【三大幸福論】幸福とは何か?どうすれば幸福になれるのか?Re:ゼロから始める哲学生活

哲学入門

今回は、哲学初心者のわたしと一緒に三大幸福論の哲学を探求する旅に出かけましょう。哲学って、少し難しそうに感じるかもしれませんが、実は日常生活の中にも深く関わっているのですよ。一緒に考え、問いに答え、新しい視点を見つけることで、哲学は驚くほど身近に感じられるようになるのです。この旅が終わる頃には、現代社会にはびこる生き辛さの正体を知るためのヒントをきっと見つけることができるでしょう。

【三大幸福論】幸福とは何か?どうすれば幸福になれるのか?Re:ゼロから始める哲学生活

1 幸福論とは?

カール・ヒルティ
アラン
バートランド・ラッセル

哲学では「正義」や「存在」などのさまざまなテーマが扱われています。その中でも古代ギリシアの時代から関心がもたれていたものの1つに「幸福」があります。そもそも哲学というのは生きる意味を問う学問であるとも言えます。私たちが生きていくうえで「幸福」とは何なのか?「幸福」になるためにはどうすればよいのか?そんな問いを解決するために2000年以上にわたって考えられてきたテーマが

「幸福」なのです。

そして20世紀に入り「幸福」について言及した3人の偉大な哲学者が登場しました。それがヒルティ・アラン・ラッセルであり3人が著したそれぞれの『幸福論』をあわせて「三大幸福論」といいます。

それぞれの詳細な内容は以後の章で述べますが簡単に概略をお伝えするとヒルティの幸福論は三大幸福論の中でも宗教色が強く文章が長いので敬遠されがちなものとなりますが幸福をえるためにはどうすればよいのかという問いを解決するためのさまざまな具体的方法を提示してくれる実践的な幸福論といえます。

アランの幸福論は新聞社に寄稿していた「プロポ(哲学断章)」の中から「幸福」に関して言及されているものを再編したものです。そのため詩的なものとなっておりフランス散文の最高傑作と評されています。

ラッセルの幸福論は三大幸福論の中でも論理的かつ現実的そして無神論的なものであるため私たちにとっても理解しやすいものとなっています。それでは個々の幸福論について見ていきましょう。

2 カール・ヒルティ

ヒルティ(1833年~1909年)はスイスの、弁護士、議員、裁判官、ベルリン大学総長など様々な側面をもつ哲学者です。敬虔なキリスト教徒として聖書をもっと愛読しておりそれに次いでエピクテトスやマルクス・アウレリウスなどを愛読していたことからストア派の哲学に大きな影響を受けていたと考えられます。ストア派の哲学についてはぜひこちらの記事をご覧ください。

ヒルティはストア哲学をもとに「享楽」を避けること、その中でも喫煙と飲酒は絶対に避けるべきであるとして生涯を通してスイスでの禁酒運動に参加していました。ヒルティは前提として「人は生まれつき怠惰である」と考えました。そして人間が無意識(ふつうに)生きている状態のことを「感覚的に受動的な状態」と言いました。つまり人間はふつうに生きているだけでは受動的で怠惰な存在になってしまうと考えたのです。そこで人間は意識(自分でものごとについてよく考えて)能動的にすごすことで「働きの喜び」をもたらし人生を充実させることができると説いたのです。怠惰よりも勤勉を重視するところにストア派の影響を感じませんか?

ヒルティは「幸福は外的なものではなく内的なもの」と考えました。そして世の中には「自分で解決できるもの」と「解決できないもの」があると指摘しました。「自分で解決できるもの」とは「意志」すなわち判断や努力そして嫌悪などの内的な要素です。「自分で解決できないもの」とは外的な要素すなわち富、権力、環境、評価などです。ヒルティは「自由にできないものを自分の自由だと思ってしまうこと」こそが不幸の原因であると考えたのです。外的な要素(権力や評価)は永遠ではなくいつかおわりをむかえることになります。そのため外的な要素を自分で解決することはできませんが「外的な要素は永遠ではない」と考えること(意志)については自分で解決することができるのです。そうすれば外的なものを失うことで感じる不幸を減少させることができるのではないでしょうか?

ヒルティは「所有する」という言葉の代わりに「借りている」と考えた方がよいと言い、所有していると思いこんでいるものは全て借りているだけであると認識することができれば執着から解放されるようになると説きました。言われてみれば当たり前のように感じる一方「わかっていてもできないから困っている」のだと思います。ヒルティはだからこそ日常に訪れる不幸は「心の平穏を保つための訓練」であると認識するべきであると説きました。私たちは生きていく中でかならず不幸に出会います。だからこそ不幸に出会った時にどうするのかを考えることが幸福につながると言えるでしょう。

3 アラン

アラン(1868年~1951年)はペンネームであり本名エミール=オーギュスト・シャルティエというフランスの哲学者です。学生時代に哲学を専攻して大陸合理論の哲学に大きな影響を受けました。大陸合理論についてはこちらの記事をご覧ください。

アランはものごとを体系化することをきらっていたので理路整然としたものではない「断章」という形をとる表現にこだわったと言われています。古代ギリシアにおけるソクラテスや東洋の釈迦なども同じでした。ソクラテスは理論が硬直化されることを避けるために対話の中で生まれる結論を大切にしました。釈迦はその思想を体系化するのではなく「悟り」に至る道筋をたとえ話などを用いて語るのみでした。アランの弟子である評論家アンドレ・モーロウは著作の中でアランのことを「現代のソクラテス」と評価しています。

アランの幸福論の前提には悲観主義、つまり「人生はつらいものである」と考えたのです。仏教における生老病死に通ずる側面が感じられます。しかしだからこそ「人生は苦痛であるのだからポジティブに捉えることが大切である」と言いました。つまり「苦痛な人生をどのように自分が捉えるのか」という心のもちよう次第だと考えたのです。そして「外的な要因(仕事による自尊心)」によって心を変えるのではなく「まず心のありようを変えるべきである」としたのです。しかし外的な要因を否定しているわけではありません。

そこでアランは「食事」と「運動」に注目したのです。食事と運動を通して心を変化させること、そして心が変化することによって人生に対する見方が変化すると説いたのです。ちなみにアランは「笑う」ことも運動であると考えました。「笑う」ことが体を動かすことにつながりそうすることによって不機嫌を遠ざけることができると考えたのです。つまり私たちが自由にコントロールできるのは体の動きだけであるとしたのです。

アランは「悲観主義は気分(受動的な状態)楽観主義は意志(能動的な状態)」と説きました。人間は気分(受動的な状態)でいると「不機嫌」に関心をもってしまうのです。だからこそ意志(能動的な状態)をもって「不機嫌」に無関心を保つようにすること、幸福になるためにはそれしかないと考えたのです。

アランの幸福論における前提は悲観主義にあるので外的なマイナス要因たとえば失敗や挫折・後悔などの存在を肯定しています。そしてそれらを全て肯定した上で楽観的に捉えられる自分になるべきだと考えたのです。そのためアランはうつ状態も否定しません。人間がうつ状態とそう状態をもつことは自然なことであり、そこから二次災害ともいえる不機嫌に関心をもってしまうことをなくすべきとしたのです。アランは人生が暇だと不機嫌に関心をもちやすく不幸になってしまうと考えていました。そのため人生はやりがいのある仕事に就いて忙しくしている方がよいとしたのです。仕事を重視するという点ではラッセルと同じですがその捉え方は随分ちがいます。アランの最も有名な名言「人は幸せだから笑うのではない笑うから幸せなのだ」はこのような思想のもとに生まれました。

4バートランド・ラッセル

ラッセル(1872年~1970年)はケンブリッジ大学の教授時代にはあのウィトゲンシュタインの才能を見出したイギリスの哲学者です。その業績は多岐にわたり「ラッセルのパラドックス」「『数学原理』の発表」「西洋哲学史の研究」などがあります。その中でも最も熱心に取り組んだことが「反戦・平和運動」です。共産主義による暴力的な革命に反対したり婦人解放運動に力を入れたりするなど平等や平和を大切にしていました。第一次世界大戦運動中に行った平和運動によって大学の職を失い投獄されることもありましたがそれでも平和運動をやめませんでした。第二次世界大戦中にはナチスに対する抵抗を示し戦後にはアインシュタインと共同で「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表しました。

ラッセルは不幸の原因として「競争」「評価」「嫉妬」「悲観」などをあげています。その中でも最も重きを置いているのが「過度な自意識による被害妄想」です。たとえばまわりの人たちは自分に対して何も思っていないにも関わらず嫌われているかもしれないというように感じてしまう場合などのことです。このように過度な自意識は被害妄想を生み出し存在しなかったはずの悩みを発生させます。そのため過度な自意識を克服することで多くの悩みを解決することができると考えました。そのためには「世界における自分の位置」という存在の位置関係を正しく認識することが大切であると言いました。

ラッセルは不幸について考えるときに「物質的な不幸(貧しい状態)」は考慮しないと考えました。そうではなくて物質的には最低限の環境が保障されていても「不幸」であると感じている人を対象にするべきであるとしたのです。つまり現代の日本のように最低限の生活が保障されているおおよそ全ての日本人にとってラッセルの考える幸福論は意味をもつことになるでしょう。ラッセルは幸福には2つの側面があると考えました。1つは単純で動物的で感情的な幸福(読み書きができないものが手にする幸福)であり、もう1つは複雑で精神的で知的な幸福です(知ってしまったものが手にすべき幸福)です。これら2つの幸福に優劣があるわけではないものの「知ってしまった」のであれば前者の幸福をえることはもはやできません。大量の情報を否応なくえることのできる現代の私たちにとっては後者の幸福(内的で精神的な充実感)こそが大切となるのです。

ラッセルは「熱意・愛情・仕事・趣味・努力」などが幸福を獲得するためには必要であると考えその中でも「仕事」を特に重視しました。ラッセルは「熱意をもって社会に役立つ仕事をしてそのことに健全な誇りをもつことが幸福の直接の源泉である」と言いました。つまり「仕事で成功すること」ではなく

「仕事を通して自尊心を高めること」が大切であると説いたのです。仕事を通して高めることのできた自尊心は他者に対する愛情や寛容さなどを高め、それが家族や友人関係を築くことにつながり人生の時間を充実させたものにするでしょう。

6 まとめ

今回は三大幸福論について紹介してきました。あなたは誰の幸福論が参考になりましたか?

ヒルティの幸福論をまとめると「自分で解決できるもの」と「解決できないもの」を見定めて「不幸は心の平穏を保つための訓練」と捉えなおした上で能動的にすごすことによって働きの喜びをえる充実した人生を送ることであるといえます。

アランの幸福論をまとめると「人生は苦痛であるのだからポジティブに捉えることが大切である」とした上で人間は気分(受動的な状態)でいると「不機嫌」に関心をもってしまうため意志(能動的な状態)をもって「不機嫌」に無関心を保つようにすることこそが幸福になるための方法であるといえます。

ラッセルの幸福論をまとめると世界の中における自分の位置を正しく認識することで自分に対する過度な自意識による被害妄想から解放され仕事を通して自尊心を高めることで充実した生活をおくることであるといえます。

それぞれの『幸福論』にはそれぞれのよいところがあるのですが全てに共通していることの1つに仕事(活動)があるといえます。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは「幸福」こそ最上の善であり私たちが生きる目的は「幸福の実現」であるとした上で活動について「キネーシス」と「エネルゲイア」という2つの概念を提唱しました。「キネーシス」とは目的やゴールが未来にありそこに直線的に向かうような行為のことを指します。そのためゴールにたどり着いてしまえばそこで終わりとなるような行為ともいえます。たとえば「家を建築する」という行為は家を建てるというゴールに向かって建設作業をしますが家が建てば作業は終わります。

一方「エネルゲイア」とは行為の中に目的があり、それ自体特に決まったゴールがないような行為のことを指します。そのため「〇〇している」というこの瞬間のプロセス自体が目的となっているような行為といえます。たとえば「散歩」をするという行為は特定の目的地を目指すものではなく適当にブラブラ歩くものです。つまりこの散歩は「散歩をすること自体」を楽しむことが目的といえるでしょう。

「キネーシス」も「エネルゲイア」も生きていく上ではどちらも大切です。むしろ日々の生活を営む上では「キネーシス」の割合が多くなることが多いでしょう。しかし目標に向かって直進するだけではそこに至るまでのプロセスを無視することになり「エネルゲイア」のような活動を人生の中に位置づけることこそが人生を本当の意味で充実させることにつながるのかもしれません。アリストテレスは言いました。「真の幸福とは徳のある人生を生き価値ある行為をすることによってえられる」と。本日の旅はここまでです。ありがとうございました。

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