前回の動画では『チ。-地球の運動について-』の紹介をしました。今回は『チ。-地球の運動について-』に登場する名言の数々を紹介したいと思います。参考文献は『チ。-地球の運動について-』(作者:うおとさん)です。
「チ。」はニコラウス・コペルニクスが登場するに至る前日譚を描いたフィクションです。ポーランドの天文学者コペルニクスの登場こそが天動説を覆すきっかけとなったのです。コペルニクスは『天球の回転について』の中で太陽中心説―「地動説」を唱えました。そのため物事の見方を180度かえるような発想は「コペルニクス的転回」と表現されます。
その後「地動説」はガリレオ=ガリレイが観測したことによって実証されました。そのため現在では「地動説」を誰もが当たり前のこととして理解しているのです。この「地動説」をテーマにした作品こそが「チ。-地球の運動について-」なのです。作品の概要や登場する哲学者については前回の動画をぜひご覧ください。
今回は登場人物たちの語る珠玉の名言の数々をご紹介したいと思います。『チ。』は地動説をめぐる人間たちの「タウマゼイン」を軸にした壮大な物語です。「タウマゼイン」とは知的探求の原始にある「驚異」のことであり、この世の美しさに痺れる肉体のこと、そこに近づきたいと願う精神のことです。
プラトンは著書の中で師ソクラテスを登場させて次のように語らせました。「実にその驚異(タウマゼイン)の情こそ知恵を愛し求める者の情なのだ。つまり哲学の始まりはこれよりほかにはないのだ」
またアリストテレスも著書の中で次のように述べています。「けだし、驚異することによって人間は…知恵を愛求(哲学)し始めたのである」
ラファウは死の間際「今はあの頃よりハッキリと宇宙がよく見える」ことに気づきます。オクジ―はバデーニから地動説の可能性を聞かされた際に空を見て、「今日の空、なんか綺麗じゃないですか?」と気づきます。またピャスト伯の邸宅でオクジ―は満ちた金星を見た時にも「ずっと前と同じものを見ているのに少し前からまるで違く見える」と言います。そしてバデーニはオグジーに向かって「それが何かを知るということだ」というのです。第3章でドゥラカは死の間際にすべてムダだった―まちがいだったと後悔します。私の人生は一体なんのために…と。しかしその時まぶしいほどの朝日がドゥラカを照らすのです。朝日のことを嫌いだったドゥラカはその美しさに感動し涙を流します。そして両手いっぱいに朝日を受け止めておだやかな表情で最後の瞬間を迎えるのでした。
真理の探究において最も重要なことは自分の直感と世界の絶美を信じることです。「タウマゼイン」こそが人類を真理の探究へと導いてきたといっても過言ではありません。そんな真理の探究に命をかけた人物たちの言葉から何かを学ぶことができればと思います。今回は名言の紹介なのでぜひ皆さんの気に入った言葉があればコメントで教えてください。
1 「不正解は無意味を意味しない」
これは第1巻でフベルトが地動説を信じることができないラファウに伝えた言葉です。そしてラファウもまた死を迎える直前に自らこの言葉をノヴァクに向かって言うのです。私たちはどうしても「不正解」であることを恐れてしまうものです。いま自分が取り組んでいることは正しいのだろうか?自分が進んでいる道はまちがっていないのだろうか?ついついそんなことを考えてしまいがちです。しかしたとえそれが不正解であっても決して無意味なことなどないのです。
ピャスト伯はオクジ―が満ちた金星を確認した時に涙を流して研究成果を渡します。なぜならその事実は天動説を完成させることに人生をかけてきたピャスト伯にとって、これまで自分が研究してきた全てを否定されることになるからです。
「過去の積み重ねの先に答えがないのなら真理にとって我々は無駄だった…」
このようにつぶやくピャスト伯に対してバデーニは
「過ちであっても何かを書き留めたことは歴史にとって無意味ではない」と答えます。
実際ピャスト伯の研究成果があってこそバデーニは地動説を完成させることができました。今こうしてあなたが取り組んでいることがたとえ不正解だとしても、「不正解は無意味を意味しない」とぜひ自分に伝えてあげてください。
2 「僕の直感は地動説を信じたい」
これは第1巻でラファウがフベルトの残した資料を目の前にして言った言葉です。フベルトは手紙で自分が残した資料を燃やしてほしいと書き残しました。ラファウはフベルトの資料を燃やすことを決意して火をつけます。たしかに理性的に判断すれば資料を燃やすことが正しい選択だったのかもしれません。しかしラファウは理性よりも直感を信じたのです。
ビジネスシーンでは長らく「論理的思考」が正しいと言われてきました。ロジカルシンキングについては、ぜひこちらの動画を参考にしてみてください。近年そのロジカルシンキングよりも重視されているのが直感なのです。なぜならVUCAの時代においてはこれまでのような論理だけにもとづいた経営ではなく直感的に「真・善・美」を判断することができる哲学の素養が求められるのです。ドイツ観念論のイマヌエル・カントは理性と感性の問題について、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という著書をのこしましたが。これら3つの著書こそがそのまま「真・善・美」について考察したものとなっているのです。
これまでのように「分析」「論理」「理性」だけに軸足を置いた「論理的思考」―つまりサイエンスを重視した意思決定の経営手法が通用しなくなってきているのです。その理由は以下の3つにまとめられます。1つ目は「論理的・理性的な情報処理スキルの限界」が露呈してきたという点です。そのためアートとサイエンスのバランスを捉えなおしたうえで全体を「直感的」に捉える感性と「真・善・美」を創出する創造力が求められるのです。2つ目は世界中の市場が「自己実現的消費」に向かっているという点です。このような市場においてはこれまでのような大量生産・大量消費を是とする経営よりも承認欲求や自己実現欲求を刺激する感性や美意識が求められるのです。3つ目は「システムの変化にルールが追いつかない」状況が発生しているという点です。そのため明文化されたルールや法律だけをよりどころにするのではなく、内在的に「真・善・美」を判断するための「美意識」が求められるようになるのです。
また将棋棋士の羽生善治さんは著書『直感力』において「何をしたらいいのか、どうなっているのか見えにくい時代を生きていかねばならない。そのときのひとつの指針となるのが直感だ。」と述べています。将棋の世界には「長考に好手なし」という格言もあるほどなのです。
さらに「直感」をキーワードにして近年おおきな飛躍を遂げた企業が「マツダ」なのです。これまで日本車のイメージと言えば「品質」や「燃費」などが高い評価を受けてきました。しかし近年のマツダはいくつもの世界的に有名なデザイン賞を受賞しているのです。マツダでは世界のトップブランドとしてデザイン面でも競争力を保つためには「日本の伝統的な美意識」を生かすことが必須であると考えたのです。そのためにもマツダでは「顧客に好まれるデザイン」よりも「顧客を魅了するデザイン」をねらった上から目線の内部のモノサシをもっているのです。そして最終的にデザインの良し悪しを判断するのは「直感的にいい」かどうかなのです。これは「一目見たその瞬間に感動できるかどうか」ということです。マツダでは「説明が必要なデザインでは人を感動させられない」と考えられているのです。
まずは「哲学に親しむ」ことが美意識をはじめとする直感を高めることにつながります。イギリスやフランスにおける哲学教育の重要性はこれまでの動画でも紹介したとおりです。たしかにデカルトの「我思う、ゆえに我あり」やソクラテスの「無知の知」という言葉だけを知っていても意味はありません。しかし哲学者がどのように思考してその気づきに至ったのかというプロセスや哲学者がどのように世界に対して向き合ったのかという姿勢には大きな意味があります。
たとえば古代ギリシアのアナクシマンドロスという哲学者はある日「大地は水によって支えられている」という定説に疑問を抱くようになります。なぜなら「もし水に支えられているのであれば水も何かに支えられているはず」だからです。そして無限に何かを支え続けているということはありえないので最終的に彼は「地球は宙に浮いている」という仮説を導き出したのです。現代の私たちからすればそのこと自体には新しい発見はありませんが、はるか昔に思考することのみによって真理を明らかにした知的態度は参考になるはずです。直感と言うとどこか疑わしい気がしてしまいますが、これからの時代を切り拓くための重要なキーワードこそが「直感」なのです。
3 「人は悲劇を肥やしに時に新たな希望を生み出す」
これは第2巻でオクジ―が異端者を移送する馬車の中での異端者が話した言葉です。異端者は「2000年間アテナイの老人が毒杯をあおった惨事から哲学が生まれた」「1500年前ナザレの青年が十字に磔にされた無念が今のC教を形作った」と言います。アテナイの老人はソクラテス、ナザレの青年はイエス・キリストのことを示しています。
古代ギリシアの哲学者で「無知の知」で有名な哲学の祖ソクラテスは「アテネの信じる神を信じることなく若者を堕落させた罪」で死刑判決を受けました。イエスはもともとユダヤ教を信仰する人物でしたがその教えを批判するようになりました。イエスの宗教活動によって人々は次第に「救世主(キリスト)」だと思うようになるのです。しかしユダヤ教の司祭から危険人物とみなされゴルゴダの丘で十字架刑に処されたのです。イエスはその3日後に復活して多くの弟子の前に現れ40日後に昇天したとされています。
キリスト教はその後カトリック、正教会、プロテスタントなどに派閥がわかれていきます。これはローマ帝国が東西分裂したことがきっかけでキリスト教も東西に分裂したためです。東の「東方教会」が現在の「正教会」のもとになっています。ギリシア正教会やロシア正教会とよばれる一派のことです。西の「西方教会」が現在の「カトリック」のもとになっていますが、宗教改革によってさらに「プロテスタント」という派閥にわかれていきます。教義のちがいを説明すると大変なのですが「神父(司祭)か牧師か」、「ミサか礼拝か」、または「教会にマリア像があるかないか」で判断することができます。
プロテスタントの一派はイングランド王の弾圧をおそれてアメリカ大陸に渡りました。この時メイフラワー号に乗った102人の清教徒が有名なピルグリムファーザーズです。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』では、プロテスタントの経済倫理が近代資本主義に大きく影響したことが指摘されています。世界中に約23億(世界人口の3割)の信徒をもつキリスト教への理解はグローバルな世界で活躍するための必須の教養となるのでぜひ覚えておいてください。
歴史を振り返れば、たしかに数々の悲劇こそが新たな希望を生み出してきたといえます。(もちろん、悲劇はないにこしたことはないかと思いますが…)歴史(特に世界史)への理解もこれからの社会に必須の教養となることでしょう。
4 「文字はまるで奇跡ですよ」第3巻
文字を読むことができないオクジ―はヨレンタに文字が読めることについて問いかけます。その時にヨレンタが言ったのがこの「文字はまるで奇跡ですよ」なのです。文字は時間と場所を超越することができます。文字があれば200年前の情報に涙を流すことも1000年前の噂話に笑うこともできます。
私たちの人生はどうしようもなくこの時代に閉じ込められているにもかかわらず、文字を読むときだけはこの時代から抜け出すことができるのです。そして文字になった思考はこの世に残ってずっと未来の誰かを動かすこともできます。実際この言葉は第3章でヨレンタが再び口にすることになるのです。ドゥラカの記憶を元に本の復元をすることで古い友人であるオクジ―に会えたのです。たいした移動手段もあまりなかった古代から中世という時代において、本をはじめとする文字がどれほど貴重であったことでしょうか?中世においては文字を読むことができるのは一部の人たちだけだったと言われています。そのため教会の教えを疑うこともなく信仰することしかできなかったのかもしれません。
ヨーロッパの識字率を大きく向上させることに貢献したのが宗教改革と活版印刷です。ドイツの神学者マルティン・ルターは「95ヶ条の論題」をはじめとするさまざまな議論を巻き起こしたことで教会から破門されてしまいました。しかしザクセン選帝侯のいるヴァルトブルグ城にかくまわれている時に新約聖書を誰もが読めるようにドイツ語に翻訳したのです。翻訳は活版印刷によって多くの人たちに読まれドイツ語の発達にも影響を与えました。そして宗教改革や科学革命をへて中世という暗黒時代は終わりを迎えることになるのです。
ちなみに同じ時期の日本(江戸時代)の識字率は武士階級でほぼ100%だったそうです。そして全国平均では40%なのでいかに日本の識字率が高いのかがわかると思います。日本が近代になっても欧米列強に征服されなかった要因の1つこそ識字率だともいえます。文字が当たり前のように読めることの素晴らしさをあらためて噛みしめたい場面です。(もちろん文字のおかげでこうしてみなさんと交流できることにも感謝する毎日です)
5 「第三者による反論が許されないならそれは信仰だ」
これは第4巻でオクジ―がバデーニに対して言った言葉です。「自らが間違っている可能性」を肯定する姿勢が学術とか研究にとって大切であることは現在では当たり前とされる考え方です。しかしこのような考え方が受け入れられてきたのはつい最近のことなのです。オーストリア出身のイギリスの哲学者カール・ポパーは科学(学問)的な命題かどうかを区別する基準は「反証可能性」にあると主張しました。反証されたらその主張を撤回する態度こそが科学的な態度であり人間の知識はまちがえることが前提になっているという考え方です。これを「批判的合理主義」といいます。
天国へ行くことを願うオクジ―はフベルトの石箱にかかわった2人が「託す」ことで希望を見出していたことをバデーニに指摘するのです。そして反論や訂正されることが「託す」ことの本質であり、他者が引き起こす捩れが現状を前に向かわせる希望なのではないかと言うのです。バデーニはそのような姿勢を受け入れたら目指すべき絶対真理を放棄することになり、学者は永久に未完成の海を漂い続けることになる悲劇であると否定します。
しかしオグジーは間違いを永遠の正解だと信じ込むよりマシではないかと言うのです。作者の魚豊さんは「勘違い」の1つの大きなテーマとしてこの作品を書いたそうです。現在テレビでも放映中の『チ。』はいろいろなところで話題になっているいっぽう、SNSなどでは「宗教へのあやまった理解を増長している」という批判もあるそうです。これは史実的にはマンガに出てくるような極端な異端審問の場面は虚構であり、宗教と科学の対立をステレオタイプのように描いていることが原因なのかもしれません。しかし作者の魚豊さんはそのような歴史的事実も了解したうえで、それでも「勘違い」をテーマにした作品を描きたいというような趣旨の発言をされています。
自分の「絶対」という思いこみこそが歴史上数々の悲劇を生み出してきた元凶である。そのことを忘れないようにしておきたいと思う今日この頃です。
6 「死を受け入れるためだ」
シュミットの部下であるレヴァンドロフスキが異端解放を続ける理由をドゥラカに問われた時に語ったのがこの言葉です。なぜならレヴァンドロフスキは妹が10歳になった時に病気で死別しているのです。その妹がこう言ったのです「私はなんのために生まれてきたの?」レヴァンドロフスキはこれに答えることができませんでした。
「死」は人が最も受け入れることから目を背けているものの1つです。「死」について、わたしたちはどこか死を他人事としてとらえがちだといわれています。そして死に対する不安を避けるため何かに熱中することで悩まないようにしているのです。その結果、「あっという間に人は死ぬ」のです。わたしたちが死を意識するのは大きな病気にかかった時がほとんどです。その時になってはじめて、生きられる時間には限りがあることに気づき、ものの見方や考え方がかわって時間を大切に使うことができるようになるのです。
「死」を生涯のテーマにした哲学者といえばドイツの哲学者マルティン・ハイデガーです。ハイデガーはフッサールの後継者としてフライブルグ大学の教授に就任しました。20世紀最大の哲学者といわれ著書『存在と時間』はあまりに難解なことでも有名です。その哲学は「存在とは何か」ということを考えるために「人間とは何か」を問いかけ、「人間とは何か」を考えるために「死とは何か」を問いかけたとされています。
ハイデガーは自己の有限性を自覚して死と向き合うことで主体的に生きられると考え「人は死から目を背けているうちは自己の存在に気づけない。死というものを自覚できるかどうかが自分の可能性を見つめて生きる生き方につながる」という言葉を残しました。「死」についてはぜひこれらの動画を参考にしてください。
レヴァンドロフスキは最後に味方の裏切りで絶体絶命のピンチを迎えます。そこで隊長であるシュミットに「それは提案ですか?」と聞きます。シュミットが「命令だ」と言うと「了解」と答えるのです。その時の表情はまさに「死を受け入れた」表情をしていたのではないでしょうか。
7 「地動説が異端かどうかは時の権力者の裁量によって変わる」
ドゥラカがアントニ司教に地動説の本を出版することを願い出たときに「地動説が弾圧された前例はあるのですか?」と問います。アントニはよく考えてみればほかで弾圧されたのを聞いたことがないことを疑います。そして地動説が異端かどうかは時の権力者の裁量によって変わることに気づくのです。
アントニ司教はこれまでの地動説にまつわる一連の騒動の顛末を「ある所に宇宙論に厳しい権力者がいて運悪くその管轄内で地動説を研究していた者が異端者の烙印を押されて人々は地動説が禁忌であるという物語を信じることになった」のではないかと推察しました。そしてC教世界や信仰を守る聖戦ではなく一部の人間が引き起こした、ただの勘違いであったとノヴァクを断罪したのです。
時の権力者によって民衆が都合のいいように思想を支配されることは現代でも起こります。前回の兵庫県知事選挙ではメディアの偏向報道・不適切報道が大きな問題となりました。(今年の流行語大賞は「ふてほど」ですがこれは不適切報道のことかなと揶揄されています)。メディアの「ふてほど」によって斎藤元彦さんが受けたのはまさに現代の異端審問です!また検察も正義を掲げて大きな権力を行使する組織ですが大きな闇を抱えています。
たとえば2024年9月26日には袴田事件における無罪判決が確定しました。1966年の逮捕から実に58年という月日をへての無罪確定です。にもかかわらず判決後に検事総長は以下のようなコメントを発表しました。「捜査機関のねつ造と断じたことに強い不満を抱かざるをえない」「判決には承服できないものであるので控訴するべき内容である」。これが58年間も無罪の人間を逮捕・拘留してきた検察の言葉でしょうか?日本では起訴されてから有罪になる確率が99.9%という異常な高さを示しています。検察はその圧倒的で起訴したら何が何でも有罪に追い込もうとしてくるのです。その過程で生まれた冤罪は多く、袴田事件はその最も有名なものの1つなのです。判決後に静岡県警と静岡地検が謝罪をするとありましたが当事者たちはお咎めなしです。袴田さんが失った58年という時間に対する責任は誰がとるのでしょうか?財務省や政治家を含めた四大権力の闇についてはぜひこちらの動画をごらんください
8 「迷いの中に倫理がある」
ドゥラカはノヴァクとの最後の対決の中で「これから来る金の時代」と未来を予見します。ノヴァクはそれを否定して「文明や理性の名のもとでは大虐殺がおこる」と言います。神に進むべき道を与えられなくなった人間の末路―神を失えば人は迷い続けると。しかしドゥラカはヨレンタの言葉「迷いの中に倫理がある」と返すのです。これから来る大量死の時代の責任は神ではなく人が引き受けるのだと。そこには「罪と救い」ではなく「反省と自立」があるのだと。苦しみを味わった知性はいずれ十分に迷うことのできる知性になる、暴走した文明に歯止めをかけて異常な技術を乗りこなせる知性になるのだと。
個人的にはここに魚豊さんの描きたかったものがこめられているような気がします。私たちの歴史は常に「血と知」のせめぎあいによって発展してきました。「血」は異端審問をはじめとする暴力性が象徴される言葉です。これはノヴァクが新人の審問官の疑問に答える場面で登場するのですが、「異端者は悪魔と結託して世界を変えようとする。それを阻止するために最も重要なもの、世界を保持するために必要なものは?」と問うた時に「血」だと言うのです。
また「知」は真理を探究する知的好奇心が象徴される言葉です。これはバデーニが同僚の神父と対話する場面で登場するのですが、「すでにこの世は非道徳的なことであふれている。そういう世界を変えるために何が必要だと思うか?」と問うた時に「知」というのです。
自分たちの正しさを主張するために多くの暴力によって罪なき人々の血が流れてきました。大航海時代の植民地支配、アメリカ大陸の制服、ナチスによるホロコーストなどなど。いずれも「絶対に正しい」とされていることを盲信した結果が引き起こした悲劇です。私たちは「絶対的正義」を掲げた時に恐ろしいほど残虐なことを可能にしてしまうのです。しかし人類は「知性」によってそれを乗りこえることを忘れませんでした。古代ギリシアでは考えることのみで物質の最小単位が原子であること。また、地球がういていることや丸い形をしていることをもつきとめたのです。中世では民主主義という思想によって絶対王政の常識を破壊することも達成しました。何が正しいのかわからないからこそ「迷う」ことが大切なのです。私たちは「迷う」ことでしか倫理を見つけることはできないのです
9 まとめ
今回は「チ。-地球の運動について-」に登場する珠玉の名言を紹介してきました。動画の中では紹介することができなかったこともまだまだありますので、ぜひ本作品を手に取ってあなただけの「倫理」を見つけるきっかけにしてみてください。
「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。硬貨を捧げればパンを得られる、税を捧げれば権利を得られる、労働を捧げれば報酬を得られる、なら一体何を捧げればこの世の全てを知れる?
『チ。』はこの言葉で始まりこの言葉で終わりを迎えます。ぜひその答えをこれからも一緒に探していきましょう。
そしてこの動画をみてくれたあなたが「贈与」の差出人になってくれたら―そんな人が1人また1人と増えていくことでこの社会は少しずつよくなっていくはずです。この動画を作成したわたしはある意味では「差出人」の立場になりますので、それが皆さんのもとにきちんと届くかどうかはわかりません。しかしこのチャンネルを通してあなたが贈与を受け取っていたことに気づくことができる、そんな動画をこれからも制作していきたいと思います。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。
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