【ヘレニズム時代の哲学】キュニコス派?ストア派?エピクロス派?Re:ゼロから始める哲学生活

哲学入門

今回は、哲学初心者のわたしと一緒にヘレニズム時代の哲学を探求する旅に出かけましょう。哲学って、少し難しそうに感じるかもしれませんが、実は日常生活の中にも深く関わっているのですよ。一緒に考え、問いに答え、新しい視点を見つけることで、哲学は驚くほど身近に感じられるようになるのです。この旅が終わる頃には、現代社会にはびこる生き辛さの正体を知るためのヒントをきっと見つけることができるでしょう。

【ヘレニズム時代の哲学】キュニコス派?ストア派?エピクロス派?Re:ゼロから始める哲学生活

1. 時代背景

アレクサンダー大王
ヘレニズム三国

ヘレニズム時代とは紀元前4世紀アレクサンダー大王による東方遠征から紀元前1世紀のローマ帝国の台頭までの約300年間のことです。アレクサンダー大王はグラニコスの戦いやイッソスの戦いなどを経てインダス川流域まで支配地域を拡大させます。しかし、多くの武将による反対もあり進路を西へとり、バビロンにて熱病にかかり32歳の若さで没することになりました。大王の死後ディアドゴイ(後継者)による覇権争いが始まり、ヘレニズム三国が誕生します。それがプトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリアであり、いずれもギリシア人の王朝でした。ギリシア人は自らをヘレネの子孫(ヘレネス)と称していたことから、この時代をヘレニズム時代と呼ぶことになるのです。

この時代の文化の中心はエジプトのアレクサンドリアでした。アテネなどから学者を招いて「ムセイオン」(博物館)を建設し、さらに図書館でエジプト産のパピルス紙に多くの文献を試写させました。そのため、アレクサンドリアは特に自然科学の面でエウクレイデス、エラトステネス・アルキメデスなど多くの科学者を輩出しました。また、有名な美術品としてミロのヴィーナス・ラオコーン・サモトラケのニケなどもあります。

ラオコーン
ミロのヴィーナス
サモトラケのニケ

このように、ギリシア地方とオリエント地方の東西の要素が融合する混沌とした時代背景がヘレニズム時代の哲学を生み出すことになるのです。それがキュニコス派、ストア派、エピクロス派の哲学です。

2. キュニコス派とディオゲネス

ディオゲネス
アレクサンダー大王とディオゲネス
酒樽に住むディオゲネス

キュニコス派の哲学はソクラテスの対話法や反体制的な態度に影響を受けて誕生した社会からの解放や物質的な贅沢からの解放を強調する哲学です。キュニコスというのはギリシャ語で「犬のような」という意味であり、シニカル(皮肉的な)の語源となりました。

キュニコス派では、物質的な豊かさや社会的な地位に執着することを否定し、社会の規範から解放され自然な状態に回帰することが真の幸福が得られると考えられています。そんなキュニコス派の開祖アンティステネスの弟子にして、究極のミニマリストを体現していた哲学者こそ、ディオゲネスなのです。

ディオゲネスは物質的なものに縛られることなく、真の幸福は自由で自律的な生活にあると説いていました。そのため、物質的快楽をまったく求めず、外見を気にすることなく、粗末な上着のみを着た乞食のような生活をしていました。彼は神殿やアゴラでも気にすることなく食事をしては寝ていたので、「アテナイ人は自分のために住処を作ってくれる」と言ったそうです。また、道ばたで公然と自慰行為に及び、「擦るだけで満足できて、しかも金もかからない。食欲もこんなふうに簡単に満たされたらよいのに」と言ったとされています。

ディオゲネスは、酒樽に住んだことから「樽のディオゲネス」と言われるようになりました。アテナイの人々の中には、ディオゲネスの樽が誰かに壊されると、新しいものをあげたとさえ言われています。そんなディオゲネスが、家代わりに樽の中で生活し、持ち物は小さなコップのみという徹底した禁欲主義を実践していたある日、手で水をすくって飲む子供たちの様子を目にして、「まだ不要なものがあったのか」とコップすらも投げ捨ててしまったと言われています。これが、「アテナイの学堂」の中央部で階段に寝そべっているディオゲネスの横に小さな皿が描かれている理由だと考えられます。

ディオゲネスには、2人の有名人との逸話が残されています。1人目は、「プラトン」です。ある日、プラトンが「人間とは、二本足の羽のない動物である」と論じていると、ディオゲネスは羽をむしり取った鶏とともに教室に現れ、「これもプラトンの言うところの人間だ」と盛大に煽ったと伝えられています。プラトンはディオゲネスのことを「狂ったソクラテスだ」と言ったとされ、それ以来、プラトンの人間についての定義には、「平たい爪をした」という語句が付け加えられた

2人目は、「アレクサンダー大王」です。大王が「私はアレクサンダー大王である。」と言うと、「私は犬のディオゲネスです。」と答えたと言われています。また、「私のことがこわくないのか?」と問えば「あなたは何者ですか?善人ですか?悪人ですか?」と聞き返し、大王が「もちろん、善人である」と言ったところ「善人であるなら何をおそれることがあるでしょうか?」と答えたとされています。これに感銘を受けた大王は、「何か望みはあるか?」と問えば「太陽の日がさえぎられるからそこをどいてください。」と答えます。アレクサンダー大王は、帰路の途中、「大王でなかったなら、ディオゲネスになりたい」と言ったそうです。

そんなディオゲネスの思想は、「徳を身に付けることが人間の真のあり方である」と考えました。「競争の際には、隣の人を肘で突いたり足で蹴ったりして、人びとは互いに競い合うのに、立派な善い人間になることについては、誰ひとり競い合おうとする者はいない」と述べ、地位や富を巡って競争の絶えない人々の姿勢を暗に批判して、徳を積んだ立派な善人こそ最優先に目指すべき姿だと諭しています。

ある日、ディオゲネスが昼間からランプに明かりを灯して街を歩き回っていると、その行動を不審に感じて「何をしているのか」と問いかけた市民に「私は人間を探しているのだ」と答えたと言われています。これは文字通り誰かを探しているはなく、ディオゲネスが唱える「徳のある人間」すなわち人の本質が備わった人物になかなか巡り会えないと、彼なりの行動で風刺した場面と捉えることができます。

ディオゲネスにとって質素な生活とは贅沢をしないことだけでなく、慣習的な共同体のルールに縛られない「自然な状態で生きる」ことも意味していました。ディオゲネスは浮浪者のような生活しましたが、みんなが同じように生きるべきと言いたいのではなく、たとえ最悪な状況でも幸福と自立が可能であることを示したかったのではないでしょうか?

ある時、海賊に襲われ奴隷として売り出された時に「どこから来たのか?」と問われて「私は世界市民(コスモポリタン)である」と答えたそうです。これが、国家や民族に囚われないという考え「コスモポリタニズム(世界市民主義)」を世界で初めて唱えた瞬間でした。ちなみに、死因には、犬にかまれたから、生のタコを食べたから、息をとめる練習をしていたからなど諸説あります。そして、紀元前323年、ディオゲネスを敬愛したアレクサンダー大王がバビロンで没したのと同じ頃、コリントスで亡くなったと伝えられています。

3. ストア派とエピクテトス

ストア派の開祖ゼノン
エピクテトス
哲人皇帝マルクス・アウレリウス

ストア派の哲学はキュニコス派の影響を受けて「自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくか」を考える哲学です。ストアというのはポリスの彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で講義を行ったことが由来でありストイック(自分を厳しく律する、禁欲的)の語源となりました。キティオン出身のゼノンが創始者と言われており「我々は耳は二つ持っているのに、口は一つしか持たないのは、より多くのことを聞いて話す方はより少なくするためなのだ。」という言葉が有名です。

ストア派のキーワードは、理性によって情動を支配することで「心の平安(アパテイア)」を目指し苦痛から解放されるということです。そのため頭で考えるだけではなく4つの徳「知恵」「勇気」「正義」「節制」をもって持続的な実践や鍛錬をつむことこそがストア派哲学の本質といえます。もう1つのストア派哲のキーワードはコスモポリタン思想です。全人類が兄弟愛をもって生き互いに助け合うべきという考え方は、キュニコス派ディオゲネスの影響を強く受けていることがうかがえます。そんなストア派の中でも有名な哲学者が奴隷出身のエピクテトスです。

エピクテトスは紀元50年頃に古代ギリシャで生まれました。彼の人生は奴隷として始まりましたが、哲学に触れたことで解放され、哲学者としての道を歩むことになります。

「奴隷であったとしても、心の中は自由だった。哲学は私にその自由を教えてくれた。」

ある哲学者との出会いが、エピクテトスの人生を変えるきっかけとなりました。その哲学者の影響で、エピクテトスは知識を深め、自由な思考を育むことができたのです。

「哲学は私に、物事の本質を見抜き、自らの心を統御する力を授けてくれた。」

そして、エピクテトスは、自らも哲学者としての道を歩み始めます。彼の教えは、奴隷から解放された身でありながら、心の中で真の自由を見出す方法を提供しました。

ストア派の哲学では、「物事の本質とは我々の意志と態度にある」とされます。エピクテトスはこのストア派哲学の基本原則を通じて、人生の真の幸福がどこにあるのかを教えました。エピクテトスの思想の中心には、「内面の平和」と「自己制御」があります。彼は外部の状況に左右されず、心の自由を追求することが重要だと教えました。エピクテトスは運命に従い、現実を受け入れることで心の平安を見出すと説きました。エピクテトスは欲望を抑制し、物事に執着しないことが心の平和をもたらすと説きました。欲望をコントロールすることが真の自由への鍵なのです。彼の教えは現実主義と深く結びついています。生涯を通じて経験から学び、自由な思考と内なる平和を求め続けました。彼の哲学は、一切の状況においても心の自由を実現する方法を提供します。

「物事自体ではなく、物事に対する考え方が苦しむ原因である。」

エピクテトスが述べたこの言葉は、物事そのものが我々を苦しませるのではなく、我々の考え方がそれをどのように捉えるかこそが鍵であることを意味しています。そこで、考え方を変えることで、私たちは現実とより建設的に向き合い、困難な状況を乗り越えることができるようになるのです。

「われわれは出来事に影響されるのではなく、その出来事に対する考え方に影響される。」

この言葉は主体性と自己責任を象徴しています。出来事に対する積極的な考え方を通じて、私たちは自分の人生に責任を持つことができるのです。外部の出来事がどれほど変わろうとも、心の自由は我々がどのように考え、受け入れるかによって影響を受けるのです。

以上のことから、エピクテトスの哲学からは、次のようなメッセージを受け取ることができます。1つ目は、内面の平和の追求です。エピクテトスの教えは内面の平和を求めることに焦点を当てています。心が安定し、物事に対する穏やかな態度を持つことで、幸福が訪れるのです。

2つ目は、自己制御と主体性の発展です。エピクテトスの教えを実践することで、自己制御が強化され、主体性が発展します。これが人生の成功への鍵です。

3つ目は、柔軟性と現実への受容です。柔軟性と現実への受容は、人生の中で遭遇する変化に対処するためにも不可欠です。現代社会では忙しさやストレスがつきものですが、エピクテトスの教えを実践することで、穏やかで幸福な日々を送る手助けになります。

4つ目は、他者への理解です。エピクテトスの哲学は他者との関係にも深い洞察を提供します。他者への理解と寛容が、より豊かな人間関係を築くのに役立ちます。

ストア派の哲学はその後のローマ帝国の皇帝にも受け継がれ、五賢帝の1人マルクス・アウレリウス・アントニウスは哲人皇帝としても有名です。

4. エピクロス派とエピクロス

エピクロス

エピクロス派の哲学はデモクリトスの原子論に影響を受け人間の生命も原子であり死を恐れたり不安に思ったりすることは無意味であると考え「快楽主義」とよばれました。ここでいう快楽とは心の平静と苦痛がない状態のことでありいかがわしい肉体的快楽という意味ではありません。しかし、エピキュリアン=快楽主義者という言葉があるように、誤解された意味に転化して定着してしまいました。

エピクロス派の思想では快楽こそが善であり人生の目的であるとして、人間の欲望を次の3つ①自然で必要な欲望(友情、健康、食事、住居など)、②自然で不必要な欲望(大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活など)、そして③不自然で不要(名声、権力)に分けて、①自然で必要な欲望のみを追求して苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが幸福であると考えました。このような状態を「心の平静(アタラクシア)」と言います。そんなエピクロス派の創始者はその名の通りエピクロスです。

エピクロスは「隠れて生きよ」と言って世の中から忘れられて生きたほうが幸せであり、誘惑から離れて、田園の中で友達との友情を大切にしながら静かに暮らすことを提唱しました。これには、マケドニアによる反体制者処刑や思想への弾圧など不穏な社会情勢と関係があるとも考えられています。そして「エピクロスの園」という庭園学園をつくり、郊外の庭園つきの小さな家で弟子たちと共同生活を送りながら哲学の探求を続けました。この中に遊女もいたとされることが後に欲望充足のみを追求する放埒な生活を肯定する思想だと誤解されることにつながってしまうのです。エピクロスの言葉には「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」「われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」などがあります。

5 哲学の衰退期

アウグスティヌス
トマス・アクィナス

紀元前30年共和制ローマによってプトレマイオス朝エジプトが滅されます。この時の最後の女王が有名なクレオパトラです。これによってオクタウィアヌスは元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号をへて初代ローマ皇帝に就くことになります。これがローマ帝国の始まりです。その後、五賢帝の時代を経て313年コンスタンティヌス大帝の時にミラノ勅令が発せられキリスト教が国教化されることになります。これを期に哲学は衰退の一途をたどることになるのです。この間に登場した有名な哲学者としてはアウグスティヌス(354年~430年)とトマス・アクィナス(1225年頃~1274年)の2人がいます。

アウグスティヌスはキリスト教カトリック教会における「最大の教父」とされています。彼は教会を絶対的な存在と定め「神の恩寵による救い」の理論を展開しました。

トマス・アクィナスはスコラ哲学の代表的な神学者です。スコラとは大聖堂や修道院の付属学校(スコラ)で教えられた哲学のことであり、現在のスクール(学校)の語源となっています。彼はアリストテレスの哲学とキリスト教信仰を調和させて解釈し、信仰と理性の一致をめざしました。「神の存在証明」においては「地球のまわりを動いている太陽などは誰かが動かしたから動いているのであり、それができるのは神に他ならない(なぜならアリストテレス哲学では「動かし手」がいるはずだから)」として神の存在を証明しました。「哲学は神学の婢(はしため)」という有名な言葉は神学をすべての学問の上位におくという彼の思想をよく表しているといえます。

6. まとめ

ヘレニズム時代は東西の文化が交わる中で、多様な哲学がいくつも芽生えました。キュニコス派、ストア派、エピクロス派などの哲学はのちの時代においても大きな影響力を及ぼすことになるのです。

次回はイギリス経験論について学んでいきましょう。ぜひご期待ください。本日の旅はここまでです。ありがとうございました。

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