「正義」とは何か?(『正義の教室』より)

哲学入門

今回は「正義とは何か?」を探求する旅に出かけましょう。哲学って、少し難しそうに感じるかもしれませんが、実は日常生活の中にも深く関わっているのですよ。一緒に考え、問いに答え、新しい視点を見つけることで、哲学は驚くほど身近に感じられるようになるのです。この旅が終わる頃には、現代社会にはびこる生き辛さの正体を知るためのヒントをきっと見つけることができるでしょう。

【「正義」とは何か】正義を判断するための3つの基準を知れば「正しい」とは何かを理解できる!(正義の教室)

「正義」とはすなわち「正しい行為」のことです。ではあなたはどうやってその「正しい行為」を決めているのでしょうか?たとえば「少数を見捨てれば多数を救うことができる」という場面を想像してみてください。「多数を救うためには少数を犠牲にしてもよい」ということが正義でしょうか?「目の前の少数を救った結果として多数を見捨てることは仕方ない」のが正義でしょうか?その少数に当てはまるのが犯罪者であるか大切な人であるかによってもちがうはずです。たしかにこの問題について絶対的な正解はないかもしれません。しかしあなたがどのように「正義」を判断しているのかについては考えることができます。本書の中では「正しい行為」を決める判断基準が大きく分けて3つだと示されています。ぜひあなたにとっての「正義」を考え直すために記事を最後までご覧ください。きっと「哲学っておもしろい」「哲学は役に立つ」と思えるはずですよ。

1 3つの「正義」

まず私たちは「正義」について3つの判断基準をもっています。それは「平等」「自由」「宗教」の3つです。「平等の正義」とは不平等な扱いをすることが悪であるという「功利主義」(幸福を重視)の考え方のことです。これは「最大多数の最大幸福」という言葉であらわされる通り「全員の幸福度を計算して合計が一番大きくなることをしましょう」という考え方のことです。

「自由の正義」とは自由に生きる権利を奪うことが悪であるという「自由主義」(自由を重視)の考え方のことです。これはその名の通り自由を第一に考える思想です。つまり「個人の自由を守る行動をしましょう」という考え方のことです。

「宗教の正義」とは伝統的な価値観を破壊することが悪であるという「直観主義」(道徳を重視)の考え方のことです。これは「直ちに観てとる」ことで初めてわかるものであり理屈でわかるものではありません。つまり「良心に従って道徳的な行動をしましょう」という考え方のことです。

このように考えると「絶対的な正しさなどない」という印象を受けますよね?では「正しさ」について考えることは無意味なのでしょうか?そんなことはありません。私たちは誰もが何らかの「正しさ」を基準にしなければ生きることができないからです。もしも「絶対的な正しさなどない」と考える人がいたとしても「正しさなどはない」ということを「正しい」と信じていることになるのです。つまりどんなに「正しさ」のことを疑ったとしても、「正しさ」を疑っている自分の存在自体だけは決して疑うことができないのです。私たちは誰もが「正しさ」という概念から逃れることはできないからこそ「正義とは何か?」「正しさとは何か?」についてもっとよく考えるべきなのです。そしてあなたにとっての「正しさの判断基準」を知る必要があるのです。

2 平等の正義

「平等の正義」とは特権や差別など不当に不平等な扱いをすることを悪と考えることです。しかしだからといって個人の差異を無視した単純な均等が「悪平等」になったり、多数決で決めることも愚かな結果が採用されてしまったりする欠点があります。そこで人類は「平等の正義」を達成するために「功利主義」という考え方を発明しました。

「功利主義」の創始者はイギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムです。法律家でもあったベンサムはイギリスにおける法のいい加減さに憤りを感じていました。世間の慣習や常識に流されることのない法の正しさを見出そうとしていたある日「いかなる国家であれその構成員の多数者の利益と幸福が国家にかかわるすべての事柄が決定される際の基準となるべきである」という一節を見つけたのです。ベンサムは感動のあまり「エウレカ(我発見せり)!」と叫んだそうです。

功利主義のポイントは「物事の正しさを功利(幸福の量)によって決める」ことです。たとえば満腹の人と空腹の人でおにぎりをわけるとしたら、均等にわけるよりも空腹な人に多めに分ける方が幸福度の総量は多くなると考えます。またトリアージという考え方においても助かる見込みのないけがをした人よりも、助かる見込みのある人から助けていくことで(命を選別することになるとしても)幸福度の総量が多くなると考えることができます。

このように考えることであらゆる法律に正当性をもたせることができます。たとえば犯罪者を拘束する理由は罪を犯したからと考えられますが功利主義では違います。犯罪者を放置することによって発生する不幸の量(住民の不安や危険)よりも、犯罪者を拘束することによって発生する不幸の量の方が少ないからと考えるのです。つまり犯罪者を拘束する方が社会全体の幸福の量があがると判断されたということです。ベンサムは幸福の量をはかるために異常なほどの執念を燃やしました。そして幸福は「快楽が増加(苦痛が減少)すること」であり、不幸は「快楽が減少する(苦痛が増加)すること」であるとしたのです。

では功利主義の理想とする状態とはどのようなものになるか想像してみてください。たとえば科学がさらに進歩して全ての労働をAIが代行するようになり、私たちはただ副作用のない快楽を生み出すための薬を飲み続ければいい世界…ちょっと受け入れがたい気もしませんか?それでもこの「平等の正義」がいいと考えるあなたには「臓器くじ」を推奨します。これは不運にも病気になってしまい臓器移植をする必要がある人たちに対してくじ引きで無作為に誰かを選び移植用に臓器を提供させるのです。無作為に選ばれた1人は犠牲になりますが複数の病気の人を救うことができることから社会全体の幸福が増加したという点で功利主義にかなった方法ですがいかがでしょう?無作為に選ばれた人は無関係だからそれはよくないという理由は通りませんよ。なぜなら病気になってしまった人だってたまたま病気になってしまっただけなのですから。

このように考えると功利主義(平等の正義)には大きな問題点が3つあります。1つ目は「幸福度を客観的に計算できるのか?」という問題です。たとえば100円を拾ってラッキーと思うことを1ハッピーと設定したとします。この時1000円もらえるならビンタされてもいいと思うことは、1ハッピーが10回あればビンタされてもいいことになるので1回ビンタをされるという苦痛はマイナス10ハッピーと設定されます。このように考えれば幸福の量は計算できるように思いますがそうではありません。なぜなら貧乏な人と裕福な人では100円を拾った時の幸福度がちがうからです。状況によって基準が変わるような方法ではとても有効な手段とは言えませんよね。

2つ目は「身体的な快楽が本当に幸福だといえるのか?」という問題です。これについてベンサムの後継者ジョン・スチュアート・ミルはこう言っています。「快楽の量ではなく快楽の質こそが重要なのではないか?」たとえばお酒を飲んで暴れまくる快楽とクラシックを聴きながら美術品を鑑賞する快楽、どちらの方が健全で質が高いと考えられるかといえば…なんとなくわかりますよね。ミルはこれについて「人間は低級な人間と高級な人間の2種類がいる」と言いました。そして「低級な人間は低級な快楽しか選ばないが、高級な人間は両方の快楽を理解したうえで必ず高級な快楽を選ぶ」と指摘したのです。つまり頭のいい人はバカになろうと思わないし良心的な人は利己的にはならないのです。上から目線が爆発しているミルの有名な言葉として「満足した豚であるよりも不満足な人間の方がよく、満足した愚か者であるよりも不満足なソクラテスの方がよい」というものがあります。いわゆる「太った豚よりもやせたソクラテスであれ」ということです。このように考えるとベンサムの功利主義では快楽を追及するだけの太った豚の方が自分に不利益があっても正しいことをするソクラテスを否定することになってしまいます。

3つ目は「強権的になりがちというパターナリズム」の問題があります。パターナリズムとは「相手の意思を考慮しない独善的なおせっかい主義」のようなものです。功利主義を実現するのはそもそも「他人を抑圧する強権」の行使が必要になります。平等の正義を志向する共産主義の国を思い浮かべてみてください。あの国もあの国もだいたい強権的で抑圧的な政治体制になっていますよね?功利主義者が必ず共産主義者というわけではないですが本質は同じなのです。最大多数の最大幸福を達成するために恵まれた人の権利を抑制するという点では、ベンサムはパノプティコン(一望監視装置)という刑務所を設計したことでも有名です。社会全体の幸福を増加させるためならパノプティコン社会も肯定することになります。あるいはあらゆる苦痛から解放される代わりに映画マトリックスのように機械に接続されて夢の世界で一生を送ることも肯定されることになってしまうのです。このように考えるとやはり功利主義(平等の正義)には問題点があるのかもしれません。

3 自由の正義

「自由の正義」とは自由を守ることを正義とする立場のことであり、このような考え方のことを一般的に「自由主義」といいます。しかし自由主義には相反する2つの側面があるのです。1つ目は「不遇な人たちが自由に生きられるように保証する」という自由主義です。具体的には富裕層に高い税金を課して弱者にやさしい福祉国家がその典型的な例です。2つ目は「自由競争を肯定するかわりに格差が生まれることを認める」という自由主義です。格差をなくしていくことも自由主義であり格差を認めることも自由主義なのです。一般にこれらは「リベラリズム」と「リバタリアニズム」のちがいを意味していて、弱者にやさしい福祉社会がリベラリズムで自由競争を促進する考え方がリバタリアニズムを示しています。一口に「自由主義」と言ってもこの2つがとてもややこしいのですが本書ではこのような混乱を避けてわかりやすく自由主義を理解するために「強い自由主義」と「弱い自由主義」という言葉で説明されています。

「弱い自由主義」とは「幸福に生きるためには自由を尊重するべきである」という考え方のことであり「幸福>自由」となるのです。しかしこの考え方における優先順位は自由ではなく幸福であることから

「弱い自由主義」とはすなわち功利主義であると言えるのです。「強い自由主義」とは先の例の反対である「自由>幸福」とする考え方のことです。つまり「自由を守ることは結果にかかわらず正義であり

自由を奪うことは結果にかかわらず悪である」ということです。自由を守るためであれば結果としてどんな格差や不幸が生じようとも関係ない、自由こそが最も優先されるという意味でこれを「強い自由主義」とよぶのです。

では自由にしてよいのであれば犯罪をするのも自由であるのでしょうか?もちろんこれは認められません理由はいたってシンプルです。「他人の自由を奪うことが悪である」からです。そのため強い自由主義は次のようにとらえる必要があります。「自由にしなさい」「ただし他人の自由を侵害しない限り」

いわゆる「誰にも迷惑をかけていないのだから好きにさせてよ」ということです。今回の動画ではこの強い自由主義のことを「自由主義」と表現させていただきます。

ここで功利主義と自由主義の大きなちがいをまとめてみましょう。功利主義では富裕層から税金をとって貧困層を救うという福祉政策は肯定されます。しかし自由主義ではそれで多くの貧困層が救われるとしてもこの政策は否定されるのです。なぜなら人の財産を奪うことは「自分の所有物を自由にできる権利」を損なうからです。つまり功利主義は全体の幸福を優先するために個人の権利を抑制することがありますが、自由主義では個人の権利を優先するので個人にあらゆることを強制することはありません。ここで「では子どもの自由はどうするのか?」という疑問をもたれた方もいると思います。自由主義では「子どもの行動(自由ではなく)は制限をするべきである」としています。なぜなら子どもはまだ自由をもっていないと考えるからです。たとえば高層ビルの手すりで遊んでいる子がいたら誰でもその行動を止めるはずです。それでもこれが「子どもの自由を奪った」わけではないことは明白です。子どもはその行為がどれだけ危険なのか判断できていないという点で不自由だからです。では大人が自ら危険な行為(戦地に行く・麻薬に手を出すなど)ことはどうでしょうか?この場合は「好きにしなさい」でなければいけません。つまり「バカがどうなろうとそんなの自業自得」ということです。自由主義を理想とするのであれば最後はこの問題に行きつくことになります。つまり有能で無害な人は自由にしても誰の自由も奪わないので自由が保証されるべきです。しかし有害な人は自由にさせると他人の自由を奪うので自由を制限するべきなのです。では自由にさせると自分の自由を奪ってしまう無能な人(バカ)はどうするべきでしょうか?これを自己責任として本当に片づけてよいのか…これが自由主義の大きな問題点なのです。

功利主義にも問題点があったように自由主義にも大きな問題点は存在します。1つ目は「格差の拡大と弱者の排除」という問題です。自由主義では「自由を奪わなければ好きにしてよい」が原則ですが、これについては功利主義のミルも著書『自由論』の中で同じことを言っています。ちなみにミルは「無教養な人間に自由の権利はない」と言っており、経済力のない人間は結婚を禁止するべきであり、子どもの教育を怠った親は罰金を払うべきとも考えていました。(全国のモンスターペアレントに悩まされている学校の先生が歓喜するでしょう!)この点でミルは功利主義(弱い自由主義)であるといえるのですが、強い自由主義を採用すればいずれ社会的弱者は社会から退場せざるをえなくなります。それが自然の摂理だとしてそんな弱肉強食の世界を本当に肯定できるのかということです。

2つ目は「合意による非道徳的行為の増加」という問題です。これは臓器売買などのおぞましい行為であっても合意があればよいのでしょうか?少し前までは同性愛はおぞましい行為という風潮がありましたが価値観は変化しています。臓器売買のような現在おぞましい行為と考えられていることもいずれは変わるとすれば、個人の自由を保証するかぎりにおいておぞましいとされる行為も認められるのでしょうか?それが自分にとってかけがえのない大切な存在であったとしても…?たとえば麻薬を吸うという行為は誰にも迷惑をかけていないと考えられがちですが「未来の自分」に対してはどうでしょうか?今は麻薬を吸いたいと思っていても未来の自分がその選択を後悔することになるとしたら未来の自分は過去の自分によって自由を奪われていることになってしまいます。つまり未来の人生を台無しにするような愚かな行為は自由主義で否定されるべきなのです。

ということは「それだけはダメ」という絶対的な善があるのでしょうか?それを確かめるためアメリカの哲学者ジョン・ロールズの「無知のヴェール」を紹介します。ロールズは著書『正義論』の中でどれだけ価値観がちがったとしても、人間ならば誰でも必ず「正しい」と判断できることを証明する思考実験を提示したのです。それが「無知のヴェール」です。無知のヴェールをかぶると誰もが自分のことに対して無知になってしまう仮想の道具です。名前・性別・人種など自分に関するあらゆることはわからないという前提で話し合うのです。もし無知のヴェールをかぶっていない状態で話し合いをしたとしても、お互いに自分の立場を優先する主張をすることで議論は平行線のままということがよくあります。しかし無知のヴェールをかぶれば自分にだけ都合のよい政策を支持することはできません。なぜならもしかしたら自分が排除される側になるかもしれないからです。

ロールズはこの思考実験において2つの原理を導き出したのです

第一原理「平等な自由と権利」これは私たちが他の人の自由を奪わない範囲で基本的な自由を平等に持つべきであるという考え方です。第二原理「機械平等・格差」これは公正な機会均等という条件の下で

最も不利な人々の利益が最大化される場合において不平等は認められるという考え方です。つまり自分が社会的な弱者である可能性もあるので弱肉強食でもいいとは言えませんので最低限の生活は保証されるべきであると考える以上それを恵まれた人(格差や不平等)に頼ることは問題ないということになるのです。ロールズは自分がどのような状態であるかわからない無知のヴェールをかぶったときに人々が選択するものこそが絶対的な正義だと主張したのです。これは幸福のために個人の自由を犠牲にする功利主義の欠点を克服する考え方です。「自由の原理」はすなわち自由主義であり「格差原理」はすなわち功利主義であるからです。では功利主義も自由主義もつきつめれば大きな問題点があるのであれば、誰もが善いと思える絶対的な正義(宗教の正義)こそが本当に正しいといえるのでしょうか?

4 宗教の正義

最後に「宗教の正義」について考えてみましょう「宗教的である」とは特定の神様を信じたり宗教団体に入ったりすることとは関係なく「物質または理性を越えたところにある何かを信じていること」のことです。たとえば1つの大きな円をイメージしてみてください。この円の中には人間の思考活動によって生じうる全てのものが含まれています。この時「正義」はどこにあると考えられますか?功利主義や自由主義では円の内側に存在することになります。なぜなら功利主義も自由主義も人間の思考活動の結果として生じた概念だからです。そのため功利主義や自由主義では「正義」の理由を説明することができるのです。しかし「宗教の正義」において「正義」は円の外側に存在することになります。なぜなら「正義」は言葉や理屈などの思考活動によって説明することはできないからです。そのため宗教の正義では「正義」の理由を説明することはできません。「そんなことは考えるまでもなく悪いことです」「ダメなものはダメ」のように、では理屈や論理に頼らないのにどうやってその「正義」を知ることができるのでしょうか?答えは説明できないものは説明できないのだから直接そのまま「観れば」いいのです。だから宗教の正義のことを「直観主義」(直ちに観る)というのです。

これを聞いてみなさんは納得することができましたか?「それってあなたの感想ですよね?」「ただの思い込みなんじゃないですか?」「そもそも理性の外側には本当に正義が存在しているのですか?」と感じたはずです。まさにこの疑問こそ人類が2500年もの間ずっと考え続けてきた問題なのです。今からおよそ2500年前の古代ギリシアにおいて2つの哲学思想が誕生しました。それが「相対主義」と「絶対主義」です。

まず相対主義とは「価値観は人それぞれ」という考え方のことであり、その代表的な哲学者プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言いました。つぎに絶対主義とは「絶対的に正しいものが存在する」という考え方のことであり、その代表的な哲学者こそがかの有名なソクラテスなのです。当時のギリシアでは「みんなそれぞれだよね」という相対主義が流行していたのですが、そこでソクラテスは「絶対的な正しさは必ずある」として「善く生きよ」と説いたのです。哲学の歴史はその後この2つの主義を行ったり来たりしながら発展していきます。私たちは2000年もの時間をかけて絶対的な正しさがあるのかを考え続けてきたのです。

これについて説明できないものを説明することに意味があるのかと思いませんでしたか?しかしこれこそが私たちが生きていくうえで最も重要な問いであるとも言えるのです。なぜなら私たちとこの世界が本当にただの物質でしかないのだとしたら、この世は原子が物理法則に従ってくっついたり離れたりしているだけの空間になります。私たちが経験するあらゆるできごとは原子というボールがビリヤードのようにぶつかり続けるだけのただの物理運動の連続ならばそこに「意味」はあるのでしょうか?このように理性の外側にある何かの存在を前提としなければ、私たちは「善悪」や「生きる意味」を問うことができないのです。

しかしそんな論争に終止符をうったのが神殺しで有名な哲学者ニーチェです。ニーチェといえば最も有名な「神は死んだ」という言葉を聞いたことがありますよね?ここでニーチェが言った神とはこれまで話してきた理性を超えたところにある何かです。さきほど超越的な何かを信じなければ生きる意味がないのではないかと言いましたが、ニーチェはそんなものを信じているから人間は生きる意味を見失ったのだと言ったのです。たしかに私たちの歴史とは絶対的な道徳を振りかざすものによる大量虐殺の歴史です。「神」や「正義」を掲げてどれだけ多くの凄惨な出来事が起こったのか思い当たるでしょう。ニーチェらの思想は現実の存在を重視して生きることを説いたことから実存主義とよばれ、これ以降の哲学は全て絶対主義を否定する相対主義ばかりが現れることになるのです。哲学者といえばソクラテスとニーチェのことくらいは知っている人が多いのは、ソクラテスが始めた絶対真理を追及する(「善く生きる」)旅をニーチェが終わらせた(「神は死んだ」)からなのかもしれません。

私たちはどうやっても絶対的な真理にたどりつくことも説明することもできません。それでも「殺人は悪」「嘘をつくことは悪」と思うような誰もが従うべき正義はないのか?ニーチェよりも少し前の哲学者イマヌエル・カントも同じように考えました。カントは絶対的に正しいと言えるような道徳法則がこの世には存在すると考えたのです。しかし「犯罪者が家族を襲おうとしている時」でも嘘をつくことはいけないのでしょうか?犯罪者だからといって嘘をついてもよいとなると絶対的な道徳法則ではなくなります。でも嘘をつかなければまちがいなく家族に危害が加えられるというのに正直でいることははたして本当に正義だといえるのでしょうか?宗教の正義の問題点はシンプルに「私たちはそれを直観することができない」ことです。人間という有限の存在が無限をはかり知ることなどできるはずがないのですから。つまり宗教の正義を信じるということは、わからないものをわかるというウソつきになるということなのです。それでもカントの例やトロッコ問題のような二律背反の選択に抗うことはできません。宗教の正義を真剣につきつめればつきつめるほど私たちは悩み絶望するしかないのです。晩年のニーチェが同じように発狂して最期を迎えたように…。

5 本当の正しさとは?

ここまで3つの「正義」を紹介してきましたがいかがでしたか?みんなが幸せになるように平等にすることが「正しい」のか、誰にも迷惑をかけないように自由にすることが「正しい」のか、自分が善いと思ったことをすることが「正しい」のか?ここでは実存主義の次に出てきた「構造主義」と「ポスト構造主義」について紹介します。

まず構造主義とは「人間は何らかの社会構造に支配されており、決して自由に物事を判断しているわけではない」という考え方のことです。つまり「人間がどう考えるかはその人が生きる社会のシステムによって無意識に形づくられてしまっている」ということなのです。次にポスト構造主義ですがこのポストは構造主義の「あとの」という意味であり、構造主義を完全に乗り越えられていないという意味もこめられています。つまりポスト構造主義も「構造に支配される」という部分については同意しているのです。では構造主義とポスト構造主義は何がちがうのでしょうか?それは「構造主義のわずかにもっていた希望を打ち砕いた」点にあります。構造主義には「自分たちが生きている社会の構造を把握してその欠陥を見つけ出し修復して幸せな未来を作り出そう」という希望がありました。しかしポスト構造主義では「そんなことは不可能だ。人間は自分の意志で構造を作り変えることなどできない。なぜならその作り変えようとする意志自体がとらわれている構造から生み出されているから」と考えるのです。

ポスト構造主義を代表する哲学者ミッシェル=フーコーはこう言います。「私たちはベンサムが設計した刑務所パノプティコンの中で生きている」とフーコーが「監獄の誕生」を発表した1970年代のことであれば中央の監視塔を破壊すればパノプティコンから脱出することもできたかもしれません。しかし情報技術が進歩したことによって相互監視が可能になった現代のパノプティコンは、もはや破壊することなど絶対に不可能なほどに大きくなっているのです。これはポスト構造主義の結論ともいえる「私たちを支配する構造を変えることはできない」ということと完全に一致します。であるならばこれからもパノプティコン社会(監視社会)は続いていくことになります。その中で生きる私たちは他者の視線を恐れながら正常であることを求められ続けるのです。もはや私たちの世界は「人間が人間にとって正しい社会」を作っているのではなく「社会が社会にとって正しい人間」を作っていることになってしまったのです。このような中で生きていくあなたにとっての「正義」は見つかりましたか?さいごに1つ問題を出すので考えてみてください。右の道へ進めばあなたにとって大切な自分の子どもを救うことができます。左の道へ進めばあなたの子ども以外の30人の子どもを救うことができます。さてどちらの道を選ぶことが「正義」なのでしょうか?ここまでの記事をご覧くださった方ならきっとわかりますよね?

6 まとめ

今回は「正義」について考えてきました。私たちが住んでいるこの「パノプティコン社会」をどのように生きていけばいいのか?「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが、現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。「人間は思考することをやめてしまえば誰もがナチスのような巨悪になりうる」ハンナ・アーレントはこのように言いました。ぜひあなたにとっての「正義」をもう一度考え直してみてください。これからも哲学の実践的な活用方法について紹介していく予定ですのでぜひご期待ください。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。

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