【現象学】君が現象学者ならカクテルについて語れるんだよ!Re:ゼロから始める哲学生活

哲学入門

今回は、哲学初心者のわたしと一緒に現象学の哲学を探求する旅に出かけましょう。哲学って、少し難しそうに感じるかもしれませんが、実は日常生活の中にも深く関わっているのですよ。一緒に考え、問いに答え、新しい視点を見つけることで、哲学は驚くほど身近に感じられるようになるのです。この旅が終わる頃には、現代社会にはびこる生き辛さの正体を知るためのヒントをきっと見つけることができるでしょう。

【超難解!現象学】君が現象学者ならカクテルについて語れるんだよ♪(Re:ゼロから始める哲学生活)

1 エトムント・フッサール

エトムント・フッサール

フッサール(1859年~1938年)はオーストリア帝国(現在のチェコ)出身の「現象学の祖」といわれる哲学者です。はじめは数学や心理学に興味をもつのですが後に哲学に転向しました。そしてフライブルグ大学ではハイデガーを現象学の後継者にするつもりでしたが、『存在と時間』を読んで方向性のちがいを認識するようになります。ハイデガーについてはこちらの記事をご覧ください。

フッサールの哲学は科学や数学を成立させている前提となるものを考える哲学といえます。デカルトも同じことを考えて「我思う、故に我あり」という有名な命題を残しました。デカルトについてはぜひこちらの記事をご覧ください。

現象学とは「現象をありのままにとらえるために意識の内面に立ち返る哲学」のことです。もう少しわかりやすく言えば「人間は主観を通して世界を客観的に認識することはできないので判断停止(エポケー)して認識のプロセスを解明しよう」ということです。現象学についてサルトルの有名なエピソードがあります。ある日サルトルが自身の哲学に悩んでいた時に友人から「君が現象学者であるならこのカクテルについて語れる」「それが哲学だ」と言われて衝撃を受けたとされています。

私たちは目の前にあるもの(客観)を意識(主観)とは独立して存在していると思っています。先ほどの話で言うとあなたがカクテルを見ている時に「カクテルがある」と思うこと(主観)に対して意識とは関係なくそこに「カクテルが存在している」ということ(客観)はそれぞれ別々であると思っていますよね?これについてフッサールは「人はものごとを無批判的に受け入れる態度をとる」と言いました。これを「自然的態度」といいます。

しかしフッサールはカクテルに関わるあらゆる事実を判断停止(エポケー)してカクテルのみ(そこにあるもの)を捉える自分の意識の中の本質を考えるべきであるとしたのです。つまりカクテルを見た時にまずカクテルがそこにあってそれを見ているわたしが「赤色だ」「お酒だ」と認識すると思いますよね?そうではなくまず「赤色だ」「お酒だ」という認識をしたうえで結果として「カクテルだ」という対象が意識されると考えたのです。この時「赤色だ」と思うような体験のことを「現出」といい、その体験を通した結果として認識されるもの(カクテル)のことを「現出者」といいます。フッサールはこのような認識をすることを「超越論的態度」といい、「自然的態度」から「超越論的態度」へと認識の転換をすることを「超越論的還元」と言いました。これはカントのコペルニクス的転回と似ていると思いませんか?カントについてはぜひこちらの記事をご覧ください。

カントも同じように考えていたのですがカントは「もの自体」を認識することはできないと考えていましたよね?しかし現象学において意識は必ず何かの対象に向けられることになると考えられておりこれを志向性といいます。そして「赤色」などの体験(現出)を通して「カクテル」(現出者)が意識されるという一連の認識プロセス全体のことを「ノエマ(志向対象)」といい、体験から推論をして認識に至る工程を「ノエシス(志向作用)」といいました。フッサールは「ノエシス」こそが全ての原点であると指摘したのです。ノエシスを解明することができれば科学や数学がなぜ成立するのかについても現象学的立場から説明できると考えたのです。このように意識の内面に立ち返るフッサールの哲学は人の内面や主観に着目したことからハイデガーやサルトルなどの実存主義にも影響を与えました。

2 モーリス・メルロ=ポンティ

モーリス・メルロ=ポンティ

メルロ=ポンティ(1908年~1961年)はフランスの哲学者です。パリ高等師範学校ではサルトル、ポーヴォワール、レヴィ=ストロースと出会い大学でフッサールの講義を受けたことがきっかけで現象学の道へ進みます。

メルロ=ポンティは科学に対して否定的で主著『知覚の現象学』において「科学は二次的な表現である」「科学は知覚された世界の1つの規定でしかない」と指摘しました。メルロ=ポンティは知覚と知覚をもたらす身体についての考察をする中でそれまでの哲学では精神と身体は別々のものとして捉えられており、精神のはたらきを重視して身体についてはあまり言及されない風潮がありました。デカルトの物心二元論においても心(精神)の属性は「思惟(考えるはたらき)」であり、体(物体)の属性は「延長(空間的な広がり)」と「運動(位置の変化)」とされて心と体はちがうものであるとされていました。

しかしメルロ=ポンティは精神が知覚するためにはまず身体のはたらきがあるはずだと考えたのです。そして師であるフッサールの哲学も批判しました。フッサールが「ノエシス」を解明しようとしたことに対して知覚には先入観が介在してしまうため、知覚そのものを捉えることはできないのではないかと考えたのです。別の人が同じものを見たとしてもちがうものだと考えてしまうことがありますよね?これはそれまでの時間(教育や文化など)の影響を受けてしまうためであり、私たちが知覚する瞬間にはそれがすでに含まれてしまうと指摘したのです。だからこそノエシスの前提となる「身体による知覚」の部分について考える必要があると言ったのです。

そしてメルロ=ポンティは身体について「幻影肢」で説明するのです。「幻影肢」とは手足を切断した人が手足のあった場所に痛みなどを感じる症状のことです。負傷した時のことを思い出して痛みを感じるのは「心」のはたらきによるものですが、脳卒中で脳神経路を切断すると引き起こされることもあるので「体」のはたらきでもあるのです。そのためメルロ=ポンティは身体とは「意識」でも「もの」でもなく外界とつながるためのものであり、心とつながるためのものでもあると考えたのです。つまり身体とは世界と自分をつなぐ媒介であると考えたのです。これを「両義的な存在」といいそれは主観と客観を対立させる二元論を克服するものとなりました。

メルロ=ポンティは哲学の中に身体という概念を位置づけることになるのですが当時の哲学の中心はサルトルの実存主義とその後に登場する構造主義でした。これらの哲学に限界が見え始めたところでメルロ=ポンティの哲学は注目されることになるのです。

3 エマニュエル・レヴィナス」

レヴィナス

レヴィナス(1906年~1995年)はユダヤ人の両親のもとリトアニアで生まれた哲学者です。ストラスブール大学に留学した時に哲学(特に現象学)にふれフライブルグ大学でフッサールとハイデガーの講義を受けます。その後博士論文「フッサール現象学における直観の理論」を提出したことがフランスに現象学を紹介する契機となりました。

レヴィナスは故郷の人々や近親者をナチスに虐殺されるという経験をもちナチスの非人道的な行為と親しい人を失ってもなお回り続ける世界に対して恐怖を感じるのです。このような体験がレヴィナスの哲学に大きな影響を与えることになるのです。

レヴィナスは「イリヤ」こそが人間の恐怖を生み出すものであると考えました。イリアとは①恐怖として体験される無意味な存在のこと②無の闇と沈黙の中に「ある」こと③自己を中心に築かれた世界のことです。つまり私という主体がなく暗闇の中にただ「ある」というだけのものが永遠に広がっているような状態のことです。第二次世界大戦をおえて故郷に戻ったレヴィナスはあらゆるものを失いまさにイリヤの中にいたといえます。そんなレヴィナスをイリヤから救い出してくれたのは「他者」でした。

レヴィナスはイリヤから脱出するためには「他者」の存在が必要であるとしました。レヴィナスの考える「他者論」においては否定することのできない絶対的な真理は存在しないとしています。なぜなら「ある真理」において考えるときに必ずその「ある真理」を否定する他者が存在するからです。そのためレヴィナスは他者のことを「無限の存在」と表現しました。他者とは自己の意識の外にいるため、理解することもコントロールすることもできない存在といえます。なぜなら自己の中で論理的に他者を意味づけしたとしてもそれは自己の中の世界における意味づけでしかないからです。レヴィナスはこれまでの哲学(主にカントの哲学)が全て自己の中で完結することに終始してしまっていると指摘しました。そして自己を起点として自己の中で全てに意味付けを行うような哲学を「全体性の形而上学」として批判してこのようなエゴイズムこそがイリヤを生み出す原因であると考えたのです。

ではイリヤの恐怖から抜け出すためにはどうしたらいいのでしょうか?レヴィナスは他者の「顔」が必要であると指摘しました。他者の顔とは①自己とのちがい②外界にさらされ無防備で傷つきやすい③発言とむすびつきあらゆる対話が可能な存在のことです。そして私たちは他者の顔と対話する時に倫理的な抵抗力によって他者に対する無限の責任をもつことになるのです。そのため他者を否定するためには殺人しかないという意味なのです。ただしそのためには「他者の顔」が見えていないことが条件となります。

レヴィナスは他者の顔と向き合うことによって他者を否定することはできなくなるので他者を尊重することによって世界が平和になっていくと考えました。他者の顔は常に「汝殺すなかれ」と訴えているのです。しかし他者のよびかけにこたえることができないこともあるはずです。そんな時には「羞恥」すなわち自分であることに対していたたまれなくなること、自分から逃げ出したくなるような思いにかられるのです。そうなると私たちは内面を崩されてしまい自分(自己完結する世界)を越えたものを求めるようになると考えたのです。そのためレヴィナスは「私とは他者に対して無限の責任を負うものである」と言いました。そして世界は自分中心で回っているわけではなく私たちは他者によって生かされているのであり、他者の存在こそが私を倫理的にしてくれると考えたのです。

4 まとめ

現象学の祖であるフッサールは超越論的還元によってものごとを判断停止(エポケー)して意識の内面(ノエシス)を解明することを試みました。その後メルロ=ポンティは知覚するための身体の必要性を提唱し、レヴィナスは現象学的な立場から他者の存在を規定してイリヤから抜け出すための他者論を考えたのです。

あまりに難解すぎる現象学ですので今回は簡単に紹介することしかできませんがとても興味深い哲学思想だと思うのでぜひ詳しく調べてみてください。次回もこれまで紹介することのできなかった哲学思想についてまとめる予定です。ぜひご期待ください。本日の旅はここまでです、ありがとうございました。

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