルベール・カミュ×進撃の巨人

壁の向こうにいる巨人が侵入して人間を食べてしまう物語、進撃の巨人ほど「不条理」という言葉が合うマンガはないかもしれません。巨人がいる国や時代に生まれなければこんなことにはならなかったのに―主人公のエレンは巨人のいる国に生まれるという国ガチャにはずれただけでなく、自身が巨人に変身するなど物語の根幹にかかわる秘密をかかえて生まれてしまったのです。エレンの境遇をあらわす言葉があるならば、それは不条理しかありません。

「不条理」といえばこれまで何度も紹介してきたアルベール・カミュが思い浮かびますよね。カミュは『ペスト』の中でパンデミックにおける緊急事態宣言下の生活を描きつつも、実は戦時下のナチスにおびえる人たちのメタファーを描いていたといわれています。

カミュが不条理な状況に抗うために考えたことは「反抗」です。革命や攻撃ではなく境界や前線で抗い続けること―これを「反抗」とよんだのです。『シーシュポスの神話』においてもシーシュポスは山頂に岩を運ぶ試練を与えられます。しかしその岩は山頂につく直前に落ちてしまうのでこの苦役が終わることはありません。しかしカミュはこのような不条理な人生を肯定することに意味を見出したのです。

日本という国で考えるならば津波や地震という自然災害の恐怖と闘いながら、ミサイルをとばす国や平気でうそをつく国が近くにいる一方で大国にATM扱いされているという状況でいつ戦争に巻き込まれるかもわからない―。少子高齢化で若者よりも高齢者を優遇することでしか考えることのできない無能な政治家、このような不条理な状況の中でわたしたちにできることは何でしょうか?それこそがカミュのいう反抗―すなわち抗い続けるということなのです。どんな不条理だとしてもそれを受け入れることからすべては始めるのです。

1-3 メルロ=ポンティ×「どろろ」

手塚治虫の名作「どろろ」の主人公百鬼丸は身体ガチャ(容姿ガチャ)にはずれた人物です。百鬼丸の父親は権力と引きかえに妖怪たちに子どもの身体のパーツを与えてしまいました。そのため百鬼丸は生まれながらに頭と胴体しかなく身体に48もの欠損があるのです。

さて身体についての哲学者といえばやはり何度も紹介しているメルロ=ポンティです。メルロ=ポンティは初めて本格的に身体を哲学の主題にした哲学者であり、「身体は自分と世界とを媒介するものである」と考えました。つまり自分の意識と外側の世界をつなぐものこそが身体であるということなのです。

百鬼丸は相棒のどろろと妖怪退治の旅に出ることになります。そして妖怪を退治することで失った身体のパーツを1つ1つ取り戻していくのです。百鬼丸はその過程で自分を知り、世の中を知っていくことになります。最終的に百鬼丸は権力欲におぼれた父親との確執をも見事に乗り越えることになります。(もちろん美しい和解や単なる復讐でもない複雑な結末なのですが…)

この部分だけを考えるのであれば「親ガチャ」とも考えることができるかもしれませんね。メルロ=ポンティの哲学をもとに百鬼丸から学ぶことができるのは「身体の問題は身体だけで解決するものではない」ということです。なぜなら身体とはあくまで自分と世界をつなぐインターフェースだからです。大切なことは身体そのものではなく身体をどう使うのかということなのです。

メルロ=ポンティはこの世界のすべては「肉」という1つのものだと考えました。そして、わたしたちの身体もその「肉」の一部にすぎないのです。このように考えてみると何かが欠けているかどうかは問題ではないのかもしれません。

「どろろ」では最終的に身体のパーツをすべて取り戻すところまで描かれていません。百鬼丸にとって身体が失われているかどうかはもはや問題ではなくなったのかもしれない、そんな考察をしてみることもできる終わり方になっているのです。あるテレビ番組でALSを発症して身体の自由を失った患者さんが周囲のサポートを受けて強い意志と明るい性格で外食やスポーツを楽しむ様子が放送されていました。たしかに身体に何らかの不自由があることはそれだけを見ればはずれのガチャです。しかし大切なことは身体と外部の世界を一体のものとして捉える発想です。少なくともそのように考えることができれば、身体を交換することはできなくても不幸な人生を交換することはできる気がします。

2 「駄菓子屋くじ」パターンの不運

駄菓子屋といえば安いお菓子がたくさん置いてある主に子どもを対象にしたお店です。昭和の頃は学校や塾の帰り道に子どもが立ち寄る光景がよく見られたものです。駄菓子屋くじはその中でくじのついたお菓子のことです。あたりとはずれがあるところはガチャガチャと同じですが、異なるのは選択肢のある中から選んで購入することができるという点です。限られた予算の中からどのお菓子にするかを選んで購入するという特徴があります。つまり何がでるかわからない(責任があるわけではない)ガチャとちがって、駄菓子屋くじはある程度の責任を自分で負わなければいけないところがあるのです。

私たちは生きていくうえで多くの「選択」をしなければいけません。たとえば「学校」「結婚」「住居」「会社」などが考えられます。それが大きな決断になればなるほどはずれをひいてしまった時の代償は大きくなります。第2章では駄菓子屋くじをテーマに失敗とどのように向き合えばよいのかを紹介します。

2-1 サルトル×花より男子

フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは「人間だけが自分の人生を選びながら生きていくことができる」と考えました。そして「実存は本質に先立つ」という言葉を残したのです。

実存とは現実の存在のことであり、本質とは変えることのできない運命のようなものです。つまり運命は変えることができるという意味なのです。もちろん自分で運命を選択しなければいけない以上その責任も負わなければいけません。そのためサルトルは「人間は自由の刑に処されている」とも考えました。

いい学校だと思って入学したら思っていた雰囲気とちがって退学することになったとか、いい人だと思って付き合ったら全く気が合わなくてすぐに分かれることになったとか…。私たちは何かを選びながら人生を歩んでいくしかありません。そして失敗するたびにその代償を背負う責任をもたなければいけないのです。特に結婚や住居の選択は人生にとっても大きな決断となります。もし失敗してしまったらその代償は大きくなかなか立ち直ることは難しいかもしれません。

自分が選んだのだからうまくいかなかったのなら自分を責めるしかないのでしょうか?サルトルは「アンガージュマン」という概念を唱えました。アンガージュマンとは積極的なかかわりを意味するような言葉です。サルトル自身も戦争に従軍させられるなどどうすることもできない経験をしていました。だからこそ実存は変えようとあがき続けることにも意味があると考えたのです。そして実際に反戦運動をはじめとする多くの社会運動に参加するようになりました。

たしかに選択の結果が現在の不運な状況にあるのは自分の責任といえるかもしれません。しかしその不運を解決する選択をすることができるのもまた自分の責任だといえます。何も選ばなければ不運に見舞われることはないと思うかもしれませんが、それも「何もしないこと」を選んでいることになるのです。

「花より男子」の主人公である牧野つくしは英徳学園に入学することになります。ここは富裕層や権力者の子弟が集まる学校なのでつくしは壮絶ないじめにあうのです。しかし学校を牛耳るF4に屈することなく抗い続けた結果、その中のリーダー格である道明寺つかさと恋におちることになるのです。(もちろん実際にひどい目にあっているなら逃げることも大切な選択なのですが)

昔とちがって今では学校に通わなくてもよい風潮が認められるようになってきたり、ブラック企業は転職した方がよいという考え方が一般的になってきたりしています。また学校の中ではどの部活に入るのか、誰と友人関係を築くのかなども選択できます。

何が正解なのかわからない時代だからこそ自分の選択を大切にしなければいけません。エンゼルバンクというマンガでは、豊かな社会とは「たくさんの種類の中から自由に選べる社会」だと述べられています。人生とは選択の連続です。選択できることの豊かさを感じるところからはじめてみてください。

2-2 荘子×魔女の宅急便

大人になると住む場所をある程度自分で決めることができるようになりますよね?あれこれ悩んだ挙句にひどい場所に住むことになったら大変です。ローンを組んで住居を購入した場合は取り返しのつかないことにもなりかねません。

魔女の宅急便の主人公キキは修業のために知らない街で1人暮らしをすることになります。ところが、自分ではお気に入りの街を選んだつもりだったのですが苦労の連続でした。キキは様々な苦労を乗りこえて最終的にはその街が好きになるというお話です。

良いと思って選んだ結果いろいろなことがあって後悔をするものの、それを乗りこえて最終的にはその場所が好きになるというのはまさに荘子の万物斉同です。中国の思想家である荘子はこんな言葉を残しています。「天地という全体世界は1つの指であり、万物という全体世界は1つの馬であるという万物斉同に達するのである」

これは単純にすべての物事は区別することができないということではありません。荘子は全てのものが1つであるのだからどの道を選んだとしても同じだと考えたのです。「あっちにすればよかった」と思いがちですがそうではないと荘子は指摘しているのです。たしかにいくつかの候補をあげて選んでいるのだから違う選択肢もあったかもしれません。しかしそれでも最終的には「これ」という選択を決断したのです。

このように考えると、実は少し楽な気持になることもできます。この選択しかなかったのだから運が悪かったと後悔する必要がなくなるからです。魔女の宅急便ではキキが親に向けて「落ち込むこともあるけれど、私この町が好きです」という手紙を書きます。どんな場所であっても自分の決断を信じることで住む場所は自分の一部となっていきます。その道しか選ぶことができなかったと思ってみるのもいいかもしれません。

3 「アトラクション」パターンの不運

遊園地のアトラクションと運に関係があるのかと思いませんでしたか?これは「利用できる人に制限がある」ということなのです。年齢や体格などある特定の人だけがその恩恵を享受できないという不運のことです。アトラクションというのはもともと引き付けるものという意味の英語です。ジェットコースターなどのアトラクションはまさに私たちを魅了する乗り物です。にもかかわらず、それがある特定の条件によって制限されてしまうのです。

人生においても挑戦したいのにダメだと言われることがありませんか?人間というのは難しいからこそ、危険であるからこそ挑戦するようにできているのです。この章ではこのようなジレンマをもたらすできごとについて考えてみましょう。

3-1 ベンサム×らんま1/2

メリットを最大化させるために基準を決めて線引きをすることを功利主義といいます。ジェットコースターは身長の制限をすることで全体の幸福が増えるとしているのです。(乗せることの幸福よりも乗せたことで起こる事故などを防ぐ方が重要であるため)

功利主義の有名な哲学者はイギリスのジェレミー・ベンサムです。ベンサムはものごとの判断基準はプラスがマイナスを上回るかどうかだけだと考えました。これは「最大多数の最大幸福」という言葉で表現されます。

たしかに世の中は大多数の人に合わせていろいろなものが設計されています。だからといって犠牲となった少数のことを考える必要はないのでしょうか?高校生格闘家である早乙女乱馬は水をかぶると女性になるという特異体質をもっています。中国に修業に行った際にそうなってしまったのですがお湯をかぶれば元にもどります。このように性別がころころ変わるような少数の人のために社会は制度設計されていません。乱馬は社会生活を送る上でも相当な不便を強いられることになります。女性の体の時に女風呂に入ろうにもお湯をかぶったら…ということです。ちなみに乱馬の父親は性別が変わるどころか水をかぶるとパンダに変身してしまいます。

乱馬のような事例は現実にないとしても同じように不合理に苦しむ人がいるはずです。たまたまある条件で生まれてしまったことで権利を剥奪さるとしたらどう思いますか?こんな時はいっそのことベンサムのせいにしちゃいましょう。悪いのは自分でもなければ多数者でもなく基準そのものなのだ!と。だからこそ、声をあげることでその基準を変えてしまえばいいのです。

今の世の中があるのはこれまでも誰かが声をあげ続けたからです。女性の権利やLGBTの権利も声をあげた人がいるから認められるようになったのです。たしかに最初は多数者に合わせて制度を設計する方が多くの幸福をもたらすと思います。しかしそれに合わないのであれば堂々と声をあげればいいのです(もし反対するという人には自分がその立場になったら…と考えてもらいましょう)

功利主義の考え方は世の中の多くの場面で採用されています。この原理を知っていることで自分に何ができるかを知るきっかけをつかむことができます。

4 「カードゲーム」パターンの不運

カードゲームと言われて思いつくのはトランプの大富豪やポーカーなどですよね。カードゲームの特徴は自分のカードを交換するところにあります。配られたカードは選べないかもしれませんが意志と運を頼りに変えることができます。これは人生の中のいろいろな場面のメタファーとなっているのです。たとえば容姿や教育、名前や性格などがそれにあたります。最初は自分で選ぶことはできなくても自分で変えることができるチャンスが残っています。アトラクションとはちがってより積極的に不運な状況を変えることができるのです。ただし配られるカードが運に左右されるように選んだ選択もまた最終的には運といえます。ある意味では賭け(ギャンブル)なのですが人生とはその意味でまさにギャンブルなのです

4-1 ローゼンツヴァイク×君の名は。

名前とは何かを考える上で参考になるのがドイツの哲学者ローゼンツヴァイクです。ローゼンツヴァイクは「名前とは今日と明日をつなぐ保証」だと考えました。たとえば記憶喪失になっても名前が変わらなければ昨日と今日の自分はつながっています。しかし名前がわからなくなってしまうと、昨日までの自分というものは消えてしまいます。名前が思い出せないことでその人の存在が不確実なものになってしまうということです。

映画「君の名は。」では主人公の2人の身体がある日入れ替わってしまいます。その入れ替わりは何度か続くのですがやがてそれも終わる時がきます。夢の中で出会った人にもう一度会おうとしても名前を思い出すことができないので、「君の名は?」と2人は叫ぶことでその存在を確認しようとするのです。

ローゼンツヴァイクは「いま」と「ここ」によって名前が規定されると言いました。私たちは誰もが名前を呼ばれた瞬間にその名前と一致する自分の存在を認識できるのです。(意識を失っている時に名前を呼ばれて目覚めた時を考えてみてください)

「君の名は。」ではお互いに姿が見えなくても名前を呼ぶことで相手の存在を認識しました。たとえそれが時間をこえて同じ場所で出会うことができたように―ローゼンツヴァイクは名前が人間におのれ自身を超えるよう指示してくると指摘しました。たとえば誰かを応援する時にその人の名前を連呼するように。また「名前負け」という言葉があるように名前の意味に負けない生き方を要求されます。私たちは名前に運命を導かれているという側面があるのかもしれません。

カトリックでは洗礼の際の名付け親のことをゴッドファーザーといいます。もし自分の名前が気に入らなければ自分で変えることもできます。それはつまり、自分の新しい生き方の宣言でもあるのです。もしかしたら名前とは目標であり道しるべのようなものなのかもしれません。名前とは「名が前にあって生き方が後ろにある」という意味でもあるのです。同じ名前の人であっても生き方はそれぞれちがうことになるからです。

「君の名は。」の最後に主人公は「ずっと誰かを探しているような気がする」と言います。名前と共に失われた記憶を頼りにずっと探し求めていたのです(そして出会います)。「君の名は。」という言葉をぜひ自分にも問いかけてみてください。

5 「花いちもんめ」パターンの不運

花いちもんめという遊びをしたことがありますか?2組に分かれて歌を歌いながらお互いのメンバーを交換していくという恐ろしい遊びです。なぜ恐ろしいかと言えば、魅力がない子は選ばれずに最後まで残ることになるからです!選ばれる方に選択権はないので、選ばれるのを待つしかないのです。この場合、運だけでなく本人の資質なども影響することもその残酷性に拍車をかけます。「運が悪かった」と運のせいにできるのならばまだしも、選ばれるかどうかは自分のスペック次第なのです。

この章で扱うのはまさに人生における選ばれるかどうかの問題に関するテーマです。たとえば、恋愛、人間関係、評価、オーディションなどがあげられます。私たちは否が応でも人間関係の中で生きていかなければいけません。快適に生きること、得する生き方ができるかどうかはアピールにかかっています。

5-1 マーク・トウェイン×宇宙兄弟

年功序列の終身雇用は幻想となり今ではすっかり成果主義も定着してきました。まさに現代は評価の時代といっても過言ではありません。アメリカの作家マーク・トウェインのエッセイ『人間とは何か』には「人間即機械―人間もまた非人格的な機関にすぎん」と書かれています。つまり人間とは自分の意志や努力ではどうすることもできない外的諸力(遺伝、人間関係、生息地など)によって動かされている存在だということです。シェイクスピアも無人島に生まれていたら数々の名作は生まれなかったということです。だからこそ人間を評価しても仕方がないと考えたのです。

同じ人間であるなら誰もが尊厳ある存在であり外的影響により差が出ているだけなのです。そのこと自体に優劣をつけるのは間違いであるということなのです。マンガ「宇宙兄弟」では幼い兄弟がともに宇宙飛行士を目指す物語です。弟の南波日々人は優秀なので若くして宇宙飛行士になる夢を実現させます。いっぽう兄の六太は思いやりがあるけど繊細で臆病な性格のため夢破れてしまいます。しかし再び宇宙飛行士を目指すことになり必死に自分をアピールしようとするのです。選考の時に候補者たちがいがみ合っていると六太は宇宙の話をしようと提案します。ほかの候補者と比べて優秀ではない六太ですがこうした場面を見た審査員に認められます。

もし人間が外的な力に影響される機会に過ぎないのであれば、努力が足りないとか実力がないからと評価されることを恐れる必要はなくなります。必要なことはただチャレンジすることだけなのです。著者の小川仁志さんもチャレンジをすることで運をつかみとった経験があるそうです。哲学者として本を出版するためにいろいろな出版社に持ち込みをしたのです。評価されるかどうかは運も関係したかもしれませんがある日それが叶ったのです。

評価されることをおそれてチャレンジしなかったらこの本を読むこともできませんでした。今は評価されなくても必ずそれを認めてくれる人はいるはずです。まずは評価におびえずチャレンジすることから始めてみませんか?

5 まとめ

今回は「運に左右されない人生」について考えてきました。動画の中では紹介することができなかったこともまだまだありますので、ぜひ本書を手に取って教養としての哲学をふかめていってください。

一発勝負で交換不可能なガチャパターンの不運

選択肢の中から自分で選ぶくじパターンの不運

特定の制限がかけられるアトラクションパターンの不運

手札を交換することができるカードゲームパターンの不運

選ばれるかどうかが問題となるはないちもんめパターンの不運

人生には5つの不運のパターンがあることを理解すること。そしてそれらの不運にどのように向き合うのかを哲学の視点で考えること。「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、哲学の教養があれば人生の不運もうまく乗りこえていくことができるはずです。

「人間は思考することをやめてしまえば誰もがナチスのような巨悪になりうる」共哲学の哲学者ハンナ・アーレントはこのように言いました。これからも「哲学」のおもしろさを発信していきますのでぜひゼロから一緒に学んでいきましょう。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。

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