人生の悩みは哲学で

哲学入門

今回は、哲学初心者のわたしと一緒に「仕事の悩みを解決する哲学」を探求する旅に出かけましょう。哲学って、少し難しそうに感じるかもしれませんが、実は日常生活の中にも深く関わっているのですよ。一緒に考え、問いに答え、新しい視点を見つけることで、哲学は驚くほど身近に感じられるようになるのです。この旅が終わる頃には、現代社会にはびこる生き辛さの正体を知るためのヒントをきっと見つけることができるでしょう。

【哲学×人生の悩み】人生の悩みは哲学者がすでに答えを出していた!?

実は今から約3200年前のエジプトで書かれたパピルスには実在した人物の人生が詳細に記述されていたのです。書記という仕事に就くために勉強したことや17通の愛の詩を送ったこと、そして書記となって墓作り職人の監督をした時に部下の出勤簿を管理したことなどです。そこには「誕生日だから休む」「二日酔いだから休む」という欠勤理由から口うるさい上司に対して「上司にはさからわない」「ためになることもある」のような部下である自分に言い聞かせているような苦悶の言葉が残されていたのです。不真面目な部下と口うるさい上司の板挟みにあって不眠に悩まされるなど紀元前に生きていた人々も現代人である私たちも人間はいつの時代であっても同じような悩みをもっていたことがわかります。このような悩みに真っ向から挑み思考することによってその解決の糸口を見出してきたのが哲学者たちなのです。だからこそ哲学者たちがその答えに至ったプロセスを知ることで新しいものの見方や考え方をもつことができるようになるはずです。この記事を読み終わる頃には「哲学っておもしろい」「哲学で悩みが解決された」と哲学に興味をもってくれるようになることでしょう。

1 友達がほしい

学校や会社でいつも孤独を感じていたりSNSで友達と楽しそうにしている投稿を目にしたりする時「友達がほしいな」と思うことがありませんか?そんな時はぜひドイツ観念論の哲学者ショーペンハウアーの哲学を学んでみてください。アルトゥール・ショーペンハウアーはカントとプラトンに影響を受けて

ヘーゲルの哲学を批判したドイツの哲学者です。ショーペンハウアーはヘーゲルと同時期にベルリン大学の哲学教授でしたがヘーゲルの講義が人気だったのに対してショーペンハウアーの講義は閑散としていたといわれています。そのためベルリン大学を辞職して生涯在野の哲学者として過ごすことになるのですが、ショーペンハウアーはヘーゲルに対して「酒場のおやじのような顔」という負け惜しみのような悪口を言ったそうです(笑)

25歳の時に著した『意志と表象としての世界』において世界は人間の意志と表象であるといいました。つまり私たちの世界は人間の表象でもあり意志でもあると考えたのです。そして人間そのものが「生への盲目的な意志」によって支配されていることによって、ショーペンハウアーは「生きるのは苦痛である」という結論を導き出すのです。「生への盲目的な意志」による生きたいという意志を満たせないことも苦痛であり、その意志が満たされたことによる退屈も苦痛であるというのです。

現代のわたしたちは便利な生活を手に入れたことと引き換えに多くの退屈な時間を持て余すようになってしまいました。だからわたしたちは人との交流を求めるようになっていったのです。しかし「観測できる範囲」が広がればそれだけ自分との比較を通して幸か不幸かを判断しなければならなくなってしまいます。もし友人が自分よりも多くの給料をもらっていい生活をしていたら、今の自分の生活に対して不幸を感じてしまうことがありますよね?もしこれまでよりも高い給料をもらっていい生活ができるようになったとしても、「観測できる範囲」が広がったことでさらに富裕層の人との比較をすることになり。やっぱり自分の生活に対して不幸を感じてしまうことになるでしょう。つまり手に入らないものを見つけるたびに不幸を感じ続けることになってしまうのです。

なぜ私たちは不幸になるとわかっているのに人との交流を望んでしまうのでしょうか?それは「退屈を愛する方法」を知らないからだとショーペンハウアーは言います。退屈を愛するとは自己の内面的な充実を求めるということです。「観測できる範囲」の中で比較することを通してえられる外的な満足を求めるならば、退屈な時間を埋めるために永続的に外的な満足を追い求めなければいけなくなるのです。だからこそ「知的で孤独を愛する方法を見つけることができれば退屈も苦痛もない幸福な時間を手に入れることができる」とショーペンハウアーは言うのです。

「沖縄の海に行ったらほかの海には入れなくなるから絶対に行ったほうがいいよ」というようなことを言われたことはありませんか?これを聞いて「うらやましい」「行ってみたい」と思うかもしれませんが、「沖縄の海はほかの海に入れなくなるする呪いの海」と考えることもできます。高級なものでしか満足をえられない状態よりも、どんなもの(こと)でも内面的に満足できる状態の方がはるかに幸福なはずです。高級なものでえられた満足というのは、それ以下のものに満足できなくなるという呪いとなって永遠にあなたを苦しめ続けます。外的な満足は一瞬でもその呪いは永続的なものであるため幸福を追い求める限りあなたは永遠に不幸な状態から抜け出せなくなるのです。まさに「富や名声は飲めば飲むほど心が渇く海水のようなものである」のです。

このような思想は仏教における「一切皆苦」や般若心経における「色即是空空即是色」と非常に似ており、事実ショーペンハウアーの思想は東洋哲学からも大きな影響を受けているのです。ショーペンハウアーの哲学は「厭世主義(ペシミズム)」とよばれ、のちのニーチェなどの哲学者に大きな影響を与えることになりました。

「孤独を愛さない人間は自由を愛さない人間に他ならない」とショーペンハウアーは言いました。「観測できる範囲」をふやして自分との比較をすればするほど、あなたはいつまでたっても不幸の呪いから抜け出すことはできません。不幸を避け孤独を楽しむ方法を見つけることができれば、幸福とはあなたの中にあると気づくことができるでしょう。ドイツ観念論の哲学についてもっと詳しく知りたいと思ったらぜひこちらの記事をご覧ください。

2 人の目が気になる

本当の自分を表に出したらまわりから何か言われるのではないかと心配したり自分のことをどんなふうに思われているのか気になったりする時「人の目が気になる」と思うことがありますよね?そんな時はぜひポスト構造主義の哲学者ミッシェル・フーコーの哲学を学んでみてください。

フーコーは「権力によってつくられた構造に人間社会は支配されている」と考えました。そして「人間の思考は古代から連続して進化してきたのではなく、それぞれの時代において特有の形で存在している」と考えたのです。このような思考形式のことを「エピステーメー」といいフーコーは「エピステーメー」こそが人類の構造であると考えました。私たちはそれぞれの時代におけるエピステーメーによってものごとを認識しています。これは無意識のうちに私たちの思考や感情がそれぞれの時代のエピステーメーによって支配されているということでもあります。そのため私たちはすでに無意識に社会の構造に縛られているため正しいとされる枠組みからはみ出すものを「狂気」と捉えてしまうのです。

フーコーは現代における私たちをしばる構造をパノプティコンにたとえています。功利主義者のベンサムによって考案されたパノプティコンは、一望監視装置という特性をもった円形の監獄のことで囚人が「監視されているかもしれない」と考えて自ら規範を守るようにするシステムです。現代の私たちも「同調圧力」という抽象化された権力によって社会という構造におさまるように監視されていると考えられるのではないでしょうか?そして無意識のうちに私たちを縛ることになるこの構造からはみ出すものを「狂気」として排除するシステムがつくられているとフーコーは指摘しました。

フーコーも自身がゲイであることに悩み苦しむことの多い人生を送っていました。当時の社会にとってフーコーは「正常」な人間はなかったとされていたのです。そんな「正常」という目に見えない何か、社会から押し付けられる常識や他者の視線などに苦しめられたフーコーだからこそ無意識のうちに私たちを縛る構造を明らかにすることを人生の目的としたのです。「私たちは積極的にゲイになるべきである」とフーコーは言いました。もちろんこれは「みんな同性愛者になろう」という意味ではありません。これには社会から押しつけられた「正常」とされる生き方だけではなく「今の社会に存在しない新しい生き方」を自分で積極的に創造して生きていくべきだ、という意味がこめられていると考えられます。

フーコーは晩年エイズでなくなる直前まで古代ギリシアの哲学を研究していました。この時代では同性愛が当たり前であったり、道端でも平気で自慰行為をする哲学者がいたりした時代だったのです。

「正常」と「異常」を隔てるものは無意識のうちに私たちを縛る構造に隠されています。フーコーの時代から約半世紀が経過した今ではLGBTに対する理解もずいぶん進みました。いま「狂気」とされていることもいつかはそれが当たり前になる日がくるかもしれません。現代のパノプティコンから脱出するためのヒントはまちがいなく哲学の中にあるのです。ポスト構造主義の哲学についてもっと詳しく知りたいと思ったらぜひこちらの記事をご覧ください

3 理解してほしい

同僚や上司に自分の努力や貢献を全く評価してもらえなかったり、友達や家族から自分の気持ちをわかってもらえないと思ったりする時「自分のことを理解してほしい」と思うことがありますよね?そんな時はぜひ分析哲学の哲学者ウィトゲンシュタインの哲学を学んでみてください。

ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインはオーストリア出身の「語りえるものの限界を明確にしようとした」偉大な哲学者です。数学を学ぶためバートランド・ラッセルの『数学原理』を読んだことがきっかけでケンブリッジ大学を訪れて哲学を学ぶことになるのです。1914年に第一次世界大戦が始まると志願兵となって従軍することになり、この時に執筆した著書『論理哲学論考』は命題とその注釈によって構成されています。その中でも最も有名な命題が「語りえぬものについては沈黙せねばならない」です。演繹法においては前提が真でルール(論理式)を守れば結論も真となります。この論理式はアリストテレスによって明晰なものとなっています。だからウィトゲンシュタインは前提についても明晰にしなければならないと考えたのです。そこで「言語」について考えるのです。ウィトゲンシュタインは言語とは世界を写し出す像であるという「写像理論」を提唱しました。しかし前提が事実でない(真ではない)ならば結論が必ず真になるとはいえません。例えば現実に確認することのできない神などは真を導き出す哲学(論理学)において扱うべきではないと指摘したのです。「語りえぬもの」とは論理で真を導くことができないものという意味であり、こうしてウィトゲンシュタインはカントが人間の認識できる限界を示したように、言語(哲学)の限界を明らかにした(沈黙しなければならない)のです。そして否定しようのない確定的な真理と諸問題に対する最終的解決を含んでいるとしてあっさり哲学をやめて故郷で小学校の教師になるのです。

しかし保護者から子どもへの体罰を訴えられたことを機に退職し、さまざまな職を転々とした後に再びケンブリッジ大学にもどって哲学を再構築するのです。この時ラッセルの勧めで『論理哲学論考』を博士論文として提出するのですが、恩師であるラッセルに対して「心配する必要はない」と言うのです。どうして審査をする側のラッセルが心配することがあるのかと疑問に思っていたところ、「あなた方が理解できないことはわかっている」と言い放ったという逸話があるのです。

ウィトゲンシュタインは自分に対して絶対的な自信をもっていました。哲学以外の分野でも斬新なデザインの建築を行ったり、プロペラの研究で取得された特許が第二次大戦のヘリコプターに利用されたりもしました。小学校の教師時代に当時は主流でなかった体験学習を取り入れることもありました。バートランド・ラッセルをして天才と言わしめたウィトゲンシュタインと比べたらたしかに私たちは凡庸な人間なのかもしれません。しかしウィトゲンシュタインが多くの人に理解されることを前提に『論理哲学論考』を執筆していたらどうなったと思いますか?きっとここまで偉大な哲学者として後世に名を残すことはなかったことでしょう。あなたのことを理解してもらえないからといって必ずしも媚びへつらう必要はないのです。偉大な発見や優れた芸術作品は必ずしもマジョリティの理解をえられるとは限りません。ショーペンハウアーの哲学から群れるのではなく孤独を愛する方法を知り、フーコーの哲学から「正常」と「異常」の境界を克服できたあなたなら、いつか「あなた方には理解できないことはわかっている」と言い放つことができるでしょう。(注)自己責任でお願いします…。

ウィトゲンシュタインの哲学はその後「分析哲学」として継承され、イギリスやアメリカで発展をとげて現在の哲学の主流となっているのです。分析哲学についてもっと詳しく知りたいと思ったらぜひこちらの記事をご覧ください。

4 人生の意味を知りたい

何のために生きているのかわからなくなったり、生きていることの目的を知りたくなったりする時「人生の意味を知りたい」と思うことがありませんか?そんな時は実存主義の哲学者フリードリヒ・ニーチェの哲学を学んでみてください。

18世紀ジェームズ・ワットが蒸気機関を改良・実用化したことがきっかけで産業革命がおこり大量生産・大量消費を是とする大衆社会が到来します。そのため1人1人の人間は平均化・機械化された存在になっていきました。このような時代背景のもと個としての人間の立場を強調して孤独・不安・絶望・苦悩の中に生きる現実の存在である私にとっての真理を探究する思想、今ここにいる私が幸せに生きるためにはどうすればよいのかを考える哲学が現れました。これを「実存主義」といいその代表的な哲学者がフリードリヒ・ニーチェです。

ニーチェはショーペンハウアーの著書に大きな影響を受け「神は死んだ」という有名な言葉を残したドイツの哲学者です。ニーチェの哲学はキリスト教道徳の背景にある弱者のルサンチマン(嫉妬)を批判するところから始まります。あなたは「お金もちは心が汚れているからお金なんかいらない」とか「遊んでばかりいたら後で後悔するから勉強しようかな」とか思ったことありませんか?本当はお金持ちになりたい本当はみんなと遊びたいという気持ちを押し殺してそうではない自分のことを正当化するあの感情です(泣)

ニーチェはこの世界に意味や目的などなく虚無なる生が永遠に繰り返されると考えました。これを「永劫回帰」といいます。しかし永遠に繰り返されるならもう一度歩みたいと思えるような人生を送ること、意味や目的がなくてもそれを受け入れ力強く生きることこそが大切であると言ったのです。否定的な現実をありのままに引き受けて(これを運命愛と言います)、「これでよい!」と自己肯定することで主体的になることができるのです。そして「力への意志」でニヒリズムを克服するべきであると考えました。「力への意志」とは自分のことを肯定して成長しようとする力のことです。ラクダのような忍耐力と獅子のような精神自由、そして幼児のような創造力をもつ「超人」となることを求めたのです。

作家アルベール・カミュも「この世は不条理だ」と考えました。私たちはたまたまこの世界に投げ出されて同じような毎日を過ごしていくことを強制されています。この終わりの見えない苦痛のような状況を「不条理」と言ったのです。

カミュはこの不条理を「それでいい!」と受け止めることが必要であり、毎日をひたすらに生きていくことこそが幸福であるとしたのです。『シーシュポスの神話』におけるシーシュポスが永遠に岩を山頂まで運ぶ労苦を課されてもなおそれを受け止めたように、『異邦人』における主人公ムルソーが不条理な世界からはじき出されてもなお自分に正直に生き抜くことで幸福感を感じながら最後を迎えたように生きていくのです。

これまで哲学の世界においては「人生の意味」について幾多の考察が重ねられてきました。しかし意味のない人生に無理やり意味を見出すことこそが理性の放棄なのです。人生の意味というものは生き続けた先にしか見出せないのです。もしかしたらニーチェの言うように永劫回帰される人生に意味などないのかもしれません。たしかにカミュの言うようにこの世は不条理なものなのかもしれません。だからこそ「これでよし」「それでいい」と受け止めて生き続けることが大切なのです。「世界にはきみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある」「その道はどこに行き着くのかと問うてはならない」「ひたすら進め」というニーチェの言葉をぜひ覚えておいてください。実存主義の哲学についてもっと詳しく知りたいと思ったらぜひこちらの記事をご覧ください。

5 まとめ

いつの時代でも私たちは生きていくうえで同じような悩みを抱えています。だからこそ今よりも一歩でも豊かな人生を歩んでいけるようにこれからも哲学を一緒に学んでいきましょう。「友達がほしい」という悩みにはドイツ観念論のショーペンハウアーの哲学が、「人の目が気になる」という悩みにはポスト構造主義のフーコーの哲学が、「自分のことを理解してほしい」という悩みには分析哲学のウィトゲンシュタインの哲学が、そして「人生の意味を知りたい」ならば実存主義のニーチェの哲学があなたの悩みを解決してくれるヒントになるかもしれません。

「哲学は何の役にも立たない」と思われがちですが現代社会を生き抜くためのヒントが哲学の中にはたくさんあるのです。これからも哲学の実践的な活用方法について紹介していく予定ですのでぜひご期待ください。本日の旅はここまでです。ありがとうございました。

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