【哲学の歴史】Re:ゼロから始める哲学生活

哲学入門

今日は、哲学初心者のわたしと一緒に西洋哲学の歴史を探求する旅に出かけましょう。哲学って、少し難しそうに感じるかもしれませんが、実は日常生活の中にも深く関わっているのですよ。一緒に考え、問いに答え、新しい視点を見つけることで、哲学は驚くほど身近に感じられるようになるのです。この旅が終わる頃には、現代社会にはびこる生き辛さの正体を知るためのヒントをきっと見つけることができるでしょう。

【哲学の歴史】Re:ゼロから始める哲学生活[完全保存版]

1 古代ギリシア

紀元前5世紀の古代ギリシア。この時代には、ソクラテス、プラトン、そしてアリストテレスといった偉大な哲学者たちが登場し、革新的な思想を展開しました。

ソクラテス
プラトン
アリストテレス

1.1 ソクラテス

ソクラテスは、古代ギリシアの市場や広場で人々との哲学的な対話を重ねました。彼は知恵に対する謙虚さを提唱し、知識を探求する過程での問いかけが重要だと認識していました。有名な「無知の知」という言葉が、その思想を象徴しています。ソクラテスの弁論法は「問答法」と呼ばれ、相手に疑問をぶつけていくスタイルで知られています。この哲学的な対話によって、真実や善悪についての理解を深め、自己認識を促しました。

1.2 プラトン

ソクラテスの弟子であるプラトンは、哲学をより体系的に整理し、アカデメイア(学校)を創設しました。プラトンはイデア論と呼ばれる考え方を提唱し、「物事の本質は現実の中にあるものではなく、理念として存在する」と考えました。また、プラトンは「国家」で政治哲学にも取り組み、理想的な国家を提唱しました。プラトンが残した文献には哲学的なテーマがほとんどすべて存在していたので、20世紀のイギリスの哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは「西洋のすべての哲学はプラトン哲学への脚注にすぎない」と言ったほどです。

1.3 アリストテレス

プラトンの弟子でもあるアリストテレス。彼は実証的な研究や観察を重視し、倫理学、形而上学、自然哲学、論理学など多岐にわたる分野において深い洞察を提供したことから、西洋哲学の中で最も重要な思想家の一人とされています。アレクサンダー大王の家庭教師を務め、あらゆる学問に精通していたことから「万学の祖」とも言われています。リュケイオン(学校)を創設し、庭園(ペリパトス)を散策しながら講義をするので彼の学派は「ペリパトス派」と呼ばれています。

2 ヘレニズム時代

アレクサンダー大王の征服によって多くの文化的交流と融合が行われた時代。この時期にはキュニコス派、ストア派、エピクロス派などのさまざまな思想が芽生え、新しい哲学的潮流が登場しました。

ディオゲネス
エピクテトス
エピクロス

2.1 ディオゲネス

キュニコス派の代表的な哲学者ディオゲネスは、物質的なものに縛られることなく、真の幸福は自由で自律的な生活にあると説いていました。そのため、物質的快楽をまったく求めず、外見を気にすることなく粗末な上着のみを着て樽の中で乞食のような生活をしていました。プラトンに対して毛をむしった鳥をもってきて「これがプラトンの言う人間だ」と煽ったり、何か望むものはないかとアレクサンダー大王に問われた時には「日が遮られるからそこをどいてくれ」と言ったりするなど、皮肉的なディオゲネスの言動が現在の「シニカル」の語源になっていると考えられます。

2.2 エピクテトス

ストア派の代表的な哲学者エピクテトスは、奴隷出身の哲学者です。彼はストア派の教えに基づき、物事には自分たちがコントロールできるものとできないものがあると認識しました。そして、人は自分の意志で心の平和を実現できると考えたのです。エピクテトスは「出来事に対する態度こそが幸福の鍵である」と説き、外部の出来事に左右されず、内面での精神的な平和を追求することを提唱しました。禁欲主義と自己制御の重要性を説き、内面の平静や精神の均衡を重視するストア派の哲学は、後のローマ帝国においても影響力を持ち続けました。

2.3 エピクロス

エピクロス派の代表的な哲学者は快楽主義として知られるエピクロスです。彼は、人生の目的は穏やかで快適な生活を追求することであり、その手段として精神的な安定と穏やかな快楽を提唱しました。そして、「エピクロスの園」という学園を開き、弟子たちは共同生活を送りながら講義を受けていたと言われています。エピクロスの思想は、適度な快楽を求めつつ、欲望の制御と知恵を重視し、楽しさと心地よさを通じて穏やかな幸福を追求するという点で特筆されます。

この後、ローマ帝国とキリスト教の登場によって、哲学はしばらく後退することになります。13世紀の神学者トマス=アクィナスは「哲学は神学の婢(はしため)」といい、哲学は神学の補助的な役割を果たし、信仰の理解を深める手段として使用されるべきだという立場をとりました。そして、時は流れ17世紀、2つの大きな哲学的潮流が生まれることになります。

3 イギリス経験論

イギリス経験論は、17世紀から18世紀にかけて興った哲学的な潮流で、経験を知識の源として重視しました。この時代に活躍した哲学者たちには、フランシス・ベーコン、ジョン・ロック、そしてデイヴィッド・ヒュームなどがいます。

フランシス・ベーコン
ジョン・ロック
デイヴィッド・ヒューム

3.1 フランシス・ベーコン

フランシス・ベーコンは、経験を通じた実験と個々の観察事例から一般的な法則や原則を導き出すという帰納法を重視し、科学的手法を発展させ、経験主義の基盤を築きました。「知識は力なり」と述べ、科学的な知識が人間の力となり、社会や国家を進化させる力になると考えました。シェイクスピアと同時代人であることから、ベーコンとシェイクスピアは同一人物ではないか、という見方もあります。

3.2 ジョン・ロック

ジョン・ロックは、経験論を政治哲学に応用し、人間の知識や道徳、政治の起源について論じました。ロックは、人間の心は生まれながらにして「白紙の状態(タブラ・ラサ)」であり、経験を通じて情報を得ると述べました。また、政治哲学において、「社会契約説」を提唱し、統治権は人民の同意に基づくべきだと主張しました。ロックの思想は啓蒙時代の自由主義思想に大きな影響を与えました。

3.3 デイヴィッド・ヒューム

デイヴィッド・ヒュームは、私たちが当たり前だと思っている知識すらそもそも確かなものとは限らないと考え、知識など私たちが経験する全てのものは「知覚の束」にすぎないと述べました。また、因果関係についても懐疑的であり、経験に基づいて直接的に因果関係を知ることはできないと考えました。ヒュームが経験論の完成者と呼ばれる所以がここにあります。

このように、ベーコン、ロック、ヒュームらのイギリス経験論の哲学者たちは、経験を知識の基盤とし、科学的な手法や政治哲学において新たな展開を見せました。彼らの思想は啓蒙時代において、自由と科学の発展に寄与し、後の哲学者たちにも大きな影響を与えました。

4 大陸合理論

大陸合理論は、17世紀から18世紀にかけての哲学的潮流で、理性を重視するという新たな視点を提供しました。この時代に活躍した哲学者、ルネ・デカルト、バールーフ・デ・スピノザ、そしてゴットフリート・ライプニッツが、大陸合理論を中心にどのような思想を展開したのかを見ていきましょう。

デカルト
スピノザ
ライプニッツ

4.1 ルネ・デカルト

「近代哲学の父」デカルトは、「方法的懐疑」と呼ばれる懐疑主義的手法を提唱し、絶対的な真理を理性によって追求することを強調しました。そして、全てのものを疑ったとしても、疑っている私がいることは疑いようのない事実であると述べ、「我思う、故に我あり」という哲学史上最も有名な命題を導き出しました。心身二元論を唱えたデカルトは数学者としても有名であり、x軸とy軸からなる座表面を考案したことでも知られています。

4.2 バールーフ・デ・スピノザ

オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザは、ユダヤ系の出自から迫害を受けながらも、形而上学や倫理学において独自の哲学体系を築き上げました。彼は「神即自然」と述べ、自然法則に基づく絶対的な秩序としての神を提唱しました。スピノザの哲学は一元的汎神論とも呼ばれ、自然と神との一体性を強調しました。

4.3 ゴッドフリート・ライプニッツ

ドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツは、「モナド」と呼ばれる不可分な単位が現実を構成するとし、神によって全体性と個別性の調和された最良の宇宙が創造されたと信じました。そして、この宇宙の秩序や調和を「予定調和」と呼び、あらゆるモナドが絶え間ない調和と連関によって結ばれていると考えました。そのため、デカルトのニ元論、スピノザの一元論に対して、ライプニッツは多元論と考えられます。

こうして、デカルト、スピノサ、ライプニッツらが提唱した大陸合理論は、哲学の新たな展開を拓き、それぞれの哲学は後の時代においても影響を与え続け、西洋哲学の重要な一翼を担っています。

5 ドイツ観念論

18世紀から19世紀にかけて、ドイツでは哲学が新たな展開を見せ、その中でカント、ヘーゲル、ショーペンハウアーが特に重要な位置を占めました。彼らが提唱したドイツ観念論は、形而上学や倫理学において新しいアイディアを提示し、哲学の歴史に深い足跡を残しました。

カント
ヘーゲル
ショーペンハウアー

5.1 イマヌエル・カント

経験論と合理論を統合したのが、ドイツの哲学者イマヌエル・カントです。彼は『純粋理性批判』において、経験に基づく知識が可能である一方で、純粋な理念に基づく先天的な知識も存在するとして、知識の枠組みを再構築しました。そして、これまで「認識は対象に依拠する」と考えられてきたことを逆転させ、「人が見ているものは対象そのものではなく、認識の枠組みが捉えた現象である」と唱えたのです。このような認識論の転回は、コペルニクスの地動説になぞらえて「コペルニクス的転回」と呼ばれています。また、カントは絶対的な道徳法則があると提唱しました。彼の道徳哲学は、普遍的で絶対的な価値観を強調し、自己の誠実なる義務に従って行動することを求めます。

5.2 ゲオルグ・W・F・ヘーゲル

カントの後、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲルが登場しました。彼は『精神現象学』や『法の哲学』において、歴史哲学を通じて、アイディアや精神が歴史の中で発展していくという観念論を打ち立てました。そして、「弁証法」を提唱し、対立する要素が対話を通じて新しい合成に到達する過程(正・反・合)を論じました。これにより、歴史や社会の変遷を理解する新しい枠組みが生まれました。ヘーゲルの思想は絶対精神と歴史的発展の概念を中心に据え、哲学と歴史、個と普遍の関係に深い洞察をもたらしました。

5.3 アルトゥール・ショーペンハウアー

アルトゥール・ショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』において、意志とは生への根源的な動機であり、欲望や苦しみの源泉となるものだと考えました。厭世主義(ペシミズム)で有名なショーペンハウアーは、大学で講師をしていた時に、生徒から絶大な人気を誇っていたヘーゲルを「酒場のおやじのような顔」と嫉妬心から批難しました。そして、ヘーゲルの講義を自分の講義と同時間帯に設定しましたが、ヘーゲルの講義は満員でショーペンハウアーの講義はガラガラであったことから、半年後に辞職しました。彼は仏教やインド哲学の影響を受けながら、欲望や意志から解放されることが真の幸福であると主張し、彼の哲学は後の実存主義などに大きな影響を与えました。

6 実存主義

19世紀から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは、実存主義が登場しました。個人の自由や存在の意味を探求する哲学で、その中心にはキルケゴール、ニーチェ、そしてサルトルといった思想家たちがいます。

キルケゴール
ニーチェ
サルトル

6.1 セーレン・オービュエ・キルケゴール

実存主義の先駆けともいえるのが、デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールです。彼はヘーゲル的な抽象観念ではなく、現実に存在(実存)する個人が大切なのだと考えました。そして、主著『死に至る病』の中で、人間は絶望に陥るとして、宗教的実存の重要性を説き、個人は自らの選択によって信仰を持つべきであり、それが真の自由であると考え、実存主義の根幹を築きました。キルケゴールは、若いころ、17歳のレギーネという女性と婚約しますが、突然それを破棄してしまいます。「結婚したまえ、君は後悔するだろう。結婚しないでいたまえ、君は後悔するだろう」という彼の言葉はあまりに有名です。

6.2 フリードリッヒ・ニーチェ

ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェは、実存主義を語る上で欠かせない存在です。彼は「物事の意義や価値は存在しない、自分自身の存在を含めてすべてが無価値だ」という虚無主義(ニヒリズム)の立場をとりました。そして、「神は死んだ」という言葉でキリスト教的な価値観が社会を支配している状態を批判し、弱者の「ルサンチマン」を脱却して人間が自らの価値観を創造する必要があるとして「超人」という考えを提唱しました。

6.3 ジャン=ポール・サルトル

フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、実存主義を現代において広く知らしめる存在となりました。彼は「存在は本質に先立つ」という有名な言葉で知られ、人間はすでにあるなんらかの本質に支配された存在では決してなく、自分自身で人生を切り開いていくべき実存的存在に他ならないと主張しました。そして、「人間は自由の刑に処されている」と述べ、人間は自らの存在を自由に選択し、その選択に責任を持つ存在であると認識しました。内縁の妻シモーヌ・ド・ポーヴォワールは、フェミニズムの先駆者としても有名です。

7 構造主義とポスト構造主義

20世紀に入り、ヨーロッパでは構造主義とポスト構造主義と呼ばれる新しい哲学的潮流が興りました。この時代に活躍した哲学者たち、フェルディナン・ド・ソシュール、クロード・レヴィ=ストロース、そしてミシェル・フーコーらが中心になって、言語、文化、社会の構造に関する革新的なアイディアを提案しました。

ソシュール
レヴィ=ストロース
フーコー

7.1 フェルディナン・ド・ソシュール

構造主義の礎を築いたのが、近代言語学の祖フェルディナン・ド・ソシュールです。彼は『一般言語学講義』において、言語とは「差異のシステムである」と述べました。これは、ものがあるからリンゴなどと名前をつけているのではなく、赤くて丸いものを他と区別するためにリンゴと名付けたということです。日本語では、蝶と蛾を区別しますが、フランス語ではどちらもパピヨンとなるのはそのためです。これらの差異は、社会構造のちがいによって生まれるのです。

7.2 クロード・レヴィ=ストロース

レヴィ=ストロースは文化人類学者として、構造主義を人類学に導入しました。彼は構造主義的な視点から、文化や社会の構造を解読し、その普遍的なパターンを探求しました。そして、文化相対主義や西洋中心主義に対抗して普遍的な法則の存在を強調し、文化の背後にある共通のメカニズムを明らかにしました。レヴィ=ストロースが、サルトルの実存主義を批判したことから、構造主義が実存主義に変わる新たな潮流へとつながっていく契機となったのです。

7.3 ミッシェル・フーコー

ポスト構造主義の先駆者として知られるのが、フランスの哲学者ミシェル・フーコーです。彼は、権力と知識を不可分の関係と見なし、権力が知識を形成し、逆に知識が権力の構造を形成すると主張しました。この概念は、権力が社会や文化を支配する仕組みを解明しようとするものです。そして、1975年に出版された「監獄の誕生」において、近代が生み出した社会や学校などは、功利主義者ベンサムの考案したパノプティコン(一望監視施設)と同一の原理に基づいていると主張しました。

8 まとめ

構造主義には、まだ「自分たちが生きている社会の構造を把握して、その欠陥を見つけ出し、修復して幸せな未来を作り出そう」という希望がありました。しかし、ポスト構造主義では、「そんなことは不可能だ。人間は自分の意志で構造を作り変えることなどできない。なぜなら、その作り変えようとする意志自体が、とらわれている構造から生み出されているから」と考え、構造主義に残っていたわずかな希望をも打ち砕いてしまいました。

フーコーは言います、「私たちは、ベンサムが設計した刑務所、パノプティコンの中で生きている」と。彼が「監獄の誕生」を発表した当時は、まだインターネットもSNSもない時代のことです。しかし、情報技術が進歩した今、現代のパノプティコンは、ますます進化してしまったのではないかと感じませんか?もはや、私たちの世界は、「人間が人間にとって正しい社会」を作っているのではなく、「社会にとって正しい人間」を作らされていることになってしまっているのです。

私たちが感じている生き辛さの正体が、この「現代のパノプティコン」にあるのだとしたら、私たちにできることは何があるのでしょうか?それは、これまでの哲学が常に新しい思想によって乗り越えられてきたように、新たな哲学を見つけることではないかと思います。次は、私たちが自分の手でそれを見つける番なのです。これからも、ゼロから一緒に学びながら現代のパノプティコンを生き抜いていくためのヒントを探していきましょう。

本日の旅はここまでです。ありがとうございます。

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