【イギリス経験論】バカが陥る4つの偏見教えてやるRe:ゼロから始める哲学生活

哲学入門

今回は、哲学初心者のわたしと一緒にイギリス経験論を探求する旅に出かけましょう。哲学って、少し難しそうに感じるかもしれませんが、実は日常生活の中にも深く関わっているのですよ。一緒に考え、問いに答え、新しい視点を見つけることで、哲学は驚くほど身近に感じられるようになるのです。この旅が終わる頃には、現代社会にはびこる生き辛さの正体を知るためのヒントをきっと見つけることができるでしょう。

【イギリス経験論】バカが陥る4つの偏見を教えてやる[Re:ゼロから始める哲学生活]

1 時代背景

ルター
カルヴァン

1517年ローマ教皇レオ10世はサン=ピエトロ大聖堂の改築のために贖宥状を販売しました。贖宥状とは信者の犯した罪が赦されるという免罪符のことです。これに対してドイツの神学者マルティン・ルターはヴィッテンベルクの教会に『95カ条の論題』を貼り出し教会の腐敗を批判するとともに聖書中心主義を唱えました。そして信仰と神の恩寵によってのみ救われるとしたのです。

また1536年フランスの神学者ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』を発表しました。カルヴァンは人間が救済されるか断罪されるかどうかはあらかじめ神によって決められているという「予定説」を唱えました。

ルターやカルヴァンによる教会の腐敗を批判する改革運動を「宗教改革」といいます。そしてルター派やカルヴァン派の信者のことをカトリックに対してプロテスタント(抵抗する者)とよびフランスではユグノーイギリスではピューリタン(清教徒)とよばれることになるのです。1620年にメイフラワー号でアメリカ大陸に渡った102人のピルグリムファーザーズもピューリタンでした。

このようにスコラ哲学によって完成された信仰上位の神を頂点とする世界観が宗教改革によって壊されていくことになるのです。そして神を絶対視するのではなく合理的に物事を理解しようとする知性の大切さに人々が気付くようになる中で自然科学を重視する近代が幕をあけることになるのです。コペルニクスやガリレオによる地動説、ケプラーによる惑星運動の法則、ニュートンによる万有引力の発見などいわゆる「17世紀科学革命」がおこる時代にイギリスで台頭したのが「経験論」です。

ベーコン
ロック
バークリー
ヒューム

2 フランシスベーコン

フランシス・ベーコン(1561年~1626年)は経験論の祖とよばれるイギリスの哲学者 ・政治家です。彼は有名なウィリアム・シェイクスピアと同時代人であることから同一人物ではないかという説もあるそうです。イギリス国王ジェームズ1世の側近で最高裁判所長官にあたる大法官まで務めたベーコンは

「これまでの哲学は議論や論争には優れているけどそれが何かの役に立つのだろうか?」という疑問から当時台頭してきた科学に強い関心をもち実験を用いた科学研究に傾倒していきます。

それまでの哲学は演繹法が主流となっていましたが演繹法では物事の説明はできるかもしれないけど知識を増やすことはできないと批判し「知識は力なり」と言って実験や観察を通して「知識」を増やすべきであるとしたのです。これが「帰納法」です。帰納法とは経験を通した実験と観察事例から一般的な法則や原則を導くことであり複数の事実から1つの真実を導く方法といえます。この考え方が後に経験を重視して認識を捉えなおすという「イギリス経験論」へとつながっていくのです。

しかし人間の経験は主観的なものであり間違えることがあるので真理を追究することには適さないと考えられていました。そこでベーコンは著書『ノヴム・オルガヌム』の中で人間には「イドラ」(ラテン語で偶像であり英語の「アイドル」の語源)という先入観や偏見、判断や認識を妨げるものが4つあると説きました。

1つ目は種族のイドラ

これは人間がもともと持っている偏見や錯覚のことです。たとえば目の錯覚のように誰もがまちがえてしまうもののことです。

2つ目は洞窟のイドラ

これは各個人の経験による先入観のことです。たとえば「井の中の蛙」のように自分の経験したことのみによる思いこみなどのことです。

3つ目は市場のイドラ

これは人間同士の会話による勘違いのことです。たとえば都市伝説やうわさなどがこれにあたります。

4つ目は劇場のイドラ

権威や伝統に基づく誤りのことです。たとえば「ハロー効果」のように偉い人が言うのだからまちがいないなどの偏見です。

帰納法を有効なものにするためにはこれら4つのイドラに陥らないことが重要なのです。この考え方は現代においてもそのまま私たちへの警鐘となっているように思いませんか?

ベーコンは晩年冷凍保存する技術が人類の発展に役に立つと考えて鶏に雪をつめこむ実験をしていたところ体調を崩してそのままなくなったといわれています。実験大好きのベーコンらしい最期でした。

3 ジョン・ロック

ジョン・ロック(1632年~1704年)は「経験論の父」「自由主義の父」とよばれるイギリスの哲学者・政治学者です。別の動画で解説する社会契約説を著書「統治二論」において提唱するなど

その思想はのちのフランス革命やアメリカ独立運動にも大きな影響を与えました。

ロックは著書『人間悟性論』において経験論における認識の方法を体系化しました。「認識」する力はそれまで生まれた時から神に授かったものであると考えられていました。このような考え方を「生得観念」といいます。しかしロックは「仮に生得観念があるのであれば子どもが大人と同じように認識をすることができるはずだ」と否定したのです。そして人間は生まれた時は生得観念をもっていないタブラ・ラサ(真っ白な状態)であり経験を重ねることによって「認識」する力を獲得していると考えました。

ロックは経験を「感覚」と「反省」の2つに分けて考えました。「感覚」とは人間が感覚的にえられる観念のことであり「反省」とは心で考えたり疑ったりすることであらわれる観念のことです。また「感覚」は形や数のような物そのものがもつ一次的性質と色や音のような人間の感覚器官がはたらいて生み出される主観的な性質である二次的性質の2つに分けて考えられます。このような「感覚」と「反省」によってえられる経験のことを[単純観念]とよび単純観念が合わさることによって生まれる[複合観念]という経験を通して私たちはものごとを認識することができると考えたのです。

4 ジョージ・バークリー

ジョージ・バークリー(1685年~1753年)はロックの認識論を継承しながらもその一部である一次的性質と二次的性質のような区別はないと否定した哲学者です。たとえば遠くのリンゴと近くのリンゴを見た時に大きさがちがって見えるからといって2つのリンゴは大きさがちがうといえるでしょうか?2つのリンゴの大きさを正しく認識するためには同じ距離で比べなければいけないことからロックのいう一次的性質である大きさなどは視覚だけでは判断できないといえます。そこでバークリーは[物体そのもの]という一次的性質というものは存在せず全てのものは二次的性質(人間の感覚器官がはたらいて生み出される主観的な性質)であると考えたのです。そして物体そのものが存在しないのであれば知覚することはできないため知覚されることによってのみ物体は存在すると考えました。このような考え方を「主観的観念論」といいバークリーは「存在するとは知覚されることである」といいました。つまり精神こそが確実な存在であり精神が知覚することによってはじめて物体が知覚されることになるのであり

物体を認知することができないのであればそれは存在していないのと同じなのです。まさに「精神一元論」とよぶべき考え方といえます。

だるまさんがころんだを例にするとあなたが振り返ってこちらに向かってくる人を知覚している時だけはあなたはその存在を認めることができますが後ろを向いて「だるまさんがころんだ」と言っている間はこちらに向かってくる人たちを知覚することはできません。ということはこちらに向かってくる人が存在していないとしてもあなたはそれに気づくことができないのです。つまり振り返っている間(知覚している時)だけは物体がそこに存在しているのであり後ろを向いている間(知覚できない時)には物体がそこに存在するとはいえないということなのです。

ただし聖職者でもあったバークリーは神だけはそこに存在していないものですら知覚できると考えました。科学革命による自然科学の発展とそれにともなう無神論者の台頭に対するアンチテーゼだったのかもしれません。

5 デイヴィッド・ヒューム

常識の破壊者デイヴィッド・ヒューム(1711年~1776年)はロックやバークリーによる「認識とは知覚による経験である」という考え方を引き継ぎ経験論を完成させた哲学者です。

ヒュームは「人間の知覚」(心にあらわれるもの全て)がどのように認識されるのかという過程について次のように考えました。まず人間が知覚することができるのは「印象(インプレッション)」と「観念(アイデア)」によるものであるとしました。「印象」とは外からの刺激をうけた時の印象のこと(カラスを見て黒いと感じること)です。「観念」とは昔の出来事や想像によってあらわれる観念のこと(カラスは黒かったなということ)です。すべての観念は印象から生まれますが印象は観念から生まれることはありません。

ヒュームはこの2つの知覚が結合することによって知識が形成されると考えました。そして「印象」と「観念」の結合には[想像]が必要でありそれは[観念連合]という現象が影響しているといいました。[観念連合]とは「類似」「接近」「因果」という3つの原理が合わさったものです。「類似」とは似た観念が想像によって結合されるはたらきのことです。たとえばリンゴを見たてみかんを想像するような場合のことです。「接近」とは時間や空間的に近い観念が想像によって結合されるはたらきのことです。たとえばリンゴを見たら果物屋さんを想像するような場合のことです。「因果」とは観念同士の関係性によって結合されるはたらきのことです。たとえばリンゴを食べたらあまいと感じるような場合のことです。

このようにヒュームは知覚のプロセスを体系化した上でそれまで当たり前と考えられてきた「因果」を否定するのです。火にふれたら熱いというのは当たり前だとほとんどすべての人が信じていると思いますがヒュームはこの因果を否定したのです。火にふれることも熱いと感じることも事実であることは認められるとしても火にふれた「から」熱いの「から」に関しては知覚することができないと考えたのです。そもそもなぜ私たちは火にふれると熱いと感じるのかといえば火にふれるという経験と熱いという経験が近距離にある関係であり火にふれるという経験の後に熱いという経験をするという順番で火にふれると[絶対に]熱いという経験をするからなのです。この3つの要素を繰り返すことで本当は存在しない因果を信じることになると考えたのです。つまり因果とは人間が勝手に考えたものであり自然の法則でもなんでもないというのです。

さらにヒュームは「同一性」というもう1つの常識も破壊するのです。同一性とは昨日の私と今日の私が同じであるという連続性のあるものとして物体を捉えることです。しかしそれは本当に同じものだといえるのでしょうか?有名な「テセウスの船」という話では少しずつ船の部品を交換していく中で全ての部品を交換した船はもとの船と同じといえるだろうかというパラドックスです。もし同じだとするのであれば交換した部品で組み立てた船は元の船と同じなのか?もしちがうのであればどこからちがう船になったのかがわかりません。ヒュームは自我についても同じであると考えました。つまり自我は毎日のように新しい経験を通して形をかえていきます。この時1年前の自我と新しい経験をした現在の自我は連続した同一のものであるといえるのでしょうか?このことからヒュームは「自我とは連続性のない知覚の束である」と言ったのです。このようなヒュームの哲学はのちに紹介するイマヌエル・カントに

「独断のまどろみから目覚めた」といわしめるのでした。

6 まとめ

宗教改革によって信仰から自然科学を重視する時代背景の中イギリスではベーコン、ロック、バークリー、ヒュームと続く経験論が発展していきました。しかし同じころ大陸では全くちがう哲学の潮流があらわれていたのです。

次回は大陸合理論について学んでいきましょう。本日の旅はここまでです。ありがとうございました。

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